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きみが育てた無形の怪物


 たった数時間、目を離した隙の出来事だった。
 宮殿内の廊下の片隅にそれは落ちていた。無惨なまでに切り裂かれた身体から流れる大量の血液が床を濡らし、壁や天井にまで飛び散っている。その血溜まりの中に横たわる女は、もうピクリとも動かなかった。
 この惨状を生み出した者の姿はない。おそらく腹を空かせたキメラアントの仕業だとピトーはすぐに悟った。キメラアントが占拠する宮殿内で人間が捕食される光景など珍しくもない。普段のピトーならば気にも留めず素通りするところだが、この時ばかりは違った。
 死体の傍らにしゃがみ込み、ピトーは女の顔を覗き込む。その表情は恐怖に引き攣り、頬には涙と鼻水の跡がくっきり残っている。数時間前までピトーの姿を映していた両目は、今は虚ろに見開かれたまま何も捉えてはいない。
 無意識のうちにピトーの手が伸びて女の頬に触れると、まだ僅かに温もりが残っている気がした。しかしそれもすぐに失われていくだろう。このまま放っておけばやがて肉が腐り落ち、後には骨しか残らない。そしてその骨もいずれは風化して消え失せる。それが人間という生き物の末路だとピトーは理解していた。
 これまで数え切れないほど触れてきた人間の死を前にして、ピトーの中で何かが疼いた。それは今まで感じたことの無い奇妙な感覚で、それが何なのかピトー自身よく理解していなかった。ただ、決して心地の良いものではないことだけは確かだった。

「なーんか引っかかるニャ」

 ピトーの尻尾がゆらゆらと揺れる。女の亡骸を見下ろしながら、ピトーは自分の中に生じた違和感の正体を探るべく思考の海に潜っていった。





 女はコムギの世話係だった。レアモノでもなんでもないただの人間。ピトーにとっては餌にすらなり得ない小物に過ぎず、当初はその存在を認識していなかった。それが変わったのは、王の命令がきっかけだった。

『──コムギと世話係に目を配れ』

 そう命じられ、ピトーは内心首を傾げた。近頃の王がコムギという盲目の少女に特別な関心を持ち始めていることはピトーの目にも明らかであり、彼女の身の安全のためにもそうした命令を下すのは理解できるが、世話係の方まで監視する理由がよく分からなかったからだ。とはいえ王の命令は絶対であり、その指示を疑問視するような愚行を犯すつもりはなかった。

『仰せのままに』

 その一言で十分だった。

 その日からピトーはコムギとその世話係の動向を把握するようになった。といっても特に何か行動を起こすわけではなく、いつもの見張り役のついでに気配を探る程度だ。基本的に二人は行動を共にしており、王との対局時に限り世話係は別室で待機していた。それ以外の時間はずっと付きっ切りで過ごしているようで、ピトーの目から見ても二人は親密な関係を築いているように見えた。王がコムギだけではなくその世話係まで目を配るように命じたのは、世話係が死ねばコムギが悲しむと踏んだからだろう。ピトーは王の意向を汲むことはできたが、だからといって自身の価値観に変化が生じることはなかった。ピトーにとって人間はただの食料だ。それ以上でも以下でもない。そしてそれは今後も変わることはないはずだった。

 ある日の対局中のことだった。王の側に控えていたピトーは、自身の円の中で異変を感知した。いつもは待機部屋にいるはずの世話係がなぜか廊下に出ており、キメラアントと接触したのだ。キメラアントは明らかに獲物を狙う動きをしており、ピトーは即座にその場を離れ世話係のもとへと向かった。そこで見たものは、今まさに喉笛を噛み切られようとしている世話係の姿だった。間一髪のところでキメラアントを仕留めたものの世話係は瀕死の重傷を負っており、ピトーはすぐさま念を発動させた。治療を行う最中、ピトーは人間とは脆弱な生き物だとつくづく思った。この程度の傷でここまで苦しんでいるなど、まるで羽虫ではないか。これではいつ死んでしまってもおかしくはない。宮殿にいる蟻兵に手を出さぬよう厳命するべきだろうか。だが、ただでさえ見分けがつきにくい人間の区別が彼らにつくとは思えない。そんなことを考えながら、ピトーは世話係の治療を続けた。
 数十分かけて全身の傷を癒やし終えると、やがて世話係は意識を取り戻した。数秒の間ぼんやりとしていたものの、ピトーの姿を認めた途端明らかに怯え始めた。まるで恐ろしい怪物でも目にしているかのように顔を引き攣らせ、体を小刻みに震わせている。彼女に襲いかかったキメラアントと勘違いでもしているのか、何にせよピトーにとっては至極どうでもいいことだった。
 ピトーは女の様子を無感動に眺めた後、忠告した。

『一人で行動するな』

 女の反応を待つことなく踵を返し、元の場所へと戻った。それから間もなくして王は投了を宣言し、対局は終了した。

 その日を境に、女の動向に変化が生じた。それまで対局中は別室で控えていることがほとんどだった彼女が突如として宮殿内を徘徊するようになったのだ。円の中でうろちょろする気配に、ピトーは羽虫が顔の周りを飛び回るような鬱陶しさを感じた。だが、それ以上に不可解だった。なぜ昨日あんな目に遭ったにも関わらず危険な場所に出向くのか。理解に苦しむ行動だった。
 その後も一向に大人しくならない女の様子に業を煮やしたピトーは、直接問い質すべく彼女のもとへ足を運んだ。

『ねえ、キミ死にたいの? 一人で行動するなってボク言ったよね』

 背後から声をかけると、女はビクッと肩を大きく跳ね上げた後振り返り、そしてピトーの顔を見るなり駆け寄ってきた。

『あのっ、私、あなたに会いたくて……っ!』

 息急き切って発せられた言葉に、ピトーは首を傾げる。女は震える声で続けた。

『昨日は助けてくださりありがとうございました。あなたは命の恩人です。だからどうしても直接お礼が言いたくて……それで、あなたのことを探していたんです』

 ピトーは女の言い分に耳を傾けたが、その内容はピトーの理解の外にあった。自分に礼を言うためだけにわざわざ危険を冒したというのだろうか。馬鹿げている。
 ピトーの冷ややかな視線を受けて、女は狼狽する様子を見せた。その瞳には隠し切れない怯えの色が滲んでいたが、それでも真っ直ぐにピトーを見つめ返した。

『あなたには本当に感謝してるんです。ここではもう誰も助けてくれないと思っていたから……』

 女は涙を浮かべながら切々と訴える。その様は感謝しているというよりも、むしろ哀願に近い印象を受けた。
 そこでようやくピトーは理解した。驚くべきことにこの女はピトーに縋り付こうとしている。目の前の相手を残忍な化け物だと恐れつつも、自分の命を助けてくれた存在なのだと信じることで救われたいと望んでいる。つまりこの女は、自分が生き長らえるためにピトーを利用しようとしているのだ。なんて命知らずで愚かしい考えだろう。ピトーは呆れを通り越して感心さえした。
 しかし同時に興味も湧いた。そうまでして生き延びようとする女の生への執着に。そして、この脆弱な生き物がこの先どうやって自分に取り入ろうとするのか見てみたいと思った。それは実験動物を観察するような好奇心であり、そういった欲求はピトーに元来強く備わっている気質でもあった。
 ピトーは薄く笑みを浮かべ、女の顔を覗き込む。その瞳が恐怖に染まるのを眺めながら口を開いた。

『じゃあさ、助けたお礼にボクの話し相手になってよ』

 ピトーの申し出に、女は一瞬呆けた顔をした。しかしすぐに気を取り直し、こくりと大きく首を振る。企みがうまくいったとでも思っているのだろうか。その表情からは安堵が読み取れ、ピトーは思わず笑い出しそうになった。
 その日から、ピトーと女の奇妙な交流が始まった。

 ピトーは王の対局時に世話係のもとを訪れ、彼女と話す時間を設けた。女が一体どんなやり方でピトーに近づこうとするのか見極めるためだ。しかし予想に反して女は何の策も弄さなかった。媚び諂うことも何かを強請ることもない。ただありのままの自分をさらけ出して接してくるだけだった。
 例えばそれは他愛もない世間話だったり、身の上話を語ることだったりした。その内容はどれも取るに足らないものばかりで、ピトーにとっては無益な情報に過ぎない。だが、不思議と退屈だと感じることはなかった。
 初めこそ緊張の面持ちでピトーと接していた女だったが、次第にその態度は軟化していった。いつしかピトーに親しげな笑顔を向けるようになり、時には冗談を口にすることさえあった。ピトーが危害を加える可能性など微塵も考慮していないらしい。女の浅薄さに呆れる一方で、そんな彼女の単純さを面白く思う気持ちもあった。今までこれほどまでに無防備に接してくる人間は存在しなかったからだ。気付けば女との交流がピトーにとって丁度良い暇潰しになっていた。

 ある日のことだった。女は故郷の村で起きた出来事を懐かしむように語っていたかと思えば、不意に目を伏せて呟いた。

『お母さんに会いたいな』

 その一言に、ピトーは首を傾げた。女の発言の意図が分からなかったからだ。哀願するわけでも泣き喚くでもない。独り言のように漏らされた言葉からは深い諦念が感じ取れた。
 母親に会いたいという気持ちはピトーには理解し難いものだった。ピトーにとって母とはすなわち女王のことであり、王を産んだことでその役割は終えている。ピトーの中では既に過去の遺物と化した存在だった。
 だが女にとっては違うようだ。ピトーは自分とは異なる感性を持つ人間の思考回路に興味を抱き、そのまま疑問を投げかけた。なぜ役目を果たした者を恋しく想うのかと。すると女は信じられないといった様子で目を見開いた後、怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべた。
 女はピトーの問いに答えることなく、視線を落とす。そして長い沈黙の後、絞り出すようにして言った。

『少しだけ、一人にしてもらえませんか』

 それは女が初めて見せた拒絶の意志だった。

 以来、女の態度は目に見えて変化した。それまでの砕けた態度は鳴りを潜め、どこかぎこちなさが漂うようになったのだ。あの日の出来事が原因であることは明らかだった。
 女の変化は、ピトーにとって好ましいものではなかった。女との気兼ねないやりとりが娯楽の一つとなっていただけに、それを取り上げられてしまった気分になったからである。それでも数日の間は放っておいたのだが、一向に改善する兆しを見せないため何かしらの手を打とうと思い至った。
 ピトーは考えた末、人間たちがよく使っていた言葉を思い出し、それを真似てみることに決めた。

『この間のこと嫌だったなら謝るニャ。ゴメンね』

 効果は絶大だった。女は雷に打たれたかのように硬直した後、我に返った様子で顔を上げ、そしてピトーを見つめた。その瞳は驚愕に染まっていたが、やがて涙を滲ませていく。女は何度も首を横に振り、ピトーの謝罪を受け入れる意思を示した。

『嫌だったわけじゃなくて、悲しかったんです』
『悲しい?』
『はい。分かり合えないことが、とても』

 ピトーは女の真意を掴みあぐねる。この女は一体何を言っているのだろう。
 女は逡巡するように視線を泳がせた後、意を決した様子で口を開いた。

『でも私、あなたとこうやって話せなくなる方が辛いみたいです』

 そう言って女はピトーを見据える。その眼差しに込められた熱に気づいたピトーは内心驚きを覚えた。どうやらこの女は自分に対して特別な感情を持ち始めているらしい。信じ難いことだが、そう考える他に解釈しようがなかった。
 そこでピトーはある仮説を立てる。この女が自分に好意を抱く理由は、ある種の防衛反応によるものではないかということだ。いつ命を落とすかも分からない状況下で、恐怖を紛らわせるために他者へ依存することで精神の安定を保とうとする。その手段として最も手っ取り早いのが恋愛感情だ。この女もそういった類の現象に陥っているのかもしれない。そう考えれば納得がいった。
 ピトーは改めて人間の複雑さを実感するとともに、目の前のひ弱な生き物に対する興味が急速に膨らんでいくことを自覚した。もっと知りたい。この女がどこまで自分のことを受け入れられるのか試してみたい。その欲求に抗うことなどできるはずもなかった。
 ピトーは女の身体を引き寄せると、その頬をぺろりと舐めた。女は驚いたように息を飲み、ピトーの肩を押し返す。しかしピトーはそれを許さず、女の耳元で囁いた。

『ボクと分かり合いたいんだよね?』

 その問いかけに、女は躊躇を見せた。ピトーは女の顔を覗き込みながら、もう一度同じ質問を繰り返す。女は悩んだ末に小さく首肯した。
 ピトーは満足げな笑みを浮かべ、再び女の頬に舌を這わせた。だがすぐに舌先に血の味が広がっていくのを感じ、顔を離す。舐めたところが擦り傷になっているのを見てその脆さを再認識した。だがそれがかえって新鮮だった。
 ピトーは女の手を掴んで持ち上げる。その掌は汗ばみ、小刻みに震えていた。その瞬間、ピトーは確信する。やはりこの女は自分のことを怖れているのだと。だが、それでもピトーを受け入れようとしている。自らの心を騙すことまでして。なんて健気な生き物なのだろうと、ピトーは言いようのない興奮を覚えていた。
 それからというもの、ピトーと女の交流は一層濃密なものへと変化していった。

 ピトーは女との逢瀬を重ねるたび、触れ合う箇所を増やしていった。最初は手を握る程度だったが、今では女の膝に頭を乗せてくつろぐのが当たり前になっている。ピトーにとって人間の体温は心地良く、不思議と安心感を覚えるものだった。だからそれを求めた。そして女もそれを拒むことはなかった。むしろピトーが甘える仕草を見せるたびに嬉しそうな表情を覗かせるほどだった。
 肌を重ねるようになるまでに時間はかからなかった。繁殖目的ではない疑似交尾はピトーに新鮮な刺激をもたらし、いつしかそれは新たな楽しみとして習慣化していった。ピトーは女と交わりながら、その肉体を通して様々なことを知った。しかしやはり問題となるのは女の脆弱さだ。ほんの少し力加減を間違えれば簡単に壊れてしまう。ピトーは細心の注意を払っていたが、それでも毎回のように女の肉体のどこかしらを損傷させていた。その度に念を発動させて修復を施す。その繰り返しだった。
 女は痛みに顔を歪め時には涙を流しながらも決してピトーとの行為を拒もうとしなかった。それどころか積極的に受け入れようとする素振りさえ見せた。ピトーにとっては好奇心の延長線上にある行為に過ぎないが、女にとっては違うのだろう。ピトーはそう考えていた。しかしピトーにとってはどうでもいいことだった。女が何を思い、何を考えていようと関係ない。ピトーが知りたいのは、女の献身がどこまで続くかということだけだ。

 ある日、いつものように女の膝の上でその温もりに身を委ねていた時のことだった。ピトーの頭を撫でていた女の手が不意に止まる。不審に思って顔を上げると、そこには興味深げな深げな視線があった。女は何かを言いたそうにしている。ピトーはそれを察して促すように首を傾げた。

『あなたたちって、同じ種族なのに見た目が全然違うのね』

 女はピトーの頭部の耳に触れて言った。退屈な話題だと思ったが、一応返事をする。

『人間はどれも似たり寄ったりの見た目で区別つかないニャ』
『でも、私のことは見分けがつくでしょう?』

 思わぬ切り返しにピトーは一瞬言葉を失う。確かに言われてみるとそうだ。この女だけははっきりと見分けがつく。外見はもちろんのこと、声や匂いに至るまで。何故だろうかと考えてみるも答えは出てこなかった。
 黙っているピトーを見て何を思ったのか、女は微笑んで言った。

『私はそれで十分なの』

 その言葉の意味がピトーには分からなかったが、女の言葉はピトーに小さな波紋を生んだ。それは胸の奥で微かに揺らめく程度のものではあったが、今まで感じたことの無い感覚だった。不快ではないが妙に落ち着かない気分になる。まるで慈しむかのような女の眼差しもそれに拍車をかけていた。
 ピトーはその視線から逃れたくなって目を閉じた。すると今度は先ほどよりも優しく頭を撫でられ、余計に居心地が悪くなる。耐えきれなくなったピトーは無言のまま女の膝から抜け出した。女が名残惜しそうな声で引き留めてきたが無視する。そのままベッドから離れ、逃げるように部屋を出て行った。

 ピトーは漠然とした苛立ちを覚えていた。以前よりも女の存在を意識するようになっていたからだ。これまで何の感慨もなく追っていた気配にも敏感に反応するようになってしまい、それがまた腹立たしい。
 なぜあの女だけ明瞭に認識できるのか。それは単純に他の人間と比べて接触する機会が多かったからだろうとピトーは結論付けた。では、女が向けてくるあの眼差しは一体なんなのか。まさか本気で愛情を抱いているとでもいうのか。そんなはずはない。女がピトーに寄せる好意は、強者の庇護下に入り安寧を得たいという本能的な欲求からくるものだ。一時的な感情の高ぶりによる錯覚に過ぎない。少し突けばすぐにボロが出るだろうとピトーは踏んでいたが、いつまで経ってもその兆候は見られなかった。それどころかますます親密さを増しているように見える。それが不可解でならない。女の底知れぬ許容が、ピトーの心に波風を立て続けていた。
 このままではいけない。王直属護衛軍である自分がたった一人の人間ごときに翻弄されるなどあってはならないことだ。ピトーはそう思い、ある行動に出た。

 いつもの戯れを済ませた後、ピトーはぐったりと横たわる女に尋ねた。

『ねぇ、まだ母親に会いたいと思う?』

 女の身体がピクリと震える。そして緩慢な動作で上半身を起こすと、窺うようにピトーの顔を見た。ピトーは女の返事を待たずに続ける。

『ボクが連れ出してあげようか』

 女は驚きの表情を浮かべた。突如もたらされた提案を呑み込めずにいるようだった。しかし徐々に意味を理解し始めると同時に、その目が期待に染まっていく。ピトーは内心でほくそ笑んだ。
 もちろん連れ出すつもりなどない。女の最も欲するものをちらつかせ、その反応を見るための方便に過ぎない。無様に縋り付く女の姿を見れば少しは溜飲が下がるだろうと考えたのだ。あわよくばこの女への関心を断ち切れるかもしれないという思惑もあった。ピトーは獲物が餌に食いつく瞬間を静かに待った。
 だが、ピトーの期待に反して女の反応は芳しくなかった。固い表情で目を伏せ、弱々しく首を横に振ってみせる。ピトーは困惑した。女にとっては願ってもない提案だったはずだ。何故拒むのか。その理由が分からない。

『母親に会いたくないニャ?』
『会いたいよ。けど、あなたには頼めない』
『どうして?』
『だって……』

 女がおもむろに顔を上げる。互いの視線が交差する。その時、ピトーは気付いた。女の眼差しの深さに。その奥に潜む強い意志に。ピトーは女の目に吸い込まれるような錯覚を覚えた。

『あなたには守るものがあるから、ここを離れられないでしょう』

 ピトーは思わず息を呑む。同時に言い表しようのない衝撃が全身を駆け抜けた。そして悟る。自分が今まで見てきたものは女の表層に過ぎなかったということを。逆に女の方はピトーの本質を捉えていた。全てを知った上で受け入れていたのだ。
 その事実がピトーを激しく揺さぶった。今すぐ女の頭を切り開いてその中身を隅々まで調べ尽くしたい衝動に駆られる。しかし実行に移すことはできなかった。まるで金縛りにあったかのように身動きが取れず、視線を外すこともできない。ピトーは生まれて初めて動揺というものを経験した。
 女がゆっくりと手を伸ばしてくる。ピトーはその手を払い除けることも忘れて呆然と眺めていた。

『そばにいて、ピトー』

 女はピトーの顔を引き寄せると、額に触れるだけのキスをした。
 ――人間とは、かくも御し難い生き物なのか。
 脆弱で矮小な存在でありながらその精神性はピトーの想像を絶している。ピトーは女の心に踏み込みたいと強く思った。それは単なる好奇心ではなく、明確な欲求だった。ピトーはこの時はじめて女という個体に対して興味を抱いたのである。

 しかし、それから程なくして女は無惨な姿となって発見された。





 ――ピトーは思考の海から抜け出すと、再び女の亡骸に目を向けた。
 結局のところ、彼女は失敗したのだ。生き残るためにピトーに近づいてきたが、結果はこの有様。弱者には当然の末路だろうとピトーは思った。
 しかし一方で、女に対する関心が薄れていないことにも気付いていた。胸に蔓延る違和感の正体も未だに掴めていない。なぜ自分はこれほどまでに女の存在が気に掛かるのか。もう死んだ人間のことなどどうでもいいではないか。そう思いながらも、ピトーは女の傍を離れることができなかった。
 もう一度女の頬に触れる。そこにはもう温もりは残っておらず、ただ冷たく滑らかな感触があるだけだった。その瞬間、ピトーの中で名状し難い感情の奔流が巻き起こった。それは激情と呼ぶに相応しいものだったが、ピトーはすぐさま切り捨てた。王直属護衛軍として不要な感情だと判断したからだ。
 女を見下ろすピトーの眼差しが徐々に変化していく。無感情に、無機質に、ただ目の前にあるものを眺めるような目つきへと。

「……やっぱり人間って脆いニャ」

 そう結論づけ、ピトーは女への関心を終わらせた。
 すぐさま立ち去ろうとしたが、ふと思い立って念を発動させる。死体を修復するのではなく、拾い上げるために。何故そうしたのか自分でもよくわからない。ただここに放置しておくよりも手元に置いておく方が自然だと思えたからだ。ピトーは女の亡骸を余すことなく拾い上げ、その場を後にした。





 ――拳が眼前に迫っていた。
 ああ、自分はここで果てるのか。ピトーは迫り来る死を実感しながらも、その心は凪いでいた。王の脅威となり得る存在を食い止められたのだ。王を守る者としてこれ以上の名誉はない。ピトーは己が生まれてきた意味を全うできたことに満足していた。
 振り下ろされる拳が頭部を破壊するまでの刹那、ピトーの脳裏に様々な記憶が去来する。それは所謂走馬灯と呼ばれる現象だった。そのほとんどが王との記憶だ。王の誕生の瞬間。王から授かった言葉の数々。そしてあの時、王に託された使命。全てが鮮明に映し出される。
 そのほんの一瞬の狭間に、一人の人間の姿が浮かび上がった。あの世話係の女だ。なぜこんな時に彼女の顔が過ぎるのか。疑問に思う間もなく、その答えは明白だった。ああ、そうか。そういうことだったのか。そこでピトーはようやく理解する。自分があの女に抱いていた感情の正体に。きっとあれは――。
 その瞬間、ピトーの身体に凄まじい衝撃が加わった。

 ピトーが最期に自覚した感情は、誰にも知られることなくその身と共に砕け散った。


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