あなたの欠片が苦しいの 2
イルミの感情が体内から完全に抜けるまで丸三日はかかる。初日は起き上がることもできない。二日目からようやく動けるようになって、そこからは寄せては返す苦痛の波に歯を食いしばって耐えるしかない。
何よりも堪えがたいのが、感情が抜けるまでの間ずっと持ち主であるイルミの姿が脳裏に浮かぶことだ。どこにいても、何をしていてもあの憎たらしい顔が頭から離れていかない。しまいには夢にも出てくる始末。この三日間は、まさに地獄と言えた。
三日目の朝。なんとか起き上がって、ふらつきながらリビングへと向かう。いつも辛いけど今回も例に漏れず辛かった。毎度毎度もう二度とやるもんかって思うのに、机に無造作に置かれたお札を見るとそんな気も失せるのだから自分でも現金な性格だと思う。
ズキズキと痛む頭を押さえながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだす。冷えたそれを手に持って、ソファに深く腰かけた。
「あー……くっそ、まただよ………」
この場所で数日前に味わった不快感が蘇る。纏わりつくようなイルミの視線。いつもそうだ。感情を受けとる際は、少しの変化も見逃さないとばかりにじっと凝視してくる。いくらやめろと言っても聞きやしない。
(昔はあんなに嫌がってたくせに)
母に感情をとられて不服そうに眉を顰める幼いイルミを思い出す。弟への執着を手放すことはイルミの本意ではなかったはずだ。それがどうだ。今はむしろ喜んで明け渡してきている気がする。どういった心境の変化か知らないが、受け取る側の負担の重さに変わりはない。
「はぁ……」
抗えないイルミの影に、深いため息がもれた。
明日になれば、きっとこの苦痛も終わるはず。そうしたら自然がたくさんある場所に出かけよう。空気のいいところでリフレッシュしたい。明日の自分の姿を思い描きながら、徐々に意識を手放していった。
ふいに目が覚めた。何か冷たいものにでも撫でられたような気がして身じろぐと、手の先にザラザラとしたものが触れる。少し硬いその感触から、昨日そのままソファで寝てしまったのだと理解した。うっすらと目をあけると、うつつな網膜に何かが映り込んだ。
「あ?」
頭の半分はまだ眠りの領域に留まっている。だが次第に、視界を占拠するものの実体が明らかになって眠りのふちから叩き出された。
「うわあああ!!!」
おどろきのあまりソファから転がり落ちる。腰を抜かさんばかりに驚く私の姿を、イルミは表情ひとつ変えずに見下ろしていた。
「えっ、なにっ、なんで」
「おはよう。ずいぶんと魘されてたみたいだけど悪い夢でもみた?」
目が覚めたらイルミがいる異常事態。夢と現実の区別がつかず頭がクラクラする。しかし、固いフローリングの感触と、体が竦むほどの嫌悪感が、これが現実だと教えてくれた。
驚きから抜け出せず固まる私に向かって、イルミは冷ややかに言った。
「呼んでも出てこないから入らせてもらったよ」
「なっ!? いやっ、ちょっ……」
おいおいふざけるな。なにが入らせてもらっただよ。不法侵入だろうが! そう言ってやりたいのに心臓が激しく動悸するせいでうまく言葉にできない。目覚めにイルミとか心臓に悪すぎる。
「何の用?」
「仕事の依頼」
「はぁ?」
思わず、壁にかけられた時計を見る。時刻はまもなく二時。昼間じゃなくて、夜中の。
(ぶ、ぶん殴りてぇ〜!!)
ひどく腹が立った。こんな夜更けに訪ねてきて、寝室まで押し入ってきて、前回から三日しか経っていないのに仕事を頼んでくるその無神経さに。
怒りを込めてイルミを睨み上げる。この男相手に意味ないと分かっていても、殺気立つのを抑えられなかった。
「断る。無理に決まってんでしょ」
「三日待ってやっただろ?」
「その前も三日しか空いてないでしょうが! そんな連続でできるか!」
「それだけ大声出せるならいけるね」
真っ向から見下ろす目はいいから早くやれと無言の圧力をかけていた。あまりに身勝手な振る舞いに、心の中で蟠っていた不平不満の思いがはじけ飛んだ。
「やってられるか」
そう吐き捨てれば、イルミが眉を吊り上げた。次に私がなにを言い出すのか面白がっているように見える。その態度がさらに火に油を注いだ。
「執着するのは勝手だけど私に押し付けるな! いいかげん別のやり方で昇華しろ!」
このブラコン野郎! という罵りは胸中に留めておく。さすがに命は惜しい。
宣言した瞬間、イルミの目がぐわっと見開かれる。ただでさえ不気味なのに、そうなるとおぞましいの一言に尽きた。
「へーすごいこと言うんだね、お前」
「はぁ?」
笑い混じりの声でそう言われる。どういう意味だ?
「よし。ナマエの言う通り別のやり方でやってみよう」
イルミがぽんと手を打つ。なんともわざとらしいその仕草を訝しく思っていると、次の瞬間には天井が見えた。髪の毛で表情が見えないイルミの顔と、イルミごしの、天井。