あなたの欠片が苦しいの
ああ、気持ちが悪い。息をするたび吐き気がこみあげる。鼻にも口にも、喉のずっと奥にも泥がずしりと詰め込まれているみたいだ。まるで呪われているような感覚に苛まれながら、ベッドの上をのたうちまわった。
「くたばりやがれ……」
昼間見たあの忌まわしい面を脳内でめった刺しにしたけど、心はちっとも晴れやしなかった。
世の中には変わった職業が数多く存在するけれど、私の仕事もかなり変わった部類に入るだろう。なんたって他人の感情を引き受けるのだから。人の持つあらゆる感情を肩代わりする。オカルトじみたこの能力は一子相伝らしく、母も祖母も同じ力をもっていた。その力を使って仕事をする母をずっとそばで見てきた。だから、大人になったら私も同じ仕事をするのだろうと信じて疑わなかった。
幼い頃。よく母の仕事場に連れてこられては、見るからに堅気じゃない客たちに挨拶させられていた。今思えば後継者たる私の顔を売るためだろうけど。その中には、かの有名なゾルディック家もいた。初めて接触したのは十年以上前のこと。ある日、やたらと迫力のある銀髪の大男と、私とそう年の変わらない少年が訪ねてきた。まったく似ていないがふたりは親子だという。シルバと名乗った男が母に言った。『息子の弟への愛情を取り除いて欲しい』と。曰く、少年が異常なほど弟に執着してしまうとのことだった。一見すると感情に乏しいように見えるのに、そのギャップにゾッとしたのをよく覚えている。この少年が、ゾルディック家の長男であるイルミ=ゾルディックだった。
感情の引き受け手は、受けとる感情の種類によっては何らかの体調不良を起こす。金を払ってでも明け渡したい感情なんて碌でもないものがほとんどだったから、仕事を終えたあとの母はいつも憔悴していた。なかでもイルミの感情はとびきり悪質で、毒でも飲んだかのようにもがき苦しむ母の姿を何度も見てきた。幼い私にとって、イルミ=ゾルディックは母を苦しめる悪魔そのものだった。
しかし、その悪魔はある日を境にぱったりと姿を現さなくなった。弟への執着が薄まったのか、感情をコントロールできるようになったのかは知らないが。とにかくこれでもう母がイルミに苦しめられることはない。私は心の底から安堵した。
――しかし数年の歳月を経て、イルミはふたたび私の前に姿を現した。
「や。今日もよろしく」
「……いらっしゃい」
まだ記憶に新しいその姿が店先に現れて、たまらなく呪わしい気持ちになる。
(三日前に来たばっかりだろうが! 大概にしろこのブラコン野郎!)
心のうちで盛大に悪態をつく。口に出さないだけで顔には嫌悪感が露わになっていることだろう。だがそれを気にするような男ではない。イルミは勝手知ったる顔で部屋を闊歩すると、中央に置いた革張りのソファに腰をおろした。不快。まことに不快だ。
――母のあとを継ぎ、正式な店の主として働き始めたその日にイルミは現れた。数年ぶりに再会したイルミは背も髪も随分伸びていて、すぐには誰だか分からなかった。しかし開口一番に言われた『親父にまたやってこいって言われてさ』の一言で、かつて母を脅かしていた存在のことを思い出した。喜ばしい再会ではなかったが、客であることに変わりはない。これからひとりでやっていけるのかと不安に思っていたのもあって、私はイルミの依頼を受けた。断ればよかったと、今では後悔している。
お気に入りのソファに我が物顔で座るイルミの横顔を睨みつける。あぁ、いやだ。これから起きることを考えると憂鬱で仕方ない。どうにか回避できないものだろうか。そんなことを考えていたら、昔から苦手な真っ黒い目がこちらに向けられた。
「まだ? 早くしてくれる?」
傲岸な態度にイラッとする。幼い頃に抱いたイルミへの嫌悪感はまったく色褪せることなく私の中に残っていた。再会してからは、そこに新たな負の要素がどんどん積み重なっている。
「あのー、来るなら事前に連絡くらいしてくれませんかねぇ? こっちにも都合ってもんがあるんで」
「どうせ客なんて来ないだろ」
ぴき、と額に青筋がたつのを自覚する。腹立たしいことこの上ないが事実なので言い返せない。
以前は捌き切れないほど依頼があったのに、私の代になってからはぱったりと途絶えてしまったのだ。理由は分からないが、おそらく代替わりして見放されたのだろう。こんなことになるなら小さい時にもっと愛想よくしておけばよかったと深く後悔した。
とにかく客がこない。客がこないということは儲けがない。儲けがなきゃ生けていけない。生きていくためには、どんなに嫌な仕事でも引き受けなくちゃならないんだ。
「やればいいんでしょやれば!」
やけっぱちに吐き捨て、イルミに近づく。その勢いのまま筋張った手の甲にふれると、覚えのあるおぞましさが襲ってきた。
(ほんと、強烈……っ!)
全身から目に見えない粘液が滲み出ているような不快感が押し寄せる。堪え難い感覚に苛まれ、生理的な涙が浮かんだ。ぼやけた視界の中でもイルミからじっと見られてるのがわかって余計に気分が悪くなる。
イルミの中で蟠る感情を吸い尽くしたのを感じて、ようやく手を離した。
「……金、そこ、置いといて」
なんとかそれだけ絞り出して、倒れるようにソファに座り込んだ。まるで脳みそをスプーンでかきまぜられてるみたいだ。寝室に引っ込みたかったけどとても歩けそうにない。あ、やばい吐きそう。
こみ上げる吐き気に堪えている間もずっとイルミはそこにいた。うっとうしい。用が済んだならさっさと消えろ。
「つらそうだね」
妙に嬉しそうな声色でそう言われ殺意がわく。なんとか首をもちあげてイルミを睨むが、平坦な眦が愉悦にゆがむさまを見て嘔吐感が増した。うげ、見るんじゃなかった。
心のうちで呪詛を唱えながら、蝕む感情の波にひたすら耐え続けた。