4:00 A.M.
※死ネタ注意
何かを叩く硬い音で目が覚めた。そろそろと瞼を持ち上げると、薄闇の中に見慣れた天井がぼんやりと見える。天窓に嵌め込まれた曇りガラスの向こうは暗く、夜明け前なのだと分かった。
ベッドの上で上半身を起こしながら、今の音は何だったのだろうと考える。寝起きのせいで頭が働かず、すぐに答えが出てこなかった。するとまたコンコンという音がして、ようやく玄関の扉を叩かれているのだと分かった。こんな時間に誰だろうと首を傾げ、数秒経ってからハッとする。
もしかして――そう思い至った瞬間、私はベッドから跳ね起きた。急いで部屋を出て階段を駆け下り、玄関まで走る。両手を伸ばして取っ手に指をかけようとしたとき、向こう側からドアノブが回された。ゆっくりと押し開かれた扉の向こうには、やはり思ったとおりの人物が立っていた。
「クラピカ!」
気がついたときには彼に抱きつき、その胸に顔を押し付けていた。私が抱きついていることに驚いているのか、クラピカは身動きひとつしない。それでも構わず彼の背中に腕を回し、強く抱きしめた。
ああ、本当にここにいるのだ。夢でも幻でもない、本物のクラピカだ。クラピカが私のところへ帰ってきてくれたのだ。
「クラピカ、クラピカ……っ!」
私はまるで子供みたいに泣きじゃくりながら、繰り返し彼の名前を呼び続けた。
どのくらいの時間そうしていただろうか。私たちの間に流れていた時間は、とても長かったように思う。でも実際にはほんの数秒間の出来事だったかもしれない。いずれにせよ私にとっては、彼の存在を確かめるために必要な時間だった。
私たちは家の中に入り、ダイニングテーブルに向かい合って座っていた。コーヒーでも淹れようかと思ったけど、水道料金を払っていなくて水が出ないことを思い出した。最近は何をするのも面倒で、部屋の中も酷い有様だった。およそ人間らしい生活を送っていなかったことを改めて実感して恥ずかしくなる。
呆れられただろうかと心配になり、恐る恐る顔を上げる。クラピカは何も言わずに黙っているだけだった。感情を押し殺すように唇を引き結び、ただ一点だけを凝視している。気安く声をかけられる雰囲気じゃなくて、私はしばらく俯いていた。
静寂に満ちた室内で、時計の音だけがやけに大きく響いている。
どうしてクラピカは何も言わないのだろう。不安になった私はもう一度視線を上げ、彼の様子を窺った。薄暗い部屋の中でも、クラピカの顔色がひどく悪いことだけはわかる。頬がげっそりとこけて、目の下には深い隈ができていた。最後に会ったときよりもだいぶ痩せているようで、スーツの袖口から覗く手首は驚くほど細い。
同胞の眼を取り戻すために彼がどれほど過酷な戦いを強いられてきたのか想像するだけで胸が痛んだ。なんて声をかけたらいいか分からなかったけど、とにかく何か言わなければと思い口を開く。だけど言葉を発する前に、クラピカが沈黙を破った。
「遅くなってすまなかった」
ぽつりと呟くような声で、彼が言った。ううん、と私は首を振る。
「いいの。こうして帰ってきてくれたんだもの」
「ナマエは……」
そこで一旦言葉を切ったクラピカは、ゆっくりと息を吐き出す。そして少し間を置いてから、続きを話し始めた。
「私のことなど忘れて、幸せに暮らしていると思っていたよ」
クラピカの言葉を聞いて、私は再び首を振った。そんなわけがない。クラピカのことを思わない日はなかったし、彼がいない日々は苦しくてたまらなかった。もう二度と会えないのではないかと何度も考えた。でもそれをどう伝えればいいかわからず、私は無言のまま彼を見つめ返した。
クラピカはもう一度「すまない」と繰り返した。まるで自分の罪を懺悔するように、深く項垂れながら。
やがて埃をかぶったテーブルの上にポタっと雫が落ちてくる。すぐに二滴三滴と増えていき、次々にテーブルの上へと降り注いだ。それがクラピカの涙だと理解するのに時間がかかってしまった。その涙の意味をまだはっきりと掴めないまま、私は口を開いた。
――泣かないで。
そう声に出したつもりだったけど実際には何も聞こえていない。暗闇に沈んだ部屋にはクラピカの嗚咽だけが響いている。
ああ、と私はそこでようやく思い出した。自分がもうとっくに死んでいるということに。どうして忘れてしまっていたのだろう。命を絶つ瞬間の苦しみは、今でもまざまざと思い出せるというのに。
私は涙を流し続けるクラピカをぼんやりと見つめた。死んだ人間は泣いている人のために何かしてあげることもできないのだ。どうしようもない無力感に襲われて、私はそっと目を伏せた。
辛い思いをさせてごめんなさい。あなたの帰りを待てなくてごめんなさい。あなたを失うかもしれない恐怖に私は耐えられなかった。あなたのことを愛しているのに、とても大切に想っているはずなのに、結局は自分の苦しみを優先してしまった。
不意にクラピカが顔を上げた。その目は何も映していない。虚ろに宙を彷徨う彼の視線は、私を通り越してどこか遠くを見ている。そのことがたまらなく悲しいはずなのに、不思議と心は落ち着いていた。
ごめんなさい。もう一度、心の中で呟いた。
やがて夜明けが訪れ、深い夜に覆われていた部屋を溶かし始める。窓から差し込む乳白色の光が、彼の輪郭を縁取りながら淡く照らし出す。
光に溶けるように、私の意識も徐々に薄れていく。でも怖くはない。きっと、あともう少しだから。待ってると小さく唇を動かした瞬間、私の身体は淡い光の粒となって霧散した。