main | ナノ

はじまりなんて望まない 2


 この世の何を捨てても許される場所に私たちは生まれ、そして生まれ変わった。

 当時幼かった私にとって、流星街での生活は平穏とは言い難いものだった。内地では毎日のように諍いが起きていたし、外部の人間による人攫いも頻繁に起こっていた。明日の命も知れぬ生活の中で、それでも希望を捨てずにいられたのは、共に暮らす仲間たちの存在があったからだ。
 流星街の住民は誰もが自分のことで精一杯だったが、困っている人間がいれば進んで手を貸す者も少なからずいた。私はそんな彼らに感化され、自分もまたそうなりたいと思うようになった。だから仲間の庇護を受ける一方で、自分より弱い立場の子供を守るために力を尽くした。そうやって助け合っていくうちに、いつしか私たちの間には強い信頼関係が生まれていった。
 そんな日々がいつまでも続くものだと思っていた。しかしある日、仲間の少女が殺されたことをきっかけにして、私たちの運命は大きく変わり始めた。およそ人間の所業とは思えないほど残虐な方法でサラサの命は奪われた。なぜ彼女が殺されなければならなかったのか。理不尽極まりない現実に憤りを覚え、同時にどうしようもなく絶望した。世界はどこまでも残酷で、私たちのような存在は一方的に搾取されるだけなのだと思い知らされた。
 私たちは無力だった。今のままではサラサを死に追いやった連中に報復するどころか、自分の身を守ることすらできない。だから力を手に入れる必要があった。そんな私たちを導いてくれたのがクロロだった。彼は多くの知識と知恵を持っていて、私たちとはまるで見えている景色が違っていた。その言葉には不思議な説得力があり、クロロの言う通りにすれば必ず上手くいくという気がしてくるのだ。私はそんな彼を心から尊敬していたし、盲目的に信頼していた。
 三年の時を経て、私たちは生まれ変わった。血の滲むような努力の末に念能力を身につけ、それまでとは比較にならないほどの強大な力を手に入れた。搾取される側から、狩る側へと変貌を遂げたのだ。
 中でも一番変わったのがクロロだった。人生を捧げて悪党として生きると宣言したあの日から、彼の纏う雰囲気はガラリと変化した。それまでのどこか頼りなさげな雰囲気は鳴りを潜め、代わりに底知れない威圧感を放つようになった。以前はよく見せていた笑顔もほとんど見なくなり、冷酷さすら感じられる表情を浮かべるようになっていた。とはいえ、クロロの本質が変わったわけではない。それが目的を達成するために計算された人物像だと分かっていた。ただ、以前とは違う彼に畏怖に近い感情を抱き始めたことは事実だった。
 他の仲間たちはそんなクロロの変化を彼の決意として受け止め、そしてクロロに倣うかのように変化していった。力を得たことも相俟ってか、以前とは比べ物にならないほどの非情さを身に着け、ついには目的のために殺人さえ厭わなくなった。それが旅団の一員であるために必要なことだと全員が理解していて、私もまたそれに順応しようとした。しかしそれは容易なことではなかった。いくら覚悟を決めたところで、他者への情けや良心を完全に捨て去ることができない。サラサを殺した犯人に報復するため、そして、もう二度と同じ悲劇が繰り返されないために必要なことだと分かっていても、どうしても気持ちが追いつかなかった。皆が同じ方向に向かって進む中で、私だけが取り残されたような疎外感を感じるようになっていた。
 それでも、彼らが大切な仲間であることに変わりはなかった。彼らは決して非情なだけではなく、弱きものを守ろうとする優しさを持ち合わせていることを知っていたから。だからどんな悪事を働こうとも、変わらずそばにいた。胸に蔓延る違和感を必死に見ないふりしながら。
 ――その違和感が拒絶に変わったのは、本格的に旅団が動き出してからだ。
 クロロはかつて宣言した通り、大勢の人間を殺し始めた。ただ殺すだけじゃない。幻影旅団の名を轟かせるため、意図的に派手な殺し方を選んだ。その中には何の罪もない一般人も含まれた。
 瞬く間に幻影旅団の名は世界に広まり、史上最凶の盗賊団として恐れられるようになった。旅団の名を聞くだけで震え上がる者まで現れた。そのおかげで、流星街に安易に踏み込む者は格段に減っていき、やがて誰も寄り付かなくなった。すべてがクロロの目論み通りになった。彼が周囲を巻き込んで、世界における流星街の印象を変えたのだ。
 しかし、その頃にはもう私の中の違和感は無視できないほど大きくなっていた。いつしか彼らは人の命を奪うことに何の躊躇いを見せなくなっていた。殺した人間の悲鳴を聞いて、笑いながら次の獲物へと向かう者もいた。悪党を演じていたはずの彼らが、本物の悪党になっていく様をずっと間近で見てきた。私はいつの間にか彼らを恐ろしく感じるようになっていた。
 私は彼らのようにはなれない。そんな簡単なことにようやく気がついた。人を殺せるかどうか以前に、人を傷つけること自体に抵抗があったのだ。それが誰かを守るためだと分かっていても、どうしても割り切ることができない。もう自分の手を汚したくない。私は臆病で身勝手な弱い人間だった。今まで目を背けていたことが浮き彫りになり、もう彼らのそばにはいられないと思った。私は旅団から抜けることを選んだ。
 仲間の反応は様々だった。ただ、こちらの葛藤は薄々勘付かれていたのか、引き止める者はいなかった。――ただ一人を除いて。
 クロロだけは私が抜けることを断固として認めなかった。何を言っても「認めない」の一点張りで聞く耳を持とうとしない。こんな風に頑なな態度を取る彼を見るのは初めてだった。
 正直なところ、少し揺らぎかけた。それでも、やはり無理だと思った。悪党として生きる覚悟のない私では旅団にいる資格はない。そう訴えると、クロロは珍しく怒ったような顔つきになって「オレにはナマエが必要だ。だから抜けさせない」と言った。どうしてそこまで彼が私に固執するのか理解できなかった。
 結局、クロロは折れることなく、私は逃げるようにして彼らのもとを離れた。あの様子だときっと追いかけてくるだろうと予想して、簡単に追跡されないよう大金をはたいて痕跡を消した。クロロの手が届かない遠い土地へ行き、そこでひっそりと暮らしていこう。そう心に決めて、この街にやってきた。
 ――そんな私のささやかな願いは、たった数ヶ月で打ち砕かれることになるわけだけれど……。

 私の平穏を打ち砕こうとする元凶をじっと見つめる。クロロは僅かに眉根を寄せて不機嫌そうなオーラを放っていた。クロロの放つプレッシャーを感じ取り、無意識のうちに私はごくりと唾を飲み込んだ。
 彼がここにいるのは団長としての判断ではなく、クロロ個人の意思によるものだろう。そうじゃなければ大した戦力にもならない私を追いかけてくるはずがない。彼にとって同郷の仲間とはそれほどまでに失い難い存在なのだろうか。
 私にとっても彼らは大切な存在であることは間違いない。でも、これ以上そばにいたらその気持ちもどうなるか分からない。彼らのことを心の底から恐ろしいと感じて嫌悪する日がくるかもしれない。それだけはどうしても嫌だった。そんな風に思うくらいなら、いっそここで決別してしまった方がいい。
 しばらく沈黙が続いた後、クロロが徐ろに口を開いた。

「やっぱり認められないな。そんな理由で旅団を抜けたというなら尚更だ。他の奴らが許しても、オレは許さない」
「…………」

 あまりにも彼らしくない発言に言葉を失う。なんだか、駄々をこねている子供のようだ。身勝手なふるまいに呆れる反面、懐かしさを感じてしまう自分が嫌になる。感傷を振り払うように、私は冷たく言い放った。

「別にクロロの許可なんていらないでしょう? 何を言われても、私の意志は変わらないよ。旅団には戻らない」
「……どうしても?」
「どうしてもだよ。もう盗みも殺しもうんざり。私は自分が幸せになれればそれでいいの。お願いだから私のことは放っておいて」

 突き放すように言うと、クロロは表情をゆがめた。その顔が傷ついているように見えて胸が痛んだ。それでも、このまま一緒にいればお互い不幸になることは目に見えている。それならば、裏切り者だと軽蔑された方がマシだった。
 クロロは視線を落として短く息を吐き、ぽつりと呟いた。

「ナマエは……君は、ずっとオレのそばにいてくれると思ってたよ」

 その言葉に一瞬息が詰まる。どこか寂しげな声も、困ったように眉尻を下げた表情も、幼い頃の彼と重なって心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。同時に、罪悪感が胸に広がった。
 数々の重責を背負っているクロロは、もう旅団の頭という立場から逃げ出せない。これから先、死ぬまで血塗られた道を歩き続けるしかない。誰よりも心優しい少年だったのに。そんな彼を置いて自分だけのうのうと生きていくなんてあまりにも残酷なのではないか。
 そう思う一方で、彼を疑ってしまう自分も確かに存在した。私の罪悪感を刺激するためにわざとこんな振る舞いをしているのではないか。これもクロロの策略の一つなんじゃないかと、そんな疑念が湧いて止まらなかった。
 ――ああ、やっぱりだめだ。
 今この場ではっきりと分かった。私は、クロロが怖い。彼の底知れなさが怖くて堪らない。クロロは、私みたいなちっぽけな人間には耐えられないほど大きく、恐ろしい存在になってしまった。

「……私だって、そばにいたかった」

 震える声で小さく答える。それは本音だった。ずっとそばで支え続けたかった。彼に頼りにしてもらえるような人間になりたかった。

「でも、無理なんだよ。私は人を殺したくないし、みんなが誰かを殺すところも見たくない。みんなのこと……嫌いになりたくないんだよ」

 必死に涙を堪えながら自分の思いを吐き出す。こんな風に泣き言を言うつもりはなかったのに、一度堰を切ってしまえば止めることはできなかった。

「私はみんなと同じようには生きられない。私じゃクロロの決意には応えられない……だから、もう私のことは忘れてほしい」

 クロロの目を見据えて言い放つ。今生の別れを告げたつもりだった。
 しかし、彼は私の言葉を聞いても顔色一つ変えなかった。無言のまま私の目を見つめ返している。その瞳からは何を考えているのか読み取ることができない。
 やがて、クロロは静かに立ち上がった。そして、おもむろにこちらへ歩み寄る。何が起こるか分からず戸惑っているうちに、いつの間にかすぐ目の前まで距離を詰められていた。反射的に後退るがすぐに壁にぶつかる。クロロは壁際に追い詰めた獲物を観察するように私をじっと見下ろしていた。

「――わかった。旅団から抜けることは認める。オレ達のことを理解しなくてもいい。だが、オレから離れることは許さない」

 言い聞かせるように殊更ゆっくりと紡がれた言葉に、耳を疑った。

「許さないって、どういう……」
「オレもここで暮らすことにしよう」
「――は?」

 あまりに突拍子もない発言に、私は目を丸くした。ここで暮らす? 一体何を言っているんだ?
 混乱する私をよそにクロロは話を続けた。

「お互いの意見を考慮した上での折衷案だ。これなら文句はないだろう」

 そう言ってクロロは得意げに微笑む。さっきまでの捨てられた子犬みたいな表情は何だったのか、と思わず突っ込みたくなるほどの変わり身の早さだ。やはりさっきのは演技だったか。いや、それよりもそれのどこが折衷案なんだ。

「……いや、文句しかないから! 私は普通に暮らしたいんだって」
「普通に暮らせばいいだろ」
「だから、クロロがいる時点でその普通が成立しないんだってば」
「オレのことなら気にしなくていい」
「いやだから……」

 だめだ、話が通じない。なんだか頭が痛くなってきた。
 クロロのトチ狂った提案をどう跳ね除けようか考えあぐねていると、不意に顔を近づけられた。ぎょっとして身を引くが、壁に阻まれてそれ以上下がることはできない。壁に片手をついて私を囲うような体勢になったクロロは、不敵に笑って囁いた。

「悪いが、これ以上は譲れない。オレにはお前が必要なんだ」

 口調は軽薄だが、目が笑ってない。――本気だ。本気でここに居座るつもりだ。
 どうしてそこまで私に拘るのか、ここまでくるともはや不可解だった。彼の執着は、同郷の仲間だからといった次元を超えている。クロロの中の自分の立ち位置がよく分からず、不安と恐怖で心臓が激しく脈打っていた。

「なんで、そこまでして私と一緒にいたいわけ……?  そんなことしてクロロに何のメリットがあるの?」

 彼の本音を聞き出すべく、慎重に問いかける。クロロは少し考える素振りを見せた後、口を開いた。

「さぁ、なんでだろうな。理屈じゃないんじゃないのか。こういうのは」

 自分でもよく分からないというように、首を傾げる仕草が妙に幼く見えた。その様子に、ますます困惑してしまう。
 このまま押し問答を続けていたところで、結局は彼のペースに乗せられて終わるだけだろう。そもそもクロロはこうと決めたらどんな手を使ってでもやり通す性格なのだ。長い付き合いだから嫌というほど理解している。
 こうなった以上、一旦この場は引き下がって隙を見て逃げるのが一番現実的かも知れない。逃げたところでまた同じことの繰り返しだろうけど。なにせ相手はクロロだ。どこに逃げようと必ず見つけ出して連れ戻されるに違いない。そう思うと気が遠くなりそうだけど、背に腹は代えられなかった。

「……分かったよ。とりあえず、クロロの要求を受け入れる」

 ため息交じりに答えると、クロロは満足そうに笑みを浮かべた。その表情が腹立たしくて、つい憎まれ口を叩いた。

「クロロってこんなに強引で身勝手だったんだね。昔とは大違いだよ」
「ああ、オレも知らなかったよ。自分がこんなに我の強い人間だとは思わなかった」

 開き直った態度に思い切り顔を顰めると、クロロはまるで悪戯を仕掛けた子供みたいな顔で笑った。それは団長としてのクロロでも、あの頃の心優しい少年でもない、初めて見る彼の姿だった。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -