鋼の花になりたい
「婚約しようと思うんだよね」
深夜一時。適当に入ったリゾート風ホテルの一室。事後特有の倦怠感に包まれながらベッドの上でぼんやりしていたわたしに、突然イルミが言い放った。
わたしは思わずイルミの顔を見た。彼の表情からはなにも読み取れなかった。いつもの無表情で天井を見上げている。こちらの反応などお構いなしというように、イルミは淡々と続けた。
「母さんがうるさいんだよ。そろそろ婚約者候補の中から選べってさ」
「……そうなんだ」
なんとか相槌を打ったが、頭の中は真っ白だった。彼は今なんと言ったのか。婚約者候補から選ぶと言わなかったか。それではまるでイルミが選ぶのではなくて母親が選んだ誰かと結婚するみたいではないか。いや、そんなことよりも、何故そんな話をわたしにするかということだ。つまり、彼が言いたいことは……。そこまで考えて血の気がひいた。
ふとイルミが横目で視線を流してきた。その黒い眸がちかりと光る。わたしは慌てて何か言おうとしたが、それよりも早くイルミが口を開いた。
「だからもう潮時かな」
胸に杭を打ち込まれた気がした。この瞬間、わたしたちの関係は終わったのだとわかった。
今、わたしはどんな顔をしているだろう。うまく表情を取り繕えている自信がない。
――いつ終わっても仕方ないと思っていた。わたしたちは付き合っていたわけでもなんでもないのだ。ただお互い都合が良いときに体を重ねるだけの関係。それでもいいからと縋ったのはわたしの方だ。いつかこんな日がくることは覚悟していた。だけど、まさかこんなタイミングで言われると思わなかった。
今まで何度も感じたことだが、やはりイルミの心を動かすことはできないらしい。それが悔しくて悲しかった。同時に虚しさが込み上げる。
涙が出そうになるのを堪えながら、わたしは必死に言葉を絞り出した。
「わかった」
そう言ってふたたびベッドに突っ伏した。イルミの視線を避けるように枕に顔を埋める。
イルミは何も言わなかった。ただ、食い入るようにこちらを見ているのがわかる。その視線を煩わしく思った。
そんなに人が落ち込んでるのが面白いか。こっちだって毅然とした態度を貫きたかったよ。なのにこんな不意を突かれて動揺しない方がおかしいだろう。もしかしてわたしの反応を見るためにわざと油断してるタイミングを狙ったのだろうか。そんな考えが一瞬浮かんで、すぐに振り払った。イルミに限ってそれはないだろう。わざわざそんなことするほどわたしに興味ないだろうし。多分本当に唐突に思いついただけなのだ。だからこそ余計に腹立たしい。
しばらく沈黙が流れた。イルミはまだじっと見つめてきているようだ。居心地の悪さを感じ始めた頃、肩に手がかかって、体を反転させられた。
「ちょっ……」
仰向けになったわたしの上に、イルミが覆いかぶさる。まさか、この流れでやる気? 信じられないとばかりに見返すと、イルミは無表情のまま言った。
「まだ時間残ってるし、いいよね?」
……ああそうか、彼にとってはこれは単なる処理なんだなと悟った。抵抗する気も失せて、されるがままに身を委ねる。あまりに惨めで、もう涙を流す気力さえなかった。
あれから一週間が経った。イルミとはあの日以降一度も会っていない。連絡もない。当然だろう。イルミにとってわたしはもう用済みの存在なのだから。
向こうは身辺整理できてスッキリしてるのかもしれないけど、切り捨てられた方はたまったものじゃなかった。あんなひどい男さっさと忘れたいのに、そう思えば思うほど彼の姿が脳裏にちらついて悶々としてしまう。この一週間はそんなことの繰り返しだった。
ひとりになると落ち込む一方だから、気を紛らわせるためひたすら仕事に打ち込んでいた。積極的に残業を引き受けて、休日出勤までしている。おかげでここ数日は帰宅が終電になっていた。
今日も朝から晩まで働き詰めでクタクタだった。帰りの電車の中では爆睡してしまい、危うく降り損ねそうになった。なんとか改札を出て、いつもの道を歩き出す。
疲れ切った足取りでアパートの前に着いたとき、ドアの前に誰か立っていることに気づいた。見覚えのある後ろ姿にぎょっとする。
(え、イルミ?)
心臓が跳ね上がる。まさか、どうしてここに?
声をかけるべきか迷っているうちに向こうが気づいたようで、ゆっくりと振り返った。戸惑うわたしの顔を見て、イルミが眉を顰める。
「遅い」
開口一番文句を言うと、イルミはずかずかと歩み寄ってきた。その足取りも纏うオーラも不機嫌丸出しで、思わず後ずさりそうになる。イルミは目の前に立つと、腕を組んで睨みつけてきた。あまりの迫力に気圧される。
何これ、どういう状況? 頭の中は疑問符だらけだったが、とりあえず何か言わなければと思い口を開く。しかし、言葉を発する前にイルミの冷たい声が遮った。
「こんな時間まで何してたの」
「何って、仕事だけど……」
「へぇ、ナマエの仕事ってそんなに忙しいんだ。いつ連絡しても空いてるから暇なのかと思ってたよ」
棘を含んだ言い方にムッとする。
(それはあんたに会うために無理して仕事を切り上げてたのよ)
咄嗟に言い返したくなったが、相手を図に乗らせるだけだと思い口を噤む。代わりに強く睨みつけた。
(こいつ、喧嘩売りに来たの?)
だんだん腹立ってきた。なぜ一方的に切られた上にこんな仕打ちまで受けなければならないのか。そして何が一番腹立たしいかって、こんな目に遭っても尚、目の前にイルミがいることに心躍らせている自分がいることだ。
イルミはじっとこちらを見下ろしている。その黒い瞳の奥には怒りの色が見え隠れしていた。正直怖かった。だけど、ここで引いてはいけないと思った。わたしはぐっと拳を握って口を開いた。
「何の用? わざわざうちまで来てどういうつもり」
「それはこっちのセリフだよ。何の連絡も寄越さないでお前こそ一体どういうつもりなわけ?」
「は?」
予想外の返答に目を丸くする。
「意味分かんない。そっちがもう潮時だって言ってきたんじゃない。わたしたちもう終わったんでしょ?」
「そうだよ」
「なら文句言われる筋合いないんだけど」
イルミはそこでわざとらしくため息をついた。
「今回は随分と聞き分けがいいんだね。前は遊びでも都合がいい相手でもいいから会って欲しいとか言ってたくせに」
「はぁー!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。なぜ今さらそんなことを蒸し返され、責めるような眼を向けられなくちゃいけないのか。理解不能すぎて思考停止状態に陥る。
唖然とするわたしにイルミは詰る口調で続けた。
「オレが婚約するって言っても涙一つ見せないし。ナマエってほんと可愛くないよね」
その言葉にカッとなる。
(こいつ!)
頭に血が上る。感情のままに怒鳴り散らしたくなるのを必死に抑えて、わたしは低い声で尋ねた。
「イルミは私に何を求めてるの? さっきから私があっさり引き下がったことが気に食わないって言ってるように聞こえるけど。捨てないでって泣きながら縋り付けば満足なわけ?」
「うん。そうだね」
「それで? 無様なわたしの姿見てから捨ててやろうって?」
自分でも驚くほど冷たい声が出る。
しかしイルミはまったく動じることなく淡々と答えた。
「捨てるつもりだったけど気が変わった。愛人として関係を続けるのもアリかなと思ってさ」
イルミの言葉を理解するのに数秒かかった。理解した瞬間、頭の中でブチっと何かが切れた音が聞こえた気がした。
次の瞬間、わたしはイルミの胸ぐらを掴んでいた。そのまま壁に押し付けて睨みつける。イルミは驚きもせず、涼しい顔でこちらを見下ろしていた。それがますます神経を逆撫でする。
「人を馬鹿にするのもいい加減にして」
「別にバカにしてないけど」
イルミがこれ見よがしにため息をつく。そしてまるで物分かりの悪い子供を相手にするような調子で続けた。
「愛人の何がそんなに不満なの? これまでと大して変わらないだろ。あ、もしかして婚約者のこと気にしてる? 心配しなくても結婚前にちゃんとお前のことは認めさせるよ。そしたら問題ないよね」
とんでもないことを平然と言われて、頭がくらりとした。本気で言ってるのかこの男。もはや怒りを通り越して呆れてしまった。
人を人とも思わないイルミの言動に、頭の芯が急速に冷えていく。
(もう無理だ)
今までは遊びでも都合の良い相手でもいいからそばにいたいと思っていた。だけど、もう無理だった。もうイルミとは一緒にいられない。それだけは確信できた。
わたしはイルミの胸ぐらから手を離すと、静かに告げた。
「もういい」
「何が?」
「イルミに振り回されるのはもうたくさん」
途端、イルミの眉間に深いシワが刻まれる。その目に剣呑な光が宿った。
「いつまでヘソ曲げてるつもり? 大人しく言うこと聞いてれば悪いようにはしないって言ってるだろ。オレの優しさが分からないの?」
「優しさ、ね」
鼻で笑い飛ばす。馬鹿馬鹿しくて言い返す気にもならなかった。
どうしてここまで傲慢になれるのか不思議だ。それだけわたしが舐められてるってことなんだろうけど。きっとわたしからは絶対に離れていかないとでも思ってるに違いない。
本当に腹立たしかった。イルミの態度はもちろんだけど、それに甘んじてきた過去の自分が。だからこそ、はっきりと決別しなければならないと思った。
わたしは冷めた目でイルミを見据えて言い放った。
「愛人なんて真っ平ごめんだわ」
「へぇ、そう」
イルミは短く答えると、すっと目を細めた。その瞬間、ぞくりと寒気が走る。とっさに身を引こうとしたけど腕を掴まれ阻まれた。払い除けようとしてもびくともしない。その力強さに恐怖を覚えながら、それでも負けじと睨みつけた。
「なに? もう話は終わったでしょ」
「終わってない。何か勘違いしてるみたいだけど、ナマエに拒否権ないよ」
「は?」
「ナマエの意志は関係ない。お前はオレのものなんだから、オレが飽きるまでは傍にいてもらわなくちゃ困るんだよね」
あまりの暴論に言葉を失った。
こいつは何を言ってるんだ。話が通じていないというか、そもそもわたしの意見など端から聞く耳を持っていないのだろう。
(どれだけ人をコケにすれば気が済むのよ……)
あまりに自分勝手な主張に沸々と怒りがよみがえる。
「わたしはイルミのものじゃない。いいから離して」
「意地張るのもいい加減にしたら」
「そっちこそいい加減にしてよ。さっきから勝手なことばっかり言ってるけどわたしにはわたしの人生があるの。自分の思い通りになる人形だとでも思ったら大間違いだから」
「は? お前、自分が何言ってるか分かってるの?」
イルミが苛立った様子で腕を掴む手に力を込める。痛かったけど、頭に血が上っていてその痛みも遠く感じられた。
もうどうなってもいい。わたしは大きく息を吸うと、怒りに任せて声を荒げた。
「自惚れるのも大概にしろって言ってんの。イルミのことなんかもう好きでもなんでもない。あんたなんか大っ嫌い!」
そう叫んだ瞬間、イルミがほんのわずかにたじろいだ。その隙に渾身の力でイルミの手を振り払い、玄関の鍵を開ける。背後から「ナマエ」と小さく呼ばれたけど無視した。もうこれ以上イルミの口から出る言葉を聞きたくなかった。
「二度と顔見せないで」
最後にそれだけ告げると、返事を待たずにドアノブを引く。バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。鍵をかけてチェーンをかけると、そのままずるずると床に座り込む。心臓が激しく脈打っている。イルミに対してあんなに感情的になったのは初めてだった。
しばらくその場から動けずにいると、不意に涙があふれてきた。嗚咽が漏れそうになって、慌てて寝室に避難する。まだイルミが外にいるかもしれない。泣いてることを知られるのは嫌だった。寝室のベッドにダイブして枕に顔をうずめた。
これでいい。わたしは間違ってない。そう自分に言い聞かせながらも、涙が止まらない。結局はまだイルミが好きなんだ。こんなに振り回されて傷つけられて、心は疲れ切っているのに、イルミを嫌いになれない。そんな自分が嫌でたまらなかった。
夜通し泣き続けて、結局一睡もできないまま朝を迎えた。泣きすぎて頭がズキズキと痛む。何だかもう何もする気が起きなくて、風邪だと嘘をついて会社をズル休みしてしまった。ベッドに寝転びながら、眠ることもできずにぼんやりする。
傷ついてばかりの恋だった。幸せなんて微塵も感じたことはない。それでもいいと縋りついて、今まで無理矢理関係を続けてきた。そのせいで心はすっかり擦り減ってしまった。
イルミのことはまだ好きだけど、やっぱりもう一緒にはいられない。このままそばにいたらわたしはどんどんダメになってしまう。そのことにやっと気づいた。時間はかかるかもしれないけど、本気で吹っ切ろう。
そんな風に考え、わたしなりに気持ちの整理をつけようとしていたが、イルミの中ではまだ終わっていなかったらしい。
夜になると電話がかかってきた。ディスプレイに表示された「イルミ」の名前を見て、胸にひきつるような痛みが走る。出るか迷ったけど、これで最後にしようと思い通話ボタンを押した。
もしもし、と言うと、イルミの声が返ってくる。
『今どこにいるの』
いつもと同じ淡々とした口調。でも今日ばかりはその冷たさが少しだけありがたい。
「イルミに関係ないでしょ。もう電話してこないで」
そうまくし立て、一方的に電話を切った。そのまま電源も落として、視界に入らないところに追いやる。
もう寝てしまおうと、ベッドに潜って布団をかぶった。今日はずる休みをしてしまったが、明日こそは会社に行かなければならない。いつまでも休んでいるわけにはいかないのだ。
だけど、目を閉じても眠りは気配すら忍び寄ってこない。イルミのことが頭から離れなかった。
もういつまでも終わったことを引きずりたくない。忘れてしまいたいのに、すっぱり縁を切らせてくれないイルミが恨めしくなった。
翌日からちゃんと会社に行った。突然休んだことを謝って、仕事に集中する。一晩中泣いていたせいで睡眠不足で辛かったけど、気が紛れるからちょうどよかった。
無心で仕事をこなし、会社を出る。電車に乗って最寄駅に着くと、駅前のコンビニで酒を買い込んだ。シラフで夜を過ごすのは耐えられないと思ったからだ。今日はアルコールの力を借りて眠ろう。そう心に決めて、コンビニ袋を片手に夜道を歩く。
帰り道の途中にある公園の前を通ったとき、ふと違和感を覚えて足を止めた。見覚えのある人影があったような気がして公園内を目を凝らして見る。薄暗い街灯の下で、ベンチに座っているのが誰なのか分かった瞬間、わたしは悲鳴をあげそうになった。
(え、あれって……イルミ、だよね?)
そこにいたのはイルミだった。正確には、変装後のイルミ。
顔中に針を刺したその奇抜な姿は過去に一度だけ見たことがあった。仕事帰りのイルミがあの姿でいきなり現れて、腰を抜かすほど驚いたのを覚えている。
(何してんの、あの人)
明らかに不審者だ。あっけにとられているうちに、イルミが立ち上がってこっちにやってきた。近くで見るとその顔面の迫力は凄まじくて、思わず後退る。ちょっと微笑んでるのが余計に怖い。
「や」
顔をカタカタ揺らしながら挨拶されて、反応に困ってしまう。……いや、ダメだ。相手のペースに飲まれたらいけない。ここは毅然とした態度をとらなければ。
「ここで何してるの? もう顔見せないでってわたし言ったよね」
気を取り直して詰問する口調で尋ねると、斜め上の答えが返ってきた。
「うん。だから顔変えてきた」
ほら、と針が刺さった自分の顔を指差すイルミに言葉を失う。呆れてものが言えないとはまさにこのことだった。
(どんな理屈よ、それ)
完全な屁理屈だ。元々おかしいとは思ってたけど、ここまでわけがわからない行動をとってくるとは思わなかった。目の前の相手が予測不能の宇宙人に見えてくる。
(――でも、そこまでしてでも私に会いたかったってこと?)
ふと胸に湧いた期待を慌てて打ち消す。この期に及んでまだそんな馬鹿げたことを考えてしまう自分に辟易した。
(流されるな。もう終わりにするって決めたんだから)
己を叱咤して、イルミを睨みつける。
「そんな不気味な変装までして、一体わたしに何の用なの?」
心の奥底に秘めた期待が漏れないように、努めて冷ややかに言い放った。
イルミがじっとこちらを見つめてくる。ただでさえ表情が分かりづらい奴なのに、変装してる今は全くと言っていいほど感情が読めない。
どうせまたろくでもないことを言うんだろうと身構えていたけど、予想に反して返ってきたのは意外な言葉だった。
「婚約はやめた」
「……へ?」
今、なんて言った?
聞き間違いかと思ってイルミを見上げると、相変わらずの不気味な形相でもう一度同じことを告げられる。
「婚約するのはやめた。元々そんなに乗り気だったわけじゃないし、全部白紙に戻した。当分は結婚するつもりはないって母さんに言ったよ」
「…………」
頭がついていかない。一体何がどうなってそうなったんだろう。
思わず疑問が口をついて出た。
「なんで?」
「何でって、ナマエが嫌がったからに決まってるだろ」
さらりと放たれた言葉に息が止まった。心臓がドクンと大きく跳ねる。
(それって……)
イルミの言葉を反芻して、自然と頬に熱が集まっていく。
都合よく解釈していいのだろうか。期待、してもいいのだろうか。
ごくっと喉が鳴る。鼓動がどんどん速くなっていく。わたしは震えそうになる声で訊ねてみた。
「ねぇ、それってつまり……」
「だから元のセフレに戻ろう」
「――いや、何でだよ!」
期待していたものとは真逆の回答に、反射的に突っ込んでしまった。
だってありえないでしょ、今の文脈! 絶対おかしいって!
「言うに事欠いてそれか! そこは普通付き合おうとか言うところじゃないの!?」
動揺のあまり心の声が口を突いて出た。
(ああもう、本当にわけわかんない……)
期待したこっちが馬鹿だったと後悔する気持ちと、どこまでも人を振り回しやがってという憤りがないまぜになって、わたしは頭を抱えた。
そんなわたしの様子などお構いなしのイルミは相変わらずマイペースに話を進めてきた。
「恋人ができたら家に招いて家族に紹介する決まりなんだよね。そうなったらお前多分死ぬよ」
「……はい?」
いきなり飛び出してきた物騒なワードに目を瞠る。この男は何度突拍子もないことを言い出せば気が済むんだろう。どういう意味だと視線で問うと、イルミは至極真面目な調子で続けた。
「うちはそういう家庭なんだよ。お前、毒の耐性ないよね?」
「あるわけないけど……」
「なら一緒に食事するのはまず無理だね。うちで出てくる物は基本何かしらの毒が入ってるから。あとオレの恋人が家にくるってなると弟たちが面白がって何か仕掛けてくると思う。例えば超小型の爆弾をとりつけた虫を放ってきたりね。まぁオレからしたら可愛いいたずらだけど、ナマエは無傷では済まないだろうね。母さんもお前の力試してくるだろうし下手すると殺しにかかるかも。オレの目が届く範囲ならいいけど、そうじゃない時は庇えないし。だからやっぱり恋人にはできないな」
ペラペラと語られる内容に、血の気が引いていく。わたしを脅すために適当なことを言ってるようにも思えない。信じたくないけど、きっと全部本当のことなんだろう。
(なにそれ怖すぎるんだけど……絶対行きたくない)
たしかにイルミの家庭環境が異常なのは薄々感じていたことだけど、まさかただ家に行くだけでそんな危険な目に遭うとは思わなかった。そんなところにのこのこ足を踏み込んだらわたしみたいな一般人はひとたまりもない。
(イルミはそんな環境で育ってきたのか)
今更ながらに目の前の男の底知れなさを実感する。同時に、自分とは別世界の人間だと思い知らされた。
(でも、それでもわたしは…………)
黙り込んでいると、イルミはさらに畳みかけてきた。
「だから元の関係に戻った方がお互いのためだと思うよ」
「……ひとつ聞きたいんだけど」
「なに?」
「イルミは、わたしに死んで欲しくないの?」
「うん。そうだよ」
迷いのない声音で答えられて、不覚にも胸がきゅんと疼く。
「ナマエがいないと困るって言ったよね?」
あの夜と同じことを言われる。でも、あの時とはまったく意味合いが違って聞こえた。
(ずるい。今さらそんなこと言うなんて)
もう不毛な関係は終わらせるって決めたのに、決意がぐらりと揺らいでしまう。
「ナマエ」
餓えたように名前を呼ばれて、どうしようもなく胸が熱くなった。そのあとに続く言葉を聞くのがこわい。こわいのに、聞きたいと願ってしまう。
「どうすればお前はオレのそばにいてくれるの?」
イルミの言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かが崩れ落ちる音がした。
(ああ、もうだめだ)
諦めに似た感情が押し寄せてくる。今までずっと必死に抑えつけていた想いが溢れて止まらなかった。
絶望的に言葉が足りてないし、そもそも考え方がおかしいけど、彼は彼なりに一生懸命わたしを繋ぎ止めようとしている。イルミの中でわたしは使い捨ての玩具じゃなかった。たったそれだけのことで、一瞬で心を動かされてしまった。
悔しい。こんなことで絆されたくない。そう思う自分もいる。再びこの手を取ったら、きっとまた辛い思いをするだろう。なにしろイルミはとびきりの変人だ。彼を取り巻く環境も異常極まりない。普通の人間であるわたしが太刀打ちできるわけがない。それでも、心の奥底にある本当の気持ちが叫ぶのだ。
(あーもう、ほんっとに腹立つ!)
さまざまな思いが頭の中をめぐって、はぁ、と盛大な溜息をついた
「そんなんじゃほだされないから。もうセフレには戻らない」
イルミは少し考える素振りを見せたあと「そう」と呟いた。
「オレも折れるつもりないから、ナマエとオレで根比べだね。とりあえず毎日ここでお前の帰りを待つことにするよ」
「いや、それただのストーカーだから普通にやめて。ていうかその顔で毎日立ってたら通報されるよ」
「わかった。毎回別の顔に変える」
「そういう問題じゃなくて……」
もはや言い返す気にもなれなくて、わたしはげんなりしながらイルミを見やった。針まみれの顔がカタカタ音を立てて揺れている。なんかもう呆れを通り越して笑えてきた。
問題は何も解決してない。結局イルミからはセフレに戻ろうとしか言われてないし。むしろセフレからストーカーに悪化しそうになっている。そのことにウンザリしているはずのに、なぜか妙に清々しい気分だった。
(ほんとうに、馬鹿みたい)
散々イルミに振り回されて、もうこりごりだと思ったのに、それでも嫌いになれなかった。どうせ嫌いになれないのだから、腹をくくってとことん付き合ってやろう。そう思うと何だか吹っ切れた。
すぅ、と大きく深呼吸をして、真っ直ぐにイルミの目を見た。
「セフレ以外なら考えてもいいよ。死にたくないから恋人はナシで。愛人もストーカーも却下」
わたしの提案にイルミは首を傾げた。
「難しいこと言うねお前。他に何があるの?」
「うーん、友達とか?」
「暗殺者に友達は必要ないよ」
「……だったらセフレも必要ないでしょ」
相変わらずな返答に脱力する。やっぱりイルミはイルミだ。この難解な男と一緒にいる以上、困難は尽きないだろう。だけど、前みたいな不安はなかった。イルミにとってわたしはどうでもいい存在なんかじゃないって分かったから。
これからわたしたちがどうなっていくのか想像もつかないけど、まあいいかと思い始めていた。イルミと一緒ならなんだっていいやって思えるくらい、わたしはこの男が好きなんだ。悔しいから絶対に言ってやらないけど。
考え込むように腕を組んでカタカタ鳴らしているイルミを見ながら、わたしは小さく笑った。