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愛の定義を教えておくれ 3


 ホテルを飛び出したオレは、夜の繁華街を急ぎ足で歩いていた。週末の夜は人出が多く、行く手を邪魔されるたびに蹴散らしたくなるのを堪えて進む。向かう先はナマエの家だ。
 わざわざ出向くのは癪だが仕方ない。待つのも飽きたし、たまにはオレの方から折れてやろう。

「ナマエのくせに手間かけさせるよなー」

 声に出して文句を言ってみたけれど、その声は自分の耳にも空々しく聞こえた。
 認めたくはないが、オレは珍しく不安に駆られていた。最後に会ったときのナマエを思い出すたび胸の奥がキリキリとして、居ても立っても居られなくなる。そんな自分に辟易した。あのナマエ相手に心乱されるなんて馬鹿らしい。どうせオレの顔を見た途端に、捨てないでと泣いて縋り付いてくるに決まっている。あれはそういう女だ。
 そう自分に言い聞かせながらも不安な気持ちは膨らむ一方で、ナマエの家へと向かう足はどんどん速くなっていった。

 雑踏を通り抜け、脇目も振らず歩き続けると、やがて古びた二階建てのアパートにたどり着いた。二階の角部屋がナマエの部屋だ。外から見る限り部屋の灯りは点いておらず、インターフォンを押しても応答がない。

(ナマエのやつ、こんな時間までどこをほっつき歩いてるんだよ)

 やり場のない苛立ちを持て余し、しゃがみ込んで頬杖をつく。外通路の柵越しに見える何の面白みもない景色を眺めながら、そういえば随分と長い間ナマエの家にきてなかったことを思い出した。ここまで来るのは億劫だし、ヤるだけならホテルの方が何かと都合がよかったからだ。そう考えると、最近のオレの行動はいささか身勝手が過ぎていたかもしれない。然しものナマエもヘソを曲げたというわけだろう。人を意のままに動かすには飴と鞭のバランスが大切なのに、オレとしたことがナマエに飴をやるのを怠っていた。

(ナマエが図に乗らない程度に飴の量を増やしてやるとするか)

 オレが少し優しさを見せれば、ナマエはとても喜ぶだろう。そしたら元通りだ。この苛立ちも、言いようのない不安も、すべて解消されるはず。
 ようやく自分の落ち度に気が付き、今度の対策も立てられたためか、すっかり晴れ晴れとした気分だった。今ならナマエに優しくしてやれそうだ。

 そんなことを考えながら時間を潰していると、誰かが外階段を登ってくる音が聞こえてきた。

「シャル?」

 頭上から降ってきた声に頭をあげると、驚きに固まるナマエの顔があった。

「どうしてここに……」
「どうしてって、ナマエに会いにきたんだよ」

 立ち上がり、軽い調子で切り返す。ナマエはきょとんとした顔でオレを見ていた。まさかオレが訪ねてくるとは思ってなかったんだろう。理解が追いついてないって感じだ。

「話し合おうと思ってさ。とりあえず中に入れてくれる?」

 顎をしゃくって促すと、ナマエは俯いて動かなくなった。彫像のようにピクリともしない。いつまで固まってるんだと文句が出かけたが我慢した。今日はナマエに優しくしてやるんだった。
 しばらくナマエはそのままでいたが、ふいにすっと顔をあげる。その瞬間、背中の筋肉がギクリと強張った。オレを見るナマエの目に光が一切なかったからだ。

「やだ」
「はっ?」

 思わず威圧的に聞き返していた。だがナマエに臆した様子はなく、淡々と切り返してきた。

「話すことなんてない」

 その一言に、ひっくり返りそうになるくらい驚いた。意図せずナマエを強く見つめる。

(……こいつ、今、オレを突き放した?)

 怒りよりも動揺の方が上回った。これまでただの一度もナマエがオレに歯向かうことはなかったから。オレは何とか平静を装って、唇の端を曲げて笑った。

「いいの、お前。オレにそんな態度とって。後悔するよ」
「しない」

 噛みつくような視線。ナマエの中の怒りが見えるような声の響き。知らず気圧されて、ごくりと喉を鳴らした。

「私たちもう別れたでしょ」
「オレはそんなの認めてない」
「何言ってるの? いいよって言ったじゃない」
「あんなの売り言葉に買い言葉だよ」

 おかしい。そんなつもりじゃなかったと縋り付いてくるのはナマエのはずなのに。どうしてそんな目でオレを見てくるんだ?
 ナマエはふぅっと息を吐いた。その心底うんざりしていると言わんばかりの態度にカチンときた。

「ナマエさー、いい加減にしてくんないかな。そこまでしてオレの気を引きたいの?」

 言った途端に、ナマエの顔から表情が抜け落ちる。選択をミスったのを明確に感じて、ひそかに息をつめた。

「いい加減にして欲しいのはこっちだよ。迷惑だからもう帰って」
 
 信じられない思いでナマエを見た。今しがた言われた言葉を反芻するが、受け止められない。
 こっちから歩み寄ってやれば、すぐに靡いてくる自信があった。だって、今までずっとそうだったから。ナマエがオレに近づきこそすれ、離れるなんてあり得ないことだった。なのに、一体これはどういうことだ?

「なんだよ、それ。急に豹変しすぎ。意味分かんないよ」

 心臓がバクバクと音を立てる。思わず手を伸ばし、ナマエの身体に触れようとした。しかしその手は触れる前に叩き落とされた。

「もうシャルには付き合いきれない」

 冷え切った声と視線が心臓に突き刺さる。その瞬間、頭の中で何かが弾けた。

「なんで今さらそんなこと言うんだよ!」

 自分でも驚くほど冷静さを欠いていた。そんなオレとは対照的にナマエは冷静だった。

「もう疲れたの。シャルといても虚しいだけだもの」
「じゃあどうして今まで何も言わなかったんだよ! 不満があるなら言えば良かっただろ!」
「聞く耳持たなかったのはシャルの方でしょ。もう限界なの。聞き分けのいい女が欲しいなら他を当たってください」
「それ本気で言ってんの?」
「本気だよ。シャルならいくらでも見つけられるでしょう? 私も、次は私のことを尊重してくれる人を探すから」

 その言葉に、血が逆流するのを感じた。

「……ふざけるな。そんなの許すわけないだろ」

 ナマエは無言のまま、すっと眉をひそめる。その表情を見て、オレの中の怒りはさらに強くなった。

「他の男なんて探すだけ無駄だよ。なんにも気付いてないみたいだから教えてあげるけど、ナマエが使ってる携帯もパソコンも全部ハッキングして交友関係諸々すべて把握済みだから。他の男と連絡取ろうものならあらゆる手段を駆使してナマエから離れていくように仕向けるよ。そんなのオレにとっては造作もないことだ。ナマエはこの先ずっと他の男と付き合うなんてできないし、オレがその気になればお前を破滅に追い込むことだって簡単にできるんだよ」

 ペラペラと口から勝手に言葉が出てくる。醜態を晒している自覚はあったがもう止まらなかった。
 ここまで言うつもりはなかった。なんなら墓場まで持っていく秘密のつもりだった。やってることはまるでストーカーだし、ナマエに入れ込んでるみたいで嫌だったからだ。……いや、みたいじゃなくて、オレはまぎれもなくナマエに入れ込んでいた。別れを突きつけられて、脅迫じみたことを口走ってしまうくらいに。
 しかし、ナマエはまったく意に介しちゃいなかった。

「勝手にしたら」
 
 白けた目でオレを見て、ぷいと横顔を見せてくる。
 切り札をあっさり破り捨てられ、オレはひどくうろたえた。

(どうしよう。どうしたらいい。どうやったらこの状況を打開できる?)

 頭をフル回転させるが、焦りばかりが募って何ひとついい案が思い浮かばない。結局口に出したのはみっともない一言だった。

「オレのこと、好きなんじゃないの」
「好きだったよ。でももう好きじゃない」

 頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
 そんなことは絶対にありえないと思っていた。ナマエは絶対にオレを嫌いにならないし、どこへもいかない。そう信じて疑わなかった。
 だが、これが現実だった。ナマエはオレに愛想を尽かし、切り捨てようとしている。
 否応なく突きつけられた現実に戦意喪失しそうになる。でも、別れるのだけはどうしても嫌だった。残された術は、なりふり構わず縋り付くことだけだった。

「……ごめん。オレが悪かったよ。心入れ替えるからさ、許してほしい」

 土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。実際、土下座しろと言われたらやっていただろう。それくらい必死だった。どれだけ情けなくてもカッコ悪くてもナマエを繋ぎ止められるならそれでよかった。――しかし、ナマエは謝罪の余地すら与えてくれなかった。

「シャルさぁ」

 一瞬、耳を疑った。オレが知るナマエの声とは印象がかけ離れていたから。その声に引っ張られるように顔をあげる。そして息を飲んだ。

「そんなに物分かり悪かったっけ?」

 あろうことかナマエは笑っていた。どこか凄絶な笑みを浮かべながら、ゆるやかな声音で続ける。

「やり直したってどうせまた同じことの繰り返しだよ。手に入れるまでが楽しいんでしょ? シャルは盗賊だもんね」

 そう言ってオレを見るナマエの目は、出会った時の汚れた靴のつま先を見る目と同じだった。

(あぁ、もう無理なんだ……)

 オレはようやくそのことに気がついた。

「元気でね、シャル」
 
 ナマエは鞄から鍵を取り出して、ドアを開けた。
 引き止めたいのに、言いたいことは山ほどあるのに、オレは動けなかった。自分でも驚くほど、打ちのめされていたから。

「……違う」

 呆然と呟いた言葉が拾われることはない。

「違うんだよ……」

 ドアの閉まる音に、全ての終わりを実感した。


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