いばらが千里
「お前、今日からワタシの女ね」
顔を合わせるたびに口汚く罵ってくるのがデフォルトの男が、ある日突然とんでもないことを言い出した。
「えっ……え? お、女?」
脈絡のないフェイタンの発言に狼狽する。驚いているのは私だけではなく、仮拠点の廃墟ビルに集っている面々も同じように目を丸くさせてこちらを見ていた。あのクロロでさえも固まっているように見える。
おかしい。さっきまで団員同士で和やかに近況報告をしていたはずなのに、何故いきなり。意味が分からなすぎる。
気まずい沈黙が漂う。ただ、気まずいなんて思っているのは私だけで、フェイタンは微塵も気まずいなんて思っていなさそうだ。
「奴隷の間違いでは……?」
「奴隷になるのが望みか。ワタシはそれでも構わないよ」
「いやいやいや望んでない、断じて望んでません」
必死に否定する私を見てフェイタンが目を細める。珍しく機嫌が良さそうだった。私と話すときはたいてい不機嫌だったから、その笑顔が不気味に思えてならない。何の罠だこれは。
「女って、こ……恋人ってことだよね?」
「それ以外に何があるか。お前、理解力なさすぎね」
フェイタンが呆れたように嘆息する。かと思いきや、急に大股でこちらへ歩み寄ってきた。
驚く私のうなじに手を回し、指の先端でつうっと引っ掻かれる。肌が粟立った。声をあげそうになるのを必死に堪える私を至近距離で眺めながら、フェイタンはにんまりと笑った。
「ナマエに拒否権ないよ」
「え、えぇぇ……」
助けを求めるためにメンバーたちに目配せをするが、もう誰もこっちに興味なんて持っちゃいなかった。
ちくしょう、これだから蜘蛛は!
「何か用か」
瓦礫のひとつに腰を下ろすフェイタンに恐る恐る声をかけると、不機嫌そうに眉を顰められた。
自分から来るときはこっちの都合なんてお構いなしのくせに、私から行くと不機嫌になるってどういうことだ。自己中すぎるだろこの男。
「えっと、その……」
さっそく出鼻を挫かれて言い淀む。そんな私の様子がさらに相手の機嫌を逆撫でしたのか怖い顔で睨まれた。これ以上ぐずぐずしてたら蹴り飛ばされそうな気配を察知して、慌てて切り出した。
「さっき言ってたことなんだけど、どうして私なのかな〜って気になっちゃって」
「チッ」
こ……こいつ! 舌打ちしやがった!
(なんなのこの態度。曲がりなりにも恋人相手に……いや、こっちは了承した覚えないけど! 一方的に宣言されただけだけど!)
あまりの態度に恐怖よりも苛立ちが上回ってくる。だけど小心者の私はこの暴君相手に物申す勇気はなく、ぎゅっと唇を引き結んで非難の目を向けた。
「なんね、その目。文句あるか」
「文句というか、理由も言わずにいきなり女になれとか言われても納得いかないって言うか」
「お前、食いたいものがあるときに何故食いたいかなんていちいち考えるか?」
いや、食べ物と同列かい! まさかの返球に心の中で盛大に突っ込みを入れる。
もしかして、からわれているんだろうか。 さっき団員たちの前で宣言されたのも、今の言葉も、全部タチの悪い冗談? だとしたら笑えない。
(なんか、だんだん腹立ってきたな)
身勝手極まりないフェイタンの振る舞いも、それを拒否しきれない弱腰な自分も、何もかもが気にくわない。
「人で遊びやがって……」
思わずぼやくと、フェイタンがニィッと目を細めた。人がムカついてるっていうのに、なんで嬉しそうなんだこの男。
突然フェイタンが立ち上がり、じりっと間合いを詰めてきた。
「ワタシに遊ばれるのは嫌か? 殺さず遊んでやてるのお前くらいよ」
「は、はぁ」
それは果たして喜んでいいのだろうか……。
フェイタンの目がギラついてて怖い。なんとか相槌を打てたけど、内心冷や汗ダラダラだった。徐々に距離を詰めてくるのも余計に恐怖を煽ってくる。
「いいね。ナマエの怯えた顔、嫌いじゃないよ」
獲物を狙う獣のような目に、背筋が震える。咄嗟に私は周囲を見回し逃れる術をさがした。だがそこへ、伸ばされてきた手で顎を掴みとられてしまう。
「ぁっ……」
フェイタンの顔が間近に迫り、私は反射的に目を瞑った。
――次の瞬間、唇に何かが触れた。心臓がぎゅっと締め付けられて一瞬息が止まる。
まさか、と思って目を開けると、唇の輪郭をなぞるようにして触れてくる指先に気がついた。
「期待したか?」
フッと鼻で笑われ、羞恥心が一気に膨れ上がった。やられた! という心境だ。恥ずかしい勘違いをしてしまった。させられたと言いたいところだけど。
恥ずかしさのあまりとっさにフェイタンの手から逃げ出そうとするが、今度は腕を掴まれて引き寄せられてしまう。ほとんど抱き合うような形になって、もはやパニックだった。
(あ、あ、うそ、なにこれ)
この状況を受け止めきれず頭がクラクラする。もうわけがわからない。勘弁してください! って泣きついて許しを請いたいくらいだ。それくらい色々と限界なのに、フェイタンの猛攻は続いた。
「安心していいよ。ワタシ身内には甘いね」
耳元で囁かれ、ぞくん、とする。むき出しの心臓を、指先で軽く撫でられたような。そんな得体の知れない戦慄が背筋を駆け抜けていく。
甘いのか、怖いのか、どちらかにしてほしい。これじゃ心臓が持たない。
キャパオーバーとなって硬直する私を一瞥すると、蛇のように絡みついていた手が離された。
「話は終わりよ」
愛想もそっけも削ぎ落とした声で吐き捨てると、フェイタンは元の位置に座り直した。
唐突な切り替えについていけず呆然としていると「ささと去ね」と言わんばかりに睨まれた。さっきまでの空気が嘘みたいな冷ややかさだった。
(なっ……何なのこいつ!)
理不尽な態度に憤りを覚えるけど、もう言い返す気力は残ってなかった。半ば呆然としたまま、すごすごとその場から離れる。
ひどく疲れていた。この先もフェイタンの気分で弄ばれ、振り回され続けると思うとぞっとする。
それでも、さっきフェイタンにされたことを思い出して、心臓が不規則な鼓動を刻み始めた。背中が妙な具合にじわりと熱を帯びていく。
(やばい。なんか分からないけど、とにかくやばい)
あんなものは毒だ。まともに食らい続けたら死んでしまう。
本能が警告を発している。その一方で、飴と鞭を巧みに使い分けられ、フェイタンの前に崩れ落ちる未来が容易く想像できてしまって、絶望に打ちひしがれた。