賽は投げられた 3
「はぁ、はぁっ、はぁ……」
持てる力の全てを注ぎ込んで夜の繁華街を駆け抜ける。さっきの店からは十分離れたはずだ。追われている気配はない。
(――やった、やってやった!)
異様な高揚感が全身を駆け巡る。極度の緊張状態にいた反動だろうか。先ほど発動させたキャラメルを握りしめながら、高ぶる感情のままがむしゃらに走り続けた。
これは賭けだった。簡単に念能力を奪わせるふりをして男を出し抜いてやろうという。少しでも間違えればあっけなく奪われていたかもしれない。企みに気付かれたらどんな目に遭っていたか。
その大勝負に私は勝利したのだ。
「ざまあみろ!」
夜の街に高笑いが吸い込まれる。しかし、謀れたと知ればもう一度奪いに来るだろう。その前に奴の手が届かないところまで逃げないと。
ふと見慣れた電光看板が目に入って、近くにあった地下への階段を駆け下りた。ちょうどよく発車の合図を鳴らす電車に飛び乗る。車での移動も考えたけど、渋滞にはまった時のことを考えると電車の方が確実に思えた。今は一分一秒でも早く奴から距離を置きたい。
念のため乗客を『凝』で確認する。あの男はいない。オーラを巡らせ辺りを窺うが、特段こちらを気にしている人間もいなかった。それでも落ち着いていられなくて、細心の注意を払いながらいつもより何倍も長く感じる時間を電車の中で過ごし、ようやく最寄駅へと到着した。
誰かに尾けられているはずもないのにまた全力ダッシュする。外に居ることが耐えられない。早く家に帰りたい。腕も足も千切れそうになるくらい酷使して、ようやく我が家へと辿り着いた。
「はぁ、はぁっ」
扉を背に、玄関でずるずるとしゃがみ込む。
「は、はは……」
カタカタと今更ながら全身が震えた。冷えてきた頭で、命知らずな行いを思い返してゾッとする。もう二度とあんな危ない橋は渡らない。
「はぁ、喉乾いた」
とりあえず水を飲もう。久しぶりにこんなに走ったから喉がカラカラだ。
冷蔵庫のミネラルウォーターを手にするため、ダイニングに足を踏み入れたときだった。
「おかえり」
「――っ!?」
耳に入ってきた声に、心臓が凍りついた。
そんな、馬鹿な。
「ずいぶんと急いで帰ってきたんだな。観たいテレビでもあったのか?」
目に飛び込んだ光景に愕然とする。
さっきまで隣で酒を飲んでいた――逃げ切れたと思っていた男が、我が家のソファに腰掛けていた。
足から力が抜けて、どすんとその場に尻餅をつく。
――終わった。まずその言葉が頭に浮かんだ。どうしてここに? 最短のルートて帰れたはずなのに、どうやって先回りした? そんな疑問が次々に浮かび上がるが、何よりも勝る絶望が全てを打ち消した。
想像よりももっと深いところまで仕組まれていたんだ。男の方が、はるかに上手だった。
男は片手に持った本で自分の顔を覆い隠すと、肩を震わせてクックと笑う。その笑い方に恐怖心がいや増した。
「まさか、こんな目に遭わされるとは思わなかったな。騙される側の気持ちがよく分かった」
言葉とは裏腹に楽しくて堪らないといった有様だ。一世一代の賭けもこの男にとってはただの余興程度にしか過ぎないのだろう。
男は深く腰掛けていたソファから立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。思わず体が逃げを打つが、背中に当たる固い感触に逃げ場がないことを知る。
「なぜ俺の能力を知っていた?」
「……」
「答えろ」
抗いがたい圧力に身が竦む。纏う空気に先ほどまでの軽薄さは欠片もない。こちらを威圧する圧倒的なオーラに、絶望的な力の差を思い知らされた。
「……あなたに念能力を奪われた女性の記憶を見たのよ」
「ほう? どの女のだ」
女性の名を告げると、すぐに合点がいったようだった。
「念能力を悟られる発言をした覚えはないが、記憶だけで俺の能力まで気づいたってことか。すごいな」
「……」
「だが爪が甘い。あのまま国外にでも逃げるのが正解だったな。悪巧みには慣れていないのか?」
冷や汗が額から鼻先に伝って、膝の上に続けざまに落ちていく。まるで断罪を待つ罪人だ。
男はその場に腰を下ろして、顔を覗き込んできた。
「さて、どうする?」
どうするも何もそっちは最初から奪う気しかないだろう。この状況を楽しんでいる相手に反抗心がむくむくと頭を擡げる。だがそうは言っても、絶体絶命の状況を切り抜ける方法なんて思いつくはずもなく。結局は愚直な選択を取るしかなかった。
臨戦態勢に入る私を見て、男は笑みを深めた。
「やる気満々って顔だな」
「そう簡単に奪わせてたまるもんですか」
「命を投げ打ってでも守りたい能力って訳か。ますます欲しいな。……だが、気が変わった」
男が持つ本が目の前から消える。
「盗るのはやめておこう。ほかに欲しいものができた」
いきなり掌を返され困惑する。一体どういうつもりだ。あんなに奪う気満々だったくせに。
相手の意図が読めず固まっていると、予想もしなかった提案を持ちかけられた。
「俺たちの仲間にならないか」
「………は、い?」
なんだって?
「仲間って、あなた何者なの」
「幻影旅団だ」
……なんだって!?
男の口から飛び出した聞き覚えのある単語に言葉を失う。幻影旅団といえば悪名高い犯罪集団じゃないか。その仲間だなんて、冗談じゃない。死んでもごめんだ。
数秒の沈黙の後、恐る恐る口を開いた。
「嫌だって、言ったら?」
「こちらの念能力について知られている以上、野放しにはできないな」
「……」
なんだ、結局ただの脅迫じゃないか。くそったれ。
俯いて唇を噛み締めていると、耳元にせせら笑うような声が響いた。
「やっぱり小心者なんだな、お前」
「……なんですって?」
聞き捨てならない台詞に顔を上げる。ひどく間近で男が笑っていた。とことん相手を見下したような、嫌な笑い方だった。
「現実に真っ向から立ち向かえないから他人の記憶を覗くような真似をするんだろう。優越感に浸りながら安全な位置でほくそ笑んでいるお前が、小心者以外のなんだっていうんだ?」
男の言葉に、カッと頭に血が上る。
挑発だ。分かっている。これもこの男の策略に過ぎない。分かっているのに……。
怒りは血流の中を異常な早さで巡回して、やがて理性を失わせた。
「――上等だわ」
感情をひとたらしもこぼすまいと、歯を食いしばってゆっくりと立ち上がる。見下ろす相手は、あいかわらず人の悪い笑顔でこちらの様子を見守っている。
一瞬、とてつもなく高いところから身を投げ出すイメージが頭を過ぎった。踏み出したら最後、後には戻れない。
「あんたのお仲間にでも何でもなってやろうじゃない」
「決まりだな」
男は晴れ晴れとした顔で立ち上がり、手を差し出した。
「俺はクロロという。よろしく、ナマエ」
差し出された手を、残ったなけなしの力で握り返す。途端に、途方も無い絶望と後悔が全身を襲う。この男――クロロに喧嘩を売ってしまったのが運の尽きだ。
過去を変えることはできない。だけどせめて、己を蝕む負の思い出は消し去ってしまいたい。
私はこの日、生まれて初めて依頼人たちの気持ちを痛感する事となった。