夜の端が青む




「わっ!?」

 突然のことに驚きの声を上げるが、イルミはお構いなしに歩き出す。そのまま室内へと足を踏み入れたかと思うと、ベッドまで一直線に向かっていった。

「ねぇ、ちょっと!」

 状況が飲み込めずあたふたしてる間にベッドの上に下ろされる。そしてイルミも隣に腰を下ろした。二人分の体重にベッドが軋んだ音を立てると同時に、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。
 そこではたと気付く。キルアの気配が室内のどこにもないことに。

「キルアはどうしたの? 」
「執事が回収したよ。元のホテルに送り届けるように伝えてある」
「いつの間に……」

 手際の良さに舌を巻く。どうやら私がイルミに気持ちを打ち明けていた間にさっさと事を済ませていたらしい。

「まさか罰を与えたりとかしないよね?」

 不安になって尋ねると、イルミは片眉を持ち上げた。

「おかしなことを言うね。むしろキルはナマエに巻き込まれた被害者だろ」
「……」

 確かにそうなんだけど、イルミに言われると釈然としないものがある。

(キルアにお別れくらい言いたかったな)

 名残惜しく思っていると、突然腕を引かれた。体勢を崩して前のめりになったところをイルミに抱き留められる。そしてそのまま背中に腕を回され、ぎゅっと抱きしめられる格好となった。

「な、なに?」

 動揺のあまり声が裏返る。こうして抱きしめられるのは初めてのことじゃないのに、状況が状況なだけに否応なしに緊張してしまう。

「ナマエはオレのことが好きなんだよね」

 耳元で囁かれる声に頬が熱くなる。返答に窮していると、さらに追い打ちをかけられた。

「なら証明してみせてよ」
「証明って……」

 密着した体勢のまま顔を覗き込まれる。イルミは瞬きもせず私を見つめながら、指の節で頬を撫でてきた。

(うわ。なんかこれ、すごくまずいかも……!)

 まるで壊れ物を扱うかのような繊細な手つきにぞわぞわする。いつもみたいな強引さは微塵もないのに、なぜか捕食されてしまいそうな恐怖を覚える。だけど同時に期待にも似た感情が湧き起こってきて、心臓の鼓動はますます速くなるばかりだ。

「何をすれば良いの?」 

 戸惑いながらもそう尋ねると、イルミは薄く笑った。そして、頬をくすぐっていた手をゆっくりと滑らせる。首筋をたどり、鎖骨のかたちを確かめるように指先が這わされる。びく、と肩に力が入ったのを見て、イルミは言った。

「分からない?」

 試すような視線を向けられ、ごくりと唾を飲み込む。ここまでされればさすがに何を求められているのか分かる。けれど、それを行動に移せるかどうかは別問題だ。

「わ、かるけど……そんな急に言われても」
「オレたち両思いなんだよね? 何が問題なの」

 イルミの口から両思いなんて言葉が出てきたことに一瞬動揺する。改めて言われるとなんだか無性に恥ずかしいというか、むず痒い気持ちになった。

「問題っていうか、心の準備が……」
「じゃあ今してよ。ほら」

 イルミは容赦なく急かしてくる。さっきまであんなに疑ってたくせに、この変わり身の早さはなんなんだ。

「ナマエ」

 促すように名前を呼ばれる。その深みのある声音は、今まで聞いてきた威圧的なものとは違う。まるでこれから特別なことをするかのような雰囲気を孕んでいて、私はますます身動きが取れなくなった。

「お前からできないっていうならオレがするけど」

 言うなり、イルミが私の腰を抱く。近すぎる距離に耐えかねて顔を背けようとするけれど、頬に添えられた手がそれを許さない。そのまま強引に視線を合わせられると、いよいよ逃げ場がなくなった。
 イルミがわずかに顔を傾げ、ゆっくりと顔を近づけてくる。キスされる、と理解した瞬間、頭の片隅がすっと冷えるような感覚に襲われた。

「待って!」

 自分でも驚くほど大きな声が出て、イルミの動きが止まる。私は慌てて顔を背けた。

「……イヤなの?」

 イルミが僅かに眉根を寄せる。それがなんだか妙に切なげに見えて、咄嗟に「違う」と否定していた。

「そうじゃなくて、まだ話が終わってないから……!」

 しどろもどろにそう答えると、イルミは呆れたように嘆息した。

「またそれ? これ以上何を話すっていうの」
「大事なことなの!」

 イルミは僅かに目を眇めた。そしてややあってから抱きしめていた腕を緩める。腕の囲いから逃れた私はほっと息をつくと、改めてイルミに向き直った。

「あのね、イルミ」

 ここからが本題だ。私はぎゅっと拳を握ると、毅然とした態度で切り出した。

「私、家には戻らないから」
「――は?」

 その瞬間、空気が震えるのが分かった。それまでの甘ったるい空気から一転、一気に張り詰めた緊張感がその場を支配した。

「お前、何言ってるの?」
「ゾルディック家に戻るつもりはないって言ったの」

 イルミの目がすうっと細められる。その眼差しは冷たく鋭く、並の人間であればたちまち竦み上がってしまうだろう威圧感を放っている。私にとっては馴染み深いものだ。殺気を向けられる方が慣れているなんておかしな話だけれど、これが私たちにとっての普通なのだから仕方ない。

「この期に及んでまだそんなこと言ってるんだ。お前さっき言ったよね? オレのそばにいたいって。あれは嘘だったわけ?」

 苛立ちを滲ませた声音で問い詰められる。怒りを爆発させる寸前のような雰囲気に気圧されそうになるけれど、ここで怯んではいられない。ここできちんと意思表明をしなければ、きっと私たちの関係は変わらないままだ。

「嘘じゃないよ。でも、あの家に戻らなきゃそばにいられないんだったら、そんなの意味ない」
「意味ない?」

 私の言葉を繰り返して、イルミはぴくりと眉を動かした。そして黙ったまま探るような眼差しを向けてくる。私は緊張で口の中が渇くのを感じながらも続けた。

「うまく言えないけど……あの家で前みたいに暮らせば、きっと私はまた自分の存在が霞んでいくような気持ちになると思う」
「あの頃と今じゃ状況が違うだろ。もうナマエのことを昔のままだと思ってる人間なんていない」
「だとしても、あそこには戻りたくない。少なくとも今はまだ」

 イルミの眉間の皺が深くなる。その表情からありありと不満が見てとれた。
 彼の中では、私を家に戻すことは決定事項だったんだろう。でも今回は絶対に退かないと決めていた。私にだって譲れないものはあるし、好きだからといって何もかもくれてやるつもりはない。

「認めない。ナマエはオレと一緒に帰るんだよ」
「いやだ。私、外の世界で生きていくって決めたの。だから帰らない」
「ナマエ」

 咎めるように名前を呼ばれ、睨み返す。負けじと見つめ続けていると、イルミの目が酷薄に細められた。

「なら力づくで連れ戻すまでだね」
「そしたらまた逃げ出すよ」
「次は逃がすつもりないから問題ない」
「無理やりそばに置いてイルミはそれで満足なの?」
「手放すよりマシだろ」
「私のこと信じるって言ったくせに」
「及第点って言ったはずだよ。完全に信じたわけじゃないし、ナマエのことだからいつ心変わりしてもおかしくないと思ってる」
「イルミが疑ってるのは針の効果が残ってないかってことでしょう。これで大人しくゾルディック家に戻るようならそれこそ疑った方がいいんじゃない?」
「詭弁だね。そんな言い逃れが通用するとでも?」

 売り言葉に買い言葉のような応酬が続く。どちらも引く気配はなく、膠着状態が続いていた。

(どうしてこうも極端なんだろう)

 私は内心で嘆息した。イルミの思考はいつだってシンプルだ。欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない。そして、相手を支配することが最上の選択だと信じ切っている。
 改めて、どうしてこんな男を好きになってしまったのかと己の趣味の悪さに嫌気が差す。それでも根付いた感情というものはそう簡単に消せるものではないし、もう引き返すことも出来そうにない。だからこそ自分の意思を曲げるわけにはいかないのだ。

「ゾルディック家がイルミにとって切っても切り離せないものだってことは分かってる。でも、私があの家に戻らないからってイルミのことを切り離すわけじゃない。むしろ逆だよ」
「どういう意味?」

 問い返されて、私は小さく息を吸った。

「あの家に閉じ込めたりしなくても、私はもうイルミから逃げたりなんかしない。離れていてもイルミと一緒に生きていくって決めたから」

 ありったけの想いを込めて告げると、イルミの瞳が僅かに見開かれた。同時にそれまでピンと張り詰めていた空気がわずかに和らぐのを感じる。その隙を逃さず私は続けた。

「イルミが好き。だから、私を自由にして」

 イルミはしばらく何も言わなかった。私もそれ以上は何も言わないで、ただじっと彼の瞳を見つめる。長い沈黙の後、イルミは深々と嘆息した。

「ナマエって本当にワガママだよね」

 そう吐き捨て、髪を掻き上げる。その仕草はどこか投げやりな印象を受けた。

「オレをキープしておいて、自分は好き勝手するつもりなんだ?」
「キープって……私はただイルミと対等でいたいだけだよ」
「ふぅん。対等ね」

 皮肉めいた口調で呟くと、イルミは前髪を掻き上げたまま頭を傾ける。そしてふーっと息を吐き出すと、目線だけをこちらに寄越した。

「好きにすれば」
「えっ?」
「だから、ナマエの好きにすればいいって言ったんだけど」

 思わず目を瞬かせる。あまりにも呆気なくて、どう反応していいか分からなかった。てっきりまた言い争いになるか、実力行使に出られるものとばかり思っていたのに。

「いいの?」
「どうせオレが何言っても聞かないだろ。これ以上話しても時間の無駄」

 至極面倒臭そうに吐き捨てられる。けれど、これは彼なりの譲歩に違いなかった。そう理解すると同時に嬉しさが込み上げてくる。いびつな私たちの関係も少しは前進したと思ってもいいんだろうか。

「ありがとう、イルミ」

 喜びを隠さずにそう伝えると、イルミは不愉快そうに鼻の頭に皺を寄せた。

「言っておくけど、ずっと野放しにしてやるつもりはないから。またオレから逃げるようなら今度こそ容赦しないよ」
「もう逃げないって言ったでしょ」
「どうだか」

 そこでイルミは言葉を切ると、不意に顔を近付けてきた。反射的に後ずさろうとしたものの、いつの間にか背中に回された腕がそれを許さない。

「もしまた裏切ったら次は針を刺すぐらいじゃ済まさない。手足を切り落としてでもオレの手元に置いておく」

 間近で囁かれた声は、ぞっとするほど冷ややかだった。決して大袈裟な脅し文句じゃない。イルミなら躊躇なくそれをやってのけるはずだ。
 真っ当な人間ならば到底抱え切れないほどの重苦しい感情。その重さを受け止められるのはきっと私だけだろう。それを特別だと感じるあたり、私も大概毒されている。

「分かった」

 覚悟を決めて頷き返す。しかしイルミの眼差しは鋭いままだった。

「言ったね? その言葉忘れるなよ」
「分かってる」
「そう。なら、せいぜい気を付けることだね」

 私の言葉などまるで信用していない様子でそっけなく返すと、イルミは腰を抱いていた腕を解いた。
 いくら言葉を尽くしたところで信頼を得るのは限界がある。それなら行動で示すしかないだろう。
 私は息を吸うと、イルミの胸ぐらを掴み、勢いよく引き寄せた。そしてそのまま唇を重ねる。軽く触れるだけのキスだったが、自分からするのは初めてのことだ。
 私がこんなことをするなんて夢にも思わなかったんだろう。イルミは驚愕に目を見開いて固まっている。それが少し愉快だった。

「イルミこそ、やっぱり心変わりしたなんて言ったら許さないから」

 真っ赤になっているであろう顔を見られる前に、さっと身体を離す。しかしすぐに腕を掴まれて引き戻されてしまった。そのまま強く抱き寄せられ、今度は彼の方からキスされる。さっきよりも強く押し当てられ、貪るような口づけを繰り返す。息をつく暇もなく何度も求められて、頭がくらくらしてきたところでようやく解放された。

「ナマエのくせに生意気」

 苛立った様子で吐き捨てられるが、その声色に怒りの色はない。むしろ楽しんでいるような余裕すら感じ取れる。それが悔しくて睨みつけると、イルミは愉しげに目を細めた。

「あんまり煽らないでくれる? これでも我慢してるんだけど」
「煽ってなんか……」
「自覚がないのがタチ悪いよね。まあ、いいけどさ」

 イルミは嘆息すると、今度は私の首筋に唇を寄せた。ちゅ、と小さな音を立てて吸い付かれ、肩が震える。

「これからはもうオレのものだってこと、嫌というほど教え込んでやるから。覚悟しておいて」

 耳元で囁かれた言葉に背筋が粟立つ。その声色はどこか楽しそうで、それでいて仄暗い狂気を感じさせた。
 私はもうこの男から逃れることはできないのだろう。身も心も絡め取られて、いつかは飼い殺される運命なのかもしれない。それでもお互いがお互いの唯一とするならば、そこにどんな結末が待っていようと後悔はしないと思った。

「望むところだよ」

 挑発的に答えると、イルミは満足げに笑う。そして再び唇が重ねられた。
 どこまでも深い闇の底に沈んでいくような感覚に身を委ねながら、私はゆっくりと目を閉じた。


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