不可逆が降り積もる




 淡い月影が照らすイルミの表情は、相変わらず無機質で感情を読み取ることができない。ただ静かにこちらを見つめる視線に絡め取られ、私はごくりと唾を飲み込んだ。
 自ら仕掛けたこととはいえ、こうもあっさりとイルミが姿を見せるとは思っておらず内心動揺していた。少しでも油断したら足元から震えがきそうだった。

(だめだ。気を強く持たないと)

 自らを奮い立たせ、怯む心を叱咤する。これから私がやろうとしていることは決して生半可な覚悟では挑めないと分かっているから。

 長い沈黙が訪れる。互いに視線を交わしたまま微動だにしない私たちの間を、さわさわと風が吹き抜けていった。それを合図にするかのように、イルミが口を開く。

「驚いたよ。まさかキルを人質にするなんてさ」

 抑揚のない声が夜風に乗って耳に届く。人質だなんて随分な言い方だけど、事実キルアを盾にとったのは事実なので反論はしない。

 私はキルアが宿泊していたホテルにイルミ宛の書き置きを残しておいたのだ。
 ――キルアのこと借ります。満足したら帰すのでご心配なく。
 と。メッセージは、メモを発見した執事たちによってすぐにイルミへと伝えられたはずだ。我ながら安直というか、もう少しいいやり方があっただろうと思わなくもないけど、結果的にイルミを釣ることに成功したのだから良しとしよう。問題は、このあとイルミがどう出てくるかだ。

「ずいぶん思い切ったことをしたものだね」

 イルミはなおも感情の読めない声で淡々と続ける。他でもないキルアの身柄を楯に取ったのだからもっと怒りを顕わにするかと予想していたのだけれど、イルミの様子からはそういった兆候は見られなかった。予想外の反応に若干の戸惑いを覚えつつも、私は慎重に口を開いた。

「だって、こうでもしないとイルミは私の前に現れないと思ったから」

 能面のようなイルミの顔に僅かな変化が訪れる。それはほんの些細なものだったけど、相手の心の動きを悟るには十分だった。

「こっちから会いに行ってまた逃げられても嫌だしね」

 あえて挑発するような物言いをすると、イルミはぴくりと片眉を上げた。

「それで? こんな回りくどいことしてまでオレに何の用?」
「この前の話の続きがしたくて。まだ質問にちゃんと答えてもらってない」
「またそれか。お前も大概しつこいね」

 呆れたように溜息をつくイルミに対し、負けじと言い募る。

「しつこくて結構。イルミこそ、どうしてそこまで頑なに答えようとしないの? まるで何かを怖がってるみたい」

 今度ははっきりとイルミの表情が動いたのが分かった。眉間に皺を寄せ、不愉快そうな視線を投げてくる。

「オレを挑発してるの?」
「事実を言ったまでだよ」

 イルミが怒っていることくらい、空気を通して伝わってくる。下手をすれば一触即発の状況だ。でも、ここで退くわけにはいかない。

「そうやってはぐらかそうとしても無駄だよ。イルミが核心を避けてることくらい分かってる。だから私を遠ざけようとしたんでしょ。もしまた同じことをするつもりならどこまでも追いかけて問い詰めてやるから」

 自分でも驚くくらい強気な言葉が次々と口をついて出る。心の奥底では恐怖が渦巻いているというのに、それを覆い隠すようにして感情が昂っていた。イルミが何を考えているのか知りたい。その強い思いだけが私を突き動かしていた。
 私の言葉を受けて、イルミの双眸に一層鋭い光が宿る。だがそれも一瞬のことで、すぐに感情の読めない表情に戻った彼は静かに口を開いた。

「へぇ……面白い。今まで散々逃げてきたナマエがそんなこと言うなんてね。どういう心境の変化?」
「たしかに前はそうだったよ。あの家から、イルミから離れればそれで何もかもリセットできると思ってた。だけど……それじゃダメだって分かったから」

 一呼吸おいて、続ける。

「どこまで行っても、自分の心の中にあるものからは逃れられないんだって思い知った」

 何かがねじれ、ねじくれきって、どのようにしても元に戻らない。そんな取り返しのつかない感情が自分の中に存在することを思い知らされた。こんな感情を抱えたまま何も無かったように生きていけるほど私は器用な人間じゃない。それならいっそのこと全てを受け入れて、立ち向かうしかないと思った。

「だから、もう逃げたりしない」

 そう言って私は一歩前に踏み出した。少し手を伸ばせば互いに触れられるほどの距離まで近づき、足を止める。

「たとえどんなことがあっても私は諦めないよ」

 それは脅迫のようでいて懇願でもあった。どちらともつかぬ心持ちのまま、私は言葉を継ぐ。

「どうして私に針を刺したの? イルミは私のことどうしたかったのか、教えてほしい」

 その問いに、イルミは僅かに目を細めた。それはまるで何かを躊躇っているかのような仕草だった。

 ふたたび沈黙が訪れる。イルミは何も答えない。でも、視線が外れることもなかった。私は黙って待ち続けることしかできない。緊張で心臓が早鐘を打つのを感じながら、祈るような気持ちでイルミの答えを待った。

 どれくらい時間が経っただろうか、やがてイルミがぽつりと呟いた。

「針は――ナマエが他の誰かを選ばないように刺した」
「……は?」

 長い沈黙を破って発せられた言葉は、予想だにしないものだった。呆然とする私を余所にイルミは滔々と捲し立てる。

「お前に刺した針にはそういう作用があったんだよ。他の奴と深い関係を築くのを阻害するようなね。つまりナマエがオレ以外に目を向ける余地を失くしてたってこと」

 まるで他人事のように語ってのけるイルミに混乱を覚える。思考力を低下させたり、認知を歪ませる類の針だという気はしていたけど、まさか他者との関係構築にまで影響を及ぼすものだったなんて。そんな微細なコントロールまで可能な針を生み出せること自体衝撃的だけど、それより気になるのはイルミの意図だ。

「どうして……」

 理由を問おうとすると、イルミは遮るように言葉をかぶせてきた。

「針がなければ、ナマエはオレを選ばない」

 イルミが静かに告げる。その表情には一切の変化がなく、ただ事実を述べているだけであることが窺えた。それが余計に私の胸をざわつかせる。

「なんでそう言い切れるの? そんなのわかんないよ」
「分かるさ。何年お前を見てきたと思う」

 そう言うなり、イルミは距離を詰めてきた。反射的に後退ろうとしたけれど、思いの外強い力で腕を掴まれたため身動きが取れなくなる。

「今は針を抜いたばかりで一時的に気持ちが昂ってるだけだ。いずれ針の影響も抜けて、冷静な判断ができるようになったらオレへの興味も失う。本来のナマエならオレに執着なんてしないよ」

 私は目を見開いてイルミを見つめた。淡々とした口調とは裏腹に、その瞳に昏い影が落ちるのが見えたからだ。

(これが、イルミの本心?)

 にわかには信じがたい気持ちが湧き上がってくる。だって、あのイルミが、まるで弱気な発言をしているように聞こえたから。いや、事実そうだ。イルミは、私がイルミを選ぶはずないと思い込んでいる。そして、針がなければ興味すら失うだろうと。あのイルミが、だ。

(イルミにこんな一面があったなんて……)

 今まで知らなかったイルミの弱さの一端に触れたようで、心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさを覚える。私は知らないうちに胸の前でぎゅっと拳を握り締めていた。

「だから針を刺した。ナマエがオレの存在だけに縛られるように。その心に誰も踏み込ませることがないようにね」

 長い人差し指がつうっと私の首筋をなぞる。まるで毒でも塗り込められているかのような感覚に動揺を隠しきれないまま、私は黙って続きを待った。

「それでもナマエは屈しなかった。それどころかオレを欺いて逃げ果せたんだ。あの時ばかりは驚いたよ。オレから逃げ続けるナマエが、どうしようもなく憎らしくなった」

 イルミはそこで言葉を区切ると、ぐっと顔を近づけてきた。長い黒髪がさらりと私の頬を掠める。ほとんど距離がないくらい近くで見下ろすイルミの双眸には、息を呑むほど苛烈な感情が宿っていた。

「オレを選ばないなら、いっそ壊してやろうかと思ったよ。消えない傷を残して、醜くオレを憎めばいい。それならお前もオレに囚われ続けるだろう?」

 それは狂気にも似た愛執だった。ぞわりと肌が粟立つほどの恐ろしさを感じる一方で、何故か胸が締め付けられる。

「だけど――お前はどこまでもオレの思い通りにはなってくれないみたいだね。本当に嫌になるよ」

 独りごちるように呟くと、イルミは目を伏せた。それと同時に私を捕えていた腕からもふっと力が抜けて離れていく。途端に全身の血液がどっと巡る感覚がした。いつの間にか息を詰めていたらしく肺が忙しなく膨らんではしぼむ。イルミの独白は思いの外私には衝撃だったようで、しばし呆然とその場に立ち竦んだ。
 憎まれることで満たされる心があるのだろうか。選ばれないのならいっそ憎まれる方がいいという極端な発想は、私の理解の範疇を超えている。だけど、これがイルミという男なのだ。

(こんなのおかしい、理解なんてできない。そう考えるのがきっと正常で、間違ってる)

 これまで生きてきた中で培ってきた倫理観や常識が頭の中で警鐘を鳴らし続けている。しかしその一方で、これほどまでに狂おしい感情を向けられているのかと思うと胸の奥が疼くのを感じた。どうかしてるってわかってるのに、どうすることもできない。相反する感情が胸の内でせめぎ合う中、私は何とか声を絞り出した。

「イルミは、ひとつ大きな勘違いをしてる」

 イルミがゆっくりと視線を持ち上げる。暗く澱んだ眼差しが私を搦め捕ろうとする。深い執着心が窺えるその目が、かえって私の心を揺さぶった。
 もう認めよう。私は、イルミからの執着が嬉しい。これが誰に作られたわけでもない私の本音なんだ。

「針がなければ選ばないんじゃない。針が私の本心を惑わせてたんだよ」

 断言すると、イルミがぴくりと片眉を動かした。こちらを見つめる目が訝しげに細められるのが分かったけれど、構わず続ける。

「私はイルミのやり方を認められない。力づくで相手を支配しようとするのも、憎ませるために傷つけるのも、全部間違ってると思う。でも……」

 そこで大きく息を吸い込んだ。胸の鼓動が激しい音を立てている。ともすれば震えそうになる手をぎゅっと握りしめて覚悟を決めた。

「それでも、私はどうしたってイルミが好きなんだよ」


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