この傷も結び目




 一人取り残された私は、しばらくの間呆然と座り込んでいた。あまりに色々なことが起こりすぎて、感情の処理が追いつかない。

『どこにいようが、どんなに離れていようが、お前を苛むのはオレだけだ』

 去り際にかけられた台詞が脳内で反芻される。あんな風に激しい執着を見せておきながら、あっさりと私を解放した。矛盾した行動の真意は、どこにあるのだろうか。

「もうわけ分かんない……」

 脳の処理能力が限界を超え、両手で顔を覆う。耳の奥にはまだイルミの声がこびりついて離れないし、触れられた感触もはっきりと残っている。その全てが心をかき乱し、正常な思考を奪っていくようだ。

(ほんと何なの。あれだけ好き放題しておいて、急に放り出すなんて勝手すぎる)

 結局イルミからは何の説明も得られなかったし、こちらは一方的に振り回されただけだ。腹立たしいことこの上ない。

「あー、むかつく!」

 悪態を吐いてみるものの、思考を支配するのは怒りだけではなく、困惑と──認めたくはないけど──わずかな寂寥感だった。

(なんで私がこんな……まるでイルミに捨てられて、寂しいみたいな)

 瞬時に浮かんだ考えをすぐさま否定する。しかし、思考とは裏腹に心臓はぎゅっと締め付けられるようだった。イルミから解放されて喜ぶべき状況のはずなのに、手放しには喜べない自分がいる。

(でも、これが私の本心なんだ)

 針の影響下にあった頃は、自分の感情を信じることができなかった。元に戻った今、やっと自分の本当の気持ちと向き合えるときがきたのかもしれない。

(私は──)

 心の奥深くに閉じ込めていた感情が、ゆっくりと解きほぐされていく。針のせいで無理やり植え付けられた感情だと思いたかったけれど、そうではなかったみたいだ。

「我ながら悪趣味」

 思わず苦笑いがこぼれた。ここまでされてまだそんな感情を抱けるなんて、自分でもどうかしていると思う。それでも、この感情が偽らざる本心だと認めざるを得ない。

(だけど、イルミは私から憎まれることを望んでる)

 先ほどのイルミの言葉が蘇り、ぐっと唇を引き結ぶ。あの時の常軌を逸した瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
 私たちの間には計り知れないほどの隔たりがあって、その溝を埋めることはどうやったってできそうにない。そんなことは出会った時から分かっていたし、諦めてもいたつもりだった。なのに今さらになって、その事実をこんなにも苦しく思うなんて。

(私はどうしたいんだろう)

 自問するまでもなく、答えは既に自分の中に存在していた。

「私も大概、諦め悪いな……」

 自嘲気味に呟く。厄介極まりない感情を持て余しつつ、私は重い腰を持ち上げた。
 とにかく今は、ここから離れることが先決だ。ひとまず国境を目指そう──そう考えた私は、まずは現在地の確認をすべく周囲を見渡した。開けた視界に映るのは、見渡す限りの赤茶けた大地だった。かろうじて道らしきものは存在しているが、ほとんど舗装もされていない砂利道だ。しかし遠くを見やると、道の先には壁のようなものがそびえているのが見える。あの壁が国境を示しているのか、それとも単に街へと続いている道なのかは判断が付かないけれど。

(とりあえずあそこまで歩こう)

 そう決めて足を踏み出した時、ポケットの中で携帯が振動していることに気が付いた。慌てて引っ張り出して画面を確認すると、そこには着信中の文字と共にシャルナークの名前が表示されている。あまりのタイミングの良さにギョッとしつつも、とりあえず通話ボタンを押した。

「あ、もしもしナマエー?」

 電話越しの明るい声に思わず顔を歪める。先ほどアンテナを刺されかけた記憶はまだ鮮明に残っていて、どうしても警戒してしまう自分がいた。

「何?」

 素っ気なく答えると、シャルは相変わらずの軽い調子で続けた。

「あいつは?まだ一緒?」
「一人だよ」
「なーんだ。オレから電話したらまた修羅場るかと思って期待したのに」

 完全に面白がっている様子のシャルに、苛立ちを通り越して呆れすら感じた。

「さっきのは一体どういうつもり?」
「さっきのって?」
「アンテナを刺そうとしてきたことだよ」
「あれ、ナマエもしかして怒ってる?」
「当たり前でしょうが!」

 声を張り上げると、電話の向こうのシャルはくつくつと笑い声を上げる。

「そう怒鳴るなよ。最初にナマエに刺したアンテナとは別物だし、たとえ刺さってたとしても特に害はなかったって」
「ぜったい嘘」
「ほんとほんと。あれはただの脅しだよ」
「脅しって……そんなことする意味が分からないんだけど」
「だってナマエが煽るようなことばっかり言うからさぁ。ちょっとだけ怖がらせてやろうと思っただけ」

 ついさっきイルミにも同じようなことを言われたのを思い出して、苦々しい気持ちになる。どうやら私は意識していなくとも、人の怒りを買うような発言をしてしまうらしい。だからと言って、あんな仕打ちを受ける理由にはならないけれど。

「ま、この話はもういいじゃん。王子様が守ってくれたわけだしさ」
「はぁ?」

 意味不明な単語の登場に眉間に皺が寄る。何を言ってるんだこいつは。
 私の怪訝な声を聞いて、シャルはまた笑った。

「飽きられてるなんてとんだ杞憂だったね。むしろめちゃくちゃ愛されてるじゃん」
「な……」
「ナマエの王子様は見た目に似合わず情熱的みたいだね。あーあ、妬けちゃうなぁ」

 明らかにからかわれてると分かるのに、それでも頬には熱が集まってしまう。こちとらついさっき自分の感情を受け入れたばかりで、受け流せる余裕なんてない。居た堪れなさに口を噤むが、シャルはお構いなしに話を続けてくる。

「でも今は一人なんだ? てっきりそのままお城にでも連れ去られてるのかと思った」
「……車に乗せられたけど、途中で放り出されたんだよ」
「なにそれウケる。さっそく捨てられてるじゃん、ナマエ」
「うるさいな。ていうか、何の用なわけ?」

 このままだと調子づかせるだけだと思い、無理やり話題を変える。するとシャルは思い出したように「そうそう」と声を上げた。

「ナマエが今持ってるその携帯、ちゃんと返してもらうからね」
「え」
「え、じゃないでしょ。人から借りたものを持ち逃げするつもり?」
「いや、それは……」

 痛いところを突かれて口ごもる。盗むつもりはなかったけど、まさか向こうからそう言ってくるとは思ってもみなかった。
 正直、シャルとはこれ以上関わりたくないというのが本音だ。でも、向こうがそう易々と逃してくれるはずがないことは分かりきっている。どうにか穏便に済ませられる方法がないかと考えていると、そんな私の思考を見透かしたかのようにシャルは笑った。

「ちなみに直接じゃなきゃ受け取らないから」
「ええー……」
「当然だろ。それとも、こっちから回収しに行ってあげようか?」

 口調は軽いが、その言葉の裏には有無を言わせない圧があった。きっとシャルのことだから碌でもないタイミングを狙って会いにくるに違いない。それこそイルミといる時なんかに持ってこられたら最悪だ。それだけは何としてでも阻止したかったので、私は早々に白旗を上げた。

「わかった、わかったよ。返しに行きます」
「よろしい。ま、すぐじゃなくていいよ。オレも今ちょっと立て込んでるしねー」
「はぁ」
「でも、オレに貸しがあるってことだけは忘れないように。このまま後腐れなくサヨナラ、なんてのは無理だからね」

 念押しするようなシャルの言葉に閉口する。借りがあるのは事実だし、ちゃんと返すつもりではあるが──どうにも嫌な予感が拭えない。渋々「分かってる」と答えると、シャルは満足げな声で続けた。

「そんじゃ、また連絡するよ。王子様によろしくね」

 勝手に言いたいことを言って、シャルは一方的に通話を切った。一気に脱力し、ため息を吐きながら携帯の画面を見つめる。
 もしかして私はとんでもない相手に貸しを作ってしまったんじゃないだろうか。今更ながらにそんな考えが頭をよぎるが、過ぎたことをうだうだ言っても仕方ない。とりあえず今は、優先してやるべきことがある。気を取り直して再び眼前に広がる荒野を見やる。私は意を決して足を踏み出し、歩き始めた。


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