噛んで拒んで




「なにそれ」

 声に乗る怒りがあまりに鮮明で、私はびくりと肩を揺らした。恐る恐る視線を上げると、イルミはいつの間にかこちらを振り返っていた。その瞳が息を呑むほどの獰猛さを湛えていることに気付き、背筋が冷たくなる。

(しまった)

 とっさにそう思ったがもう遅い。驚きと困惑で固まっている私に対し、イルミはなおもまくし立てた。

「憎みきれないってなに。お前はオレに何をされたか忘れたわけ?」

 刺々しい声で問われ、ますます混乱する。なぜイルミがこんなにも激昂しているのか全く分からない。

「忘れてないよ。でも……」

 萎縮しながらも私は反論しようとしたが、イルミはそんな隙を与えずに続ける。

「どこまでもおめでたい奴だね。また同じことをしてやらないと分からないのかな」

 昏い輝きが浮かぶ瞳で、イルミが傲然と私を見下ろす。脅すような苛烈な眼差しだ。
 本能が警告を発している。今すぐ逃げろ、と。でも──それでも、目をそらすつもりはなかった。ここで逃げてしまったら駄目だ。そう感じて、ぐっと目に力を込めてイルミを見つめ返す。

「イルミからされたことで忘れたことなんて一つもない」

 イルミはわずかに目を細めた。私は怯みそうになる気持ちを鼓舞しながら続ける。

「針の存在を知った時のことも、全部覚えてる。絶対に許さないと思った」

 言葉にするうちに、あの日の激情が鮮やかに蘇る。臓腑がひっくりかえるほどの怒りや屈辱、そして──それらを凌駕するほどの絶望も。今もなお私の心の根底にあり、消そうとしても消えない傷痕として残り続けていた。きっとこれから先も、忘れることはないだろう。

「でも、もう憎しみに囚われたまま生きていくのは嫌なの」

 そう口にしてから、自分の感情の変化に改めて気付かされる。あれだけイルミのことを恨んでいたのに、いつの間にか過去の出来事として消化し始めている。針を抜いたことで、自分が思っていたよりも私自身は変化しているのかもしれない。それを自覚した途端、少しだけ気が楽になった。

「ずっと認めたくなかったけど、やっぱりイルミのこと……嫌いじゃないんだよ」

 瞬間、イルミの目が大きく見開かれたのが分かった。しかしそれも束の間のことで、すぐに突き刺すような眼差しへと変化する。

「ナマエは本当にオレを煽る天才だよね」

 予想外の台詞に面喰らう。どうしてそうなるのか、全く意味が分からなかった。しかしそんな思考は瞬く間に中断される。
 イルミはいきなり手を伸ばし、私の顎を掴んだ。

「っ……!」

 反射的に身を引くが、そんなことで逃げられるはずもなく顎を掴まれたまま間近で睨まれる。そこには背筋が冷たくなるほどの怒りが滲んでいて、本気で殺されるかもしれないという恐怖に駆られた。
 しかし、次の瞬間に起こったのは予想外のことだった。

(──え?)

 引き寄せられるようにして唇が重なる。あまりにも突然のことだったので、一瞬何が起こったのか理解できなかった。

「んっ!」

 唇を抉じ開けられそうになり、はっと我に返る。咄嗟に顔を背けようとしたが、がっちりと掴まれていてそれは叶わない。顎を掴む手は離れることなく、強引に口付けられる形となった。

(どうして)

 まさかこんなことをされるとは思ってもみなくて、頭の中は大混乱だ。パニックから抜け出る暇もないまま、無遠慮にイルミの舌が侵入してきた。生々しい感触に背筋がわななく。

「んぐっ……!」

 やめろと抗議の意味を込めて呻いても、くぐもった声にしかならない。私が拒絶しようとすればするほど強く押さえつけられ、呼吸をすることも許さないとばかりに深く口付けられる。酸素を求めて口を開けば、さらに舌が押し込まれた。嫌悪感からかはたまた別の何かなのか、ぞわりと肌が粟立った。

(嫌だ!)

 私は咄嗟にイルミの舌を噛んだ。その瞬間、ようやく唇を解放される。

「っはぁ!はぁ……っ」

 必死に空気を吸い込んで荒い呼吸を整える。混乱と動揺で涙が滲み、視界が歪んでいた。一方、イルミは顔色一つ変えていない。それが腹立たしく、私はキッとイルミを睨みつけた。

「いきなり、何すんの!」

 絞り出した声はみっともなく掠れて震えていたが、怒りを込めたせいか思った以上に大きな声が出せた。しかし当の本人は素知らぬ顔で口の端に付いた血を拭っている。

「何ってキスだけど」

 それが何か?と言わんばかりの態度にますます怒りが込み上げてくる。

(こいつ──!)

 私は動悸と震えを抑えながら、先ほどよりも険しい眼差しをイルミに向けた。

「こういうことするのやめて」

 強く非難したものの、イルミは相変わらず平然とした態度を崩さない。それどころか煽るかのように薄らと口の端を持ち上げた。

「そうだよ。そうやってお前はオレを憎めばいい。でなきゃ不公平だろ?」

 そう言いながら、イルミが顔を覗き込んでくる。その目の奥に、底知れぬ闇と、完膚なきまでの支配力、そして狂おしいまでの渇望を見てしまった気がして、私は息を呑んだ。

「何、それ……」

 問いかけに対する答えはなかった。その代わりと言わんばかりに再び距離を詰めてくるイルミを見て、まずいと思い後ずさる。しかし、背中はすぐにドアへとぶつかった。逃げ場がないことに焦っていると、イルミは躊躇なくこちらへと手を伸ばしてきた。

(まずい、また──!)

 咄嗟に身構えたが、恐れていた感触は降ってこない。代わりに、首元にかかっていた髪をゆっくりと掻き上げられる。続いて耳の縁をなぞられ、私は肩を竦めた。

「イルミ……?」

 訝しんで名を呼ぶと、イルミは微かに目を細めた。何を考えているのか全く分からないその瞳が妙におそろしく感じられて鼓動が速まる。
 イルミの指が耳の裏を撫でる。肌がぞわぞわと粟立つ感覚に襲われて顔をしかめるが、イルミは意に介することなく指を耳から首筋へと滑らせていく。まるで恐怖とむず痒さの狭間で弄ばれているような気分だった。

(な、なんなのこれ。いったい何がしたいの?)

 妙な悪寒に襲われながらも、ろくに抵抗もできずされるがままになっていた。下手に動いて刺激してしまえば何をされるか分からない恐怖心の方が勝っていたからだ。固唾を呑んで様子を窺っていると、首元に添えられた指はそのままでイルミがぽつりと口を開く。

「行きたいところがあるんだっけ」

 脈絡のない質問に虚を突かれ、「え」と声を上げる。しかしイルミは答えを求めなかったようで、一方的に話を続けた。

「そのために流星街を出ようとしたんだろ。で、結局どこに行きたいわけ?」

 そこでようやく、シャルとの会話を聞かれていたことを思い出す。まさかこのタイミングでその話を蒸し返されるとは思っていなかった。
 目的地なんて、イルミにだけは言えるはずがない。しかし混乱した頭ではろくすっぽ考えることもできなくて、私はもごもごと口籠るしかなかった。

「……どこだろうが、イルミに関係ないでしょ」

 どう考えても悪手でしかない返答をしてしまう。内心まずいと思ったが、イルミの反応はあっさりしたものだった。

「ふーん。まぁ、いいか」

 何がいいのかは分からないが、深く追及されることはなかったので私は内心ほっと息をつく。しかしそれも束の間、突然イルミは運転席の方に向けて声を投げた。

「ここで停めろ」
「えっ、」

 急な展開についていけず声を上げようとした途端、ギチ、と車が軋んだ音を立てて停止した。一体どこに着いたのだろう。窓の外の景色を確認するため振り向こうとしたところで、いきなり背後のドアが開かれた。

「うわっ!」

 ドアに寄りかかっていたため体勢が崩れ、体が車の外へと投げ出される。そのまま尻もちをつくようにして地面に倒れ込んだ。

「いったた……」

 咄嗟に受け身を取ることもできず、強かに打ち付けた尻と手のひらがじんじんと痛んだ。何事が起きたのか分からず目を白黒させている間にも、頭上からはイルミの声が聞こえてくる。

「行きたいところがあるならさっさと行けば。ここからなら自力で国境まで行けるよ」
「は……?」

 理解が追いつかず固まっていると、イルミは車内から身を乗り出してこちらを見下ろした。

「今連れ帰ったところでナマエのことだからどうせまた逃げ出そうとするだろうし、好きにしなよ」

 その言葉に耳を疑う。てっきりゾルディック家へ強制連行されるものだと思っていたのに、まさかイルミ自ら解放してくれるなんて。思ってもみなかった展開の連続に混乱していると、こちらの心中を見透かしたかのようにイルミが続けて言った。

「――だが、忘れるな。どこにいようが、どんなに離れていようが、お前を苛むのはオレだけだ」

 怨念の籠もった囁きに背筋がぞくりとする。まるで呪いのような言葉を最後に残し、イルミは車内へと姿を消した。即座にドアは閉められ、車はあっという間に走り去って行く。私は呆然としたまま、遠ざかっていく車を見送ることしかできなかった。


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