思考停止の繰り返し
鬱蒼と木々が生い茂る森の中を一人歩く。木々の隙間から見える空はどんよりと曇っていて、昼間だというのに薄暗い。道も舗装されていない獣道で、うっかりすると方向感覚を失いそうだ。
シャルに教えられた除念師の住処を目指しながら、私は複雑な心境でいた。昨日シャルに言われたことが頭から離れないからだ。
『ナマエはその針に守られたってことだよね』
認めたくはないけれど、結果的にそうなったことは否めない。あの針がなければ、私はとっくに死んでいたのだから。だからと言って針に籠められた念に外敵から守る意図があったとは到底思えなかった。イルミの針は単純に私の脳を操作するためのものであり、今回のことはその副産物に過ぎない。そうとっくに結論付けているはずのに、どうしても思考がそちらに向かってしまうのだ。
(イルミはどうして針を刺したんだろう)
今更になってそんなことを思う。
ずっと、イルミの考えていることが分からなかった。分かろうともしていなかった。だから、イルミのことをもっと知りたいと思った。彼のことを知ることで、もしかしたら分かり合えるかもしれないと思ったから。でも、針の存在に気付いた瞬間そんなものはただの幻想だったと思い知らされた。
そこからはもう自分の思考を疑うことしかできず、とにかくイルミの元から離れたい一心で彼の真意を推し量る余裕なんてなかった。それがここに来てシャルにあんな指摘をされたせいで意識せざるを得なくなってしまった。
(単純に考えれば、私を洗脳して家に閉じ込めておくためとかだろうけど……)
そもそもなぜそこまで私に固執するのか。その理由が未だに腑に落ちていない。
――ミンボでの夜、イルミは私のことが憎いと言っていた。あの家で育ったのに染まっていない私が許せないと。だから手元に置いて正しく教育してやりたいのだと。しかし同時に、私を傷つけたいわけではないとも言っていた。矛盾した言い分だけど、嘘を言っているようには見えなかった。
そして、最後にゾルディック家の中庭で対峙したとき、イルミは「好きだよ」言った。その時は私を懐柔するための甘言としか思えなかった。自分の心を保つためには信じるわけにはいかなかったから。でも、今思えば。
『執着心っていうのは愛情の裏返しとも言うしね。ナマエってば愛されてるんだねー』
シャルの揶揄するような口調を思い出して、ぶんぶんと首を振る。
(あれが愛情だなんて冗談じゃない)
強い執着を愛と呼ぶ人も世の中にはいるかもしれない。でも、私にしてみれば愛情という皮を被った独善的な欲求に過ぎない。相手を意のままに操りたいというエゴイズム、支配欲。そんなものを愛だなんて美化して呼べるものか。
針を刺したことだって、結局のところイルミにとっては「自分の思い通りにしたい」という欲求に従った結果に過ぎないのだろう。そう考えると無性に腹が立ってきたが、それと同時に胸の奥底でずきりと鈍い痛みを感じた気がした。
「はぁ……」
深い溜息を吐いて、私は思考を打ち切ろうと努めた。あれこれ考えたところでイルミの真意なんて分かりっこないし、そもそも頭の針の存在がある以上自分の思考すら信用できないのだ。
(とにかく除念師に会って、針を何とかしないと)
忘れろ。切り替えろ。今考えるべきことは除念師との接触だ。気持ちを切り替えようと頬を両手で叩くが、気分は全く晴れない。悶々とした気持ちを抱えながら、さらに森の奥深くへと足を進めた。
歩き続けること数十分、ようやく視界の先に小さな小屋が見えてきた。恐らくあれがシャルの言っていた除念師の家だろう。年季の入った木造の小屋は見るからに古めかしく、人が住んでいるかどうかも怪しい有様だったけど、窓からは微かに明かりが漏れていた。在宅中ではあるようだ。
無駄足にならずに済んだことにほっとしつつ、木製のドアの前に立つ。深呼吸をしてからドアをノックすると、中から嗄れた声が返ってきた。
「誰だね」
「初めまして、ナマエと申します。折り入って貴方にお願いがあって来ました」
「……入りな」
促されて、恐る恐るドアをひらく。室内は薄暗く、埃っぽい匂いがした。
「お邪魔します」
一歩足を踏み入れると、ぎしりと床が軋む音がした。家の中は物で溢れており、お世辞にも綺麗とは言い難い有様だった。部屋の真ん中には古びたテーブルと椅子があり、その上には大小様々な水晶玉や動物の骨らしきものが置かれている。その奥の椅子に小柄な老婆が腰掛けていた。年齢は八十歳前後だろうか。長い白髪を後ろでまとめ上げ、顔には皺が深く刻まれている。頬はこけ、目は落ち窪み、手足は枯れ木のように細かった。しかし眼光だけは鋭く、気圧されるような威圧感があった。恐らく彼女が除念師本人で間違いないだろう。
「また随分とけったいなモンがやってきたもんだね」
老婆がぼそりと呟いた。その眼差しは値踏みするようにこちらを上から下まで眺めている。居心地の悪さを感じながら私はおずおずと口を開いた。
「あの、除念師の方と伺ってお訪ねしたのですが……」
「アンタが悪たれ小僧が寄越した余所者かい」
私が言い終わるより早く、老婆はぴしゃりと言い放った。
「その悪たれ小僧、というのはシャルのことですか?」
「それ以外誰がいるってんだい」
老婆はふんと鼻を鳴らした。シャルは直接の知り合いじゃないって言ってたけど、老婆の方はどうやらシャルのことを知っていそうだ。良い印象は抱いていないみたいだけど。
(この雰囲気で引き受けてもらえるのかな……)
不安に思いつつも、せっかく掴んだチャンスを逃すわけにはいかない。私はぐっと拳を握りしめて向き直った。
「除念をお願いしたいんです」
単刀直入に切り出すと、ぎろり、と老婆の目が険しくなった。思わず背筋が伸びる。緊張で冷や汗が滲むのを感じながら、黙って相手の反応を待った。ややあってから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「アンタの頭ん中に刺さったモンの除念かい」
「っ!」
老婆の言葉に私は息を飲んだ。まさか見ただけで針の存在を言い当てられるとは思わなかった。それだけで彼女の実力のほどが窺える。期待で鼓動が速くなるのを感じながら、深く頷いた。
「除念できそうですか?」
「誰に言ってんだ。当たり前だろう」
ふんと鼻を鳴らして言い切る老婆に、私は内心ガッツポーズをした。これでようやくイルミの針から解放される!
「お願いします、今すぐ取ってほしいんです」
前のめりに詰め寄ると、冷ややかな眼差しが返ってきた。
「で、いくら払えるんだい?」
「へ?」
間抜けな声を上げる私に、老婆は苛立った様子で繰り返す。
「報酬はいくら払えるかって聞いてるんだよ。まさかタダで除念してもらおうだなんて思っちゃいないだろうね?」
「あ、いや……」
そう言われて初めて、私は除念師に報酬を支払う必要があることに思い至った。言われてみれば当然のことなんだけど、とにかく除念師を探さなければという思いばかり先行してしまい、そこまで気が回らなかったのだ。
しどろもどろになっている私を見て、老婆は呆れたように溜息を吐いた。
「除念っつーのは安くないんだよ。アンタの場合は前金が2000万、成功報酬が8000万は払ってもらわにゃ割に合わん」
「なっ!?」
(合計1億!?)
あまりの金額に絶句する。そんな大金、支払えるはずがない。
「ちょっと高すぎませんかね……」
震える声で訴えると、途端に老婆の目がつり上がった。
「高すぎる? 馬鹿言ってんじゃないよ。これでも良心的な部類さね。いいかい、アンタの頭の中に刺さってるモンは並の除念師なら匙を投げる代物だよ。除念を引き受けて貰えるだけありがたいと思いな!」
有無を言わさぬ剣幕に気圧されて、私は口を噤むしかなかった。確かにイルミの針を抜くのは容易ではないだろう。そう考えるとこの除念師に頼むのが最善だということは分かる。でも、だからといってポンと1億ジェニーもの大金を払う余裕は私にはなかった。
「すみません、今は持ち合わせがなくて……後で必ず払うので、分割でもダメですか?」
「駄目だね。あたしゃ金の無いヤツの相手はしないよ。金作ってから出直しな」
老婆は追い払うようにしっしっと手を振った。取り付く島もないとはこのことだ。ここで粘ったところで事態が好転するとは思えないし、しつこく食い下がって機嫌を損ねてしまうのは悪手だろう。とにかく今は手持ちがないので一旦諦めざるを得ない。
「わかりました、出直してきます……」
私は肩を落として引き下がるしかなかった。
(あーあ、どうしよう)
とぼとぼと除念師の家を後にした私は、来た道を戻りながら途方に暮れていた。
除念師と接触できたのは良かったけど、依頼料のことまで頭が回っていなかったのは浅はかとしか言い様がない。しかし、それにしても1億ジェニーだなんて……。
(全然お金が足りない。足りないっていうか、そもそも1ジェニーも持ってないんだけど……)
ゾルディック家を出た時はある程度まとまったお金を持っていたけど、気づいたら財布ごと失くなっていた。おそらくキキョウさんに気絶させられた時に取り上げられたのだろう。私個人の預金なんてものもないから、正真正銘の無一文だ。
(――いや、待てよ?)
そこでハッと閃くものがあった。
「そうだ、天空闘技場のファイトマネー!」
すっかり忘れていたけど天空闘技場で戦った賞金をまだ受け取っていない。確か200階クラスで数億ジェニーのファイトマネーが出ていたはずだ。あの時は特に必要ないと思っていたけど、今となっては喉から手が出るほど欲しい金額だ。
(……いや、無理だな)
希望を見出したのも一瞬のことで、すぐに現実に引き戻される。あそこにはまだキルアがいるはずだし、見張りの執事もいるだろう。回収しにいくにはリスクが高すぎる。そもそも監視される立場にある私が流星街から易々と出してもらえるとも思えない。他の除念師の当てもないし、ここでどうにかお金を工面するしかない。
「問題はどうやって稼ぐか、だよね……」
地道に働いて貯めるには時間がかかりすぎるし、現実的じゃない。
うんうんと唸りながら頭を悩ませていると、不意に振動音が響いた。ポケットに入れたままだった携帯電話の存在をそこで思い出す。元々持っていた自分の携帯は財布同様失くしてしまったので、今手元にある携帯電話シャルから借りたものだ。何かあったとき用にと持たされたものの、おそらくは監視の意味合いもあるのだろう。出たくないなぁ、と憂鬱になりながらも無視するわけにもいかずに渋々通話ボタンを押した。
「やっほー。除念師には会えた?」
案の定シャルからの電話だった。私は溜息混じりに答える。
「うん。会えたけど、依頼料が1億ジェニーだって言われた」
「あはは!そりゃまた随分と吹っ掛けられたもんだねー」
電話の向こうでケラケラ笑われてイラッとする。絶対に面白がってやがる。
「笑い事じゃないんですけど」
「ごめんごめん。それで? 1億用意できる当てはあるの?」
「……ない」
「だろうね」
あっさり言われ、グッと言葉に詰まる。まるでこうなることが分かっていたような口ぶりに感じてしまうのは被害妄想だろうか。
「でもさ、金さえ払えば除念してくれるっていうんだからまだ良かったんじゃない? これ以上なくシンプルで分かりやすい解決方法だよ」
「それはまぁ……確かに」
「でしょ? ま、1億くらい何とかなるって」
「簡単に言ってくれるよね」
能天気なシャルの物言いに、私は恨めし気な声で返す。しかしシャルはどこ吹く風といった調子で続けた。
「とにかく頑張ってねー。応援してるからさ」
「それ、全然心こもってないでしょ」
「あはは!そんなことないって。じゃあねー」
ぶつっと一方的に切られて、通話は終了した。ツーツーと無機質な音を立てる携帯を耳に当てたまま、深い溜息を吐くことしかできなかった。