不可視の輪郭
気絶と覚醒を繰り返しながらどれくらい時間が経っただろうか。気がつけば、見知らぬ部屋の中にいた。簡素なベッドの上に寝かせられている。
(ここは……?)
まだはっきりとしない頭でぼんやりと記憶をたどっているうちに、次第に状況を思い出してきた。たしか教会の中で倒れて、パクという女性に抱えられて――そこまで思い出したところでハッとして飛び起きる。と同時に体中に激痛が走った。
「痛っ……!」
思わず悲鳴をあげる。そういえば満身創痍だったんだ、と今更のように思い至る。
再びベッドに沈み込みながら、改めて室内を見回す。部屋の中には私以外に誰もいない。広さは六畳ほどで、ベッドと机と棚が置いてあるだけのシンプルな部屋だ。教会内の居住スペースといったところだろうか。
窓の外を見ると、すでに日が高くなっていた。いつの間にか夜が明けていたらしい。敵のアジトで眠りこけていたことにゾッとしつつ、恐る恐る自分の体を確認した。手足ともに包帯が巻かれている。傷口を消毒した跡があり、薬の匂いもした。どうやら手当てをしてくれたようだ。他に異常がないことを確認して、ほっと安堵の息を吐く。
(あのパクって人が手当てしてくれたのかな)
最初に会った二人と比べると、パクという女性の方は割とまともそうに見えた。少なくとも私を害そうとする意志は感じられなかった。
そこでふと、手首のロープが解かれていることに気がついた。手首をさすりながら、これはどういうことだろうと考える。わざわざ拘束を解くなんてこれじゃ逃げてくれと言ってるようなものだ。
(逃げるかどうか試されてる? それとも、もう逃げる気がないと思われてるとか?)
相手の意図がわからず混乱する。もしかしたらこちらから見えないところで監視しているのかもしれない。そう思うと迂闊に動くことができなかった。
その時、扉が開いて誰かが入ってきた。反射的に身を固くする。入って来たのはパクだった。彼女は私が起きていることに気づくと、静かに歩み寄ってきた。
「気分はどう?」
「え、あ……はい、大丈夫です」
咄嗟にそう答えると、パクはそう、とだけ言って近くの椅子に腰かけた。そしておもむろに右手を伸ばして私の額に触れた。その仕草があまりにも自然だったので反応に遅れた。
「熱は下がったみたいね」
「あっ、はい」
「怪我の具合はどうかしら」
「痛みますけど、なんとか動けそうです」
しどろもどろになりながら、とりあえず上半身を起こそうと試みる。傷に響かないようゆっくりと上体を起こすと、パクが背中に手を回して支えてくれた。なんだかこれまで受けた扱いとは雲泥の差で戸惑ってしまう。
「鎮静剤を打ったからしばらく頭がぼんやりするでしょうけど、じきに治るわ」
そう言って、彼女はサイドテーブルに置かれていた水差しを手に取った。グラスに水を注いで差し出してくる。毒でも入ってるんじゃないかと一瞬疑ったけど、今更だと思い直して素直に受け取った。
恐る恐る口をつけると、ひんやりとした水が喉を通っていく。思っていたより喉が渇いていたらしくそのまま一気に飲み干してしまった。空になったグラスを見て彼女はまた新しい一杯を注いでくれた。
「ありがとうございます」
礼を言うのは変だろうかと思いつつも、なんとなく口に出すと、パクは小さく微笑んだ。その表情を見て、肩に入っていた力が抜ける。
(やっぱり、この人はまだ信用できそうだ)
完全に警戒心を解くことはできないものの、この人は敵じゃない、と思えた。それはこれまでの経験則に基づく直感のようなものだ。
私は意を決して、パクに尋ねた。
「あの、ここはどこですか?」
「教会の敷地内にある居住棟よ」
予想通りの答えだ。私は続けて質問を投げかける。
「さっきの二人はどこに?」
「別室にいるわ。あの二人がそばにいたら気が休まらないでしょう」
確かに、と内心で同意する。でも近くにいることは変わりないので、結局気は抜けなかった。
そんな私の心境を察したのか、彼女は少し目を伏せると静かに続けた。
「シャルに念をかけられそうになったって聞いたわ。仲間が手荒な真似をしてごめんなさい」
「はぁ……」
シャル、というのはあの金髪の男の名前だろうか。それにしてもまさか謝られるとは思ってなかった。流星街に落とされてから初めてまともに人間扱いされた気がする。どう反応したらいいかわからず、私は曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
「刺されたところに違和感はない?」
「はい」
「そう。なら良かったわ」
パクはそう言うなり、おもむろに立ち上がった。何をするつもりだろうと見ていると、部屋の隅にあった棚から救急箱を持ってきた。
「包帯替えるから腕出して」
「あ、はい」
言われるままに袖をまくると、パクは慣れた様子で包帯を解き始めた。包帯の下から擦り傷だらけの肌が現れる。おそらく黒髪の男に殴られて地面に叩きつけられた時のものだろう。まだ血が滲んでいる箇所もあって痛々しい。一通り傷の様子を見た後、パクは消毒液に浸した脱脂綿で傷口を拭き出した。染みて思わず顔を歪める。
「すぐ終わるわ」
ひとしきり消毒を終え、次は軟膏を塗り始める。その行動にますます困惑した。どうしてここまでしてくれるんだろう。
「さっきの話の続きだけど」
パクの手元を見ながらぼんやりと考えていると、彼女の方が先に話を切り出した。
「シャルにアンテナを刺されても何ともなかったのよね?」
「はい。あ、でも一瞬体が動かなくはなったんですけど、すぐに戻りました」
パクの問いに、私は記憶を掘り起こしながら答える。彼女は傷口をガーゼで覆いながら、そう、と呟いた。
「私が知る限り今までアンテナを刺されて正気を保っていた人間はいないわ。どうしてあなたは無事なのかしら」
パクは独り言のようにそう言った。そして私に視線を向けると、少し首を傾げて問いかけてくる。
「何か心当たりはある?」
「いえ、何も」
「些細なことでも構わないから思い浮かぶことはないかしら」
「えっと……」
ガーゼを押さえる手に少しだけ力を込められる。まるで尋問のようだと頭の片隅で思いながら、私は改めて自分の身に起きたことを振り返った。
(あの時、だんだん意識が遠のいていってもうダメかもしれないって思ったんだけど――)
その時のことを思い出そうとした瞬間、突然ズキンと頭が痛んだ。思わず額を押さえる。
「大丈夫?」
「急に頭痛が……」
そこで、はた、と気づく。
そうだ。あの時もたしか頭が割れそうなほど痛くなったのだ。そしたら急に意識がはっきりして、身体が動くようになった。
(あれ……あの感覚、他にもどこかで……)
記憶の断片が頭の中にフラッシュバックする。
頭が割れるような痛み。何か別の力が働いて強制的に思考が切り替わる感覚。
どちらも、頭の中の針の存在に気付いた時に感じたものと同じだ。
(――まさか、イルミの針が関係してる?)
その可能性に行き着いた途端、心臓がどくんと跳ねた。
脳裏にイルミの姿が蘇る。暗く澱んだ眼差し。感情のない声。そして、冷たい指先。イルミの姿を思い出すだけで、気持ちがざわついて落ち着かなくなる。
私の動揺を悟ったのか、パクは静かに語りかけた。
「何か思い出した?」
「あ……」
答えかけて言葉に詰まる。今この場で正直に話して良いものか迷ったからだ。イルミのことを話すことで何か不利に働くのではないか。そんな懸念が頭をよぎった。
しかし、パクは私の迷いを見透かすようにこう続けた。
「無理にとは言わないけど、もし話せることがあれば教えてくれる? きっとあなたのためにもなるわ」
パクの口調はあくまで穏やかだったけど、有無を言わせぬ雰囲気があった。何か試されているような、そんな気がした。ここで誤魔化したり嘘をつく方がリスクが高いと直感的に悟り、覚悟を決めた。
「あくまで推測なんですけど、別の念をかけられてるからだと思うんです。あのシャルって人と似た能力を持った人に」
「似た、というと?」
「念を込めた針を刺すことで人を操ることができる能力です」
「あなたが操られてるようには見えないけど」
「私もよく分からないんですけど、刺された本人も気づかないくらい微妙に精神干渉を受けるみたいで……」
そこまで説明すると、パクは得心した様子で一つうなずいた。
「その針がシャルのアンテナを無効化したってわけかしら」
「はい、おそらく」
「わかったわ」
不意にパクが手を離す。その時になってやっと、話してる間ずっと手を添えられていたことに気付いた。何だか少し違和感を覚えたけどうまく言葉にできなかった。
パクは手際良く包帯を巻き直すと、救急箱を棚に戻した。それからこちらを振り返ると、微笑みながら言った。
「正直に話してくれてよかった。これでもう大丈夫よ」
「え?」
どういう意味だろう。聞き返そうと口を開きかけると、まるで見計らったようなタイミングで部屋の扉が開いた。驚いてそちらを見れば、そこには金髪の男がいた。
(げ!)
思わず顔が引き攣る。一気に警戒心が高まった。
男は室内に入るなり、パクに話しかけた。
「どうだった?」
「問題ないわね」
「お、そりゃよかった。余計な手間が省けたね」
パクの返答に金髪は満足げに笑う。このやりとりはなんだろう。二人の会話の意味を考えあぐねていると、金髪がふと視線を向けてきた。反射的に身構えてしまう。彼は笑みを深め、つかつかと歩み寄ってきた。
「もう元気になったみたいだね」
「……おかげさまで」
精一杯睨んでやったつもりだったけど、男は意に介さないようだった。むしろ楽しげに笑ってみせる。
この男は苦手だ。されたことを考えたら当然だけど、まったく信用できない。笑顔のまま何をしてくるかわからない不気味さがある。
「いいのかなーそんな態度取って。オレ一応君の命の恩人なんだけど」
「恩人?」
何だそれ。命の恩人だなんて、一体どの面下げて言ってるんだ。
しかし、次に男の口から飛び出したのは意外な台詞だった。
「キミの捕縛命令は取り下げられたよ。もう住民に追われることはないから安心して」
「え!?」
思いもしない発言に思わず声を上げる。なぜ急にそんなことになったんだろう。
金髪は得意気に説明を始めた。
「オレから長老に働きかけたんだよ。キミが悪意を持って侵入してきたんじゃなくて、偶然あの場所に棄てられただけだったってことにして。いやー、結構苦労したよ? あのジイさん頭固いからさぁ。まぁ最終的に認めさせたんだけどね。オレの粘り勝ちってところかな」
つまり、彼が私を助けてくれたということだろうか? 何だか信じられない。私を簡単に殺そうとしていた男なのに。
パクの方を見ると、彼女は本当だとでも言うように小さく首肯した。
「それでもしばらくは監視が付くと思うけどね。そこは我慢してよ」
「はぁ……」
(まだ油断はできないけど、とりあえず助かったってことなのかな)
複雑な心境ながらも、安堵感がじわじわと湧き上がってくる。いつ誰に追いかけられるか分からない状況というのは思っていたよりもストレスになっていたみたいで、肩の力が抜けていくのを感じた。
それを察したのか、金髪はにっこりと笑いかけてきた。
「ね? オレと同盟結んで正解だったでしょ」
にっこり笑いかけられ、眉を顰めてしまう。
確かに彼のおかげで助かったのは間違いない。それは認めるけど、やっぱり釈然としなかった。それでも借りを作ったままというのも居心地が悪いので、渋々頭を下げる。
「どうもありがとうございました」
「あはは、すごい嫌々って感じ」
「……」
私が不快感を露わにしても、金髪は愉快そうに笑うばかりだった。本当に食えない奴だと思う。
「そうだ、名前教えてよ。いつまでも『キミ』じゃ不便だし」
金髪は思い出したようにそう言った。一瞬躊躇したものの、私は素直に答えることにした。
「ナマエです」
「ナマエね。おれはシャルナーク。シャルでいいよ。よろしくね」
シャルは握手を求めて右手を差し出してきた。仕方なく応じると、ぎゅっと力強く握られる。
まさか自分を殺そうとしてきた相手とこうして握手することになるとは思わなかった。人懐こい笑みを浮かべているシャルを見つめながら、複雑な気持ちでその手を握り返した。