変容する細胞
何が起きたのか理解できなかった。突然目の前に闇が広がり、平衡感覚が失われていく。身体に力が入らず、私はその場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。
(な、に……)
必死に立ち上がろうとするも、手足に全く力が入らない。まるで自分のものではないみたいに言うことを聞いてくれなかった。呼吸すらも苦しくなってきて、徐々に意識も遠のいてくる。
(まずい、このままじゃ――)
確実に死ぬ。
そう思ったとき、ズキンッと鋭い痛みが額に走った。
「っ……!」
おでこの辺りに熱が集まり、ドクンドクンと脈打っているのが分かる。まるで頭蓋骨を内側から直接叩かれているみたいな激痛だった。
しかし痛みに悶えながらも、なぜか思考はクリアになっていった。同時に視力も回復してきて、傍らに立つ二人の足元がぼんやりと見えてきた。
「そいつをどうするんだ?」
やがて黒髪の声が聞こえてくる。そちらに視線を向けると、黒髪が朽ちた長椅子に腰掛けていた。一方、金髪の方は倒れ伏す私を一顧だにせず、一心不乱に携帯電話を操作していた。その顔はまるで新しい玩具を与えられた子供のように生き生きとしている。
「んーまずはどのくらい耐久力があるか試してみようかな。ほら、この間拾ってきた奴はすぐに壊れちゃって使い物にならなかったじゃん?」
「ああ、あれは見かけ倒しだったな」
「そうそう。実験台にするならやっぱり頑丈じゃないとねー」
(……実験台?)
不穏な会話に耳を疑う。嫌な汗が流れ、心臓の鼓動が激しくなった。
「今回のは結構イケると思うんだよね。汚染区域にいてもピンピンしてるし、これは操りがいがありそうだ」
嬉しそうに声を弾ませる金髪の言葉に、私は一つの可能性に行き着いた。
(まさかこの男、念能力者?)
先程の会話から察するに、彼は何らかの方法で私の肉体を操作し、何かの実験台にしようとしているらしい。そして恐らくすでに念の発動条件は満たされている。早すぎてよく見えなかったけど、さっき頭頂部に何かを刺されたような感触があった。それが念を発動させるトリガーに違いない。
念を込めた媒体を体内に埋め込むことで対象者を意のままに動かすことができる念能力。それはまるで――。
(……イルミの念みたいだ)
その事実に気づいた途端、脳裏に忌々しい顔を浮かぶ。同時に怒りが湧いてきて、全身の細胞がざわついた。
ズキンズキンと額の奥が疼くたびに、脱力していた四肢に力が戻ってくる。指先がピクッと痙攣し、歯ぎしりをする音が口内に響いた。
こんなところで死んでたまるか。絶対に生き延びてやる。そんな強い思いが胸中に溢れ出す。気づけば全身の神経が研ぎ澄まされ、オーラが活性化していくのが分かった。
二人はこちらの様子に気づいていないらしく、のうのうと話を続けている。
「ま、最終的に使い物にならなくなったらジイさん達に引き渡そうかな。多分死んじゃってるだろうけど」
その言葉を聞いた瞬間、プツンと頭の奥で糸のようなものが切れるのを感じた。
直後、私は勢い良く上半身を起こした。完全に油断していたのか金髪の男がギョッとした表情を浮かべる。その隙を逃さず、男の顎に頭突きを食らわせた。
ゴッ、という鈍い音と共に男がうめき声を上げる。そのまま仰け反った金髪の胸部に蹴りを入れ、尻餅をつかせた後、私はすぐさま立ち上がった。そして一目散に出口へと駆ける。
今の状態で戦っても勝ち目はない。ここは逃げるしかない。そう判断し、一刻も早くこの場を離れようと全力疾走する。しかし、数メートル進んだあたりで黒髪が目の前に立ち塞がってきた。
(早い!)
予想以上の速さに息を飲む。だが、それでも退くわけにはいかない。私は咄嵯に蹴りを放った。しかし黒髪はそれを軽々と受け止める。次の瞬間、鳩尾に強烈な一撃が入り、後方へ吹っ飛ばされた。
「ぐぁっ……!」
地面に叩きつけられ、肺の中の空気が全て押し出される。あまりの衝撃に一瞬意識を失いかけた。
苦悶する暇もなく今度は背中を踏みつけられ、うつ伏せの状態のまま身動きが取れなくなる。何とか逃れようとするも、黒髪の足はビクともしなかった。
(嘘でしょ)
あまりにもあっけない幕切れに愕然とする。相手は想像以上の手練れだ。オーラの扱い方も、身体能力も、何もかもが私とは桁違い。とても敵うはずがなかった。
なす術なく絶望に打ちひしがれていると、金髪の男が近づいてきた。
「いったたた……、顎砕けるかと思った」
呑気に言いながら、男はおもむろにしゃがみ込む。そして私の頭頂部に手をかざしてきた。
「おかしいなー。なんでまだ動けんの?」
「うまくアンテナが刺さってなかったんじゃないか?」
「いや、確かに刺した感触はあったんだけど……ん? 何だこれ」
男の声色が変わる。戸惑いを含んだ呟きに違和感を覚えて視線を上げると、ちょうど彼の手元が見えた。
その手には細長い棒状の物体が握られていた。先端が鋭く尖っていて、上部にはまるでコウモリの翼みたいなものが生えている。それは、先程私の頭に刺されたと思われるものだった。
男はそれをしげしげと見つめた後、眉根を寄せた。
「オーラが消えてる……え、どういうこと?」
「この女の念か?」
「うーん、俺のアンテナを弾くほどの能力者には見えないけどなー」
不思議そうに首を傾げる彼の口調は軽いものだったけれど、その瞳は冷たく無機質だった。まるで虫でも観察しているかのような視線に晒され、ぞわりと肌が粟立つ。
(このサイコ野郎!)
心の中で罵倒しつつ、なんとか逃げようと試みる。しかしいくらもがいても、押さえつける力は一向に弱まらなかった。二人は気にする素振りも見せずに話を続けている。
「防御に全振りした念とか? でもそれならアンテナを刺す時点で防がれると思うんだよなー」
「既に他の念をかけられてる可能性は」
「それが一番あり得るけど、特に操られてる感じもしないんだよねー」
「念を無効化する能力かもしれないな」
「何それ、無敵じゃん!」
好き勝手に憶測を重ねる彼らの様子は、どこか楽しげですらある。その異常さに背筋を凍らせながらも、私はひたすら脱出の方法を考えていた。
(何かないか、何か――)
しかし、そんな都合の良いものは見つからない。そうこうしているうちに、金髪が私の顎を持ち上げて上を向かせてきた。
「ね、どういうカラクリか教えてくれない?」
男が無邪気な笑顔で尋ねてくる。そんなのこっちが知りたいくらいだ。それに例え知っていたとしてもこんな奴に教えてやる義理はない。私は答えることなく男を睨んだ。
「そんな怖い顔しないでよ。ただ質問してるだけなんだから」
金髪が軽く肩をすくめる。その態度に苛立ちを覚えるが、下手に刺激するのはまずいと思い、黙秘を続ける。すると彼は何か思いついたように口角を上げた。
「あ、そうだ。いいこと考えた。俺たちがキミのこと保護してあげるよ」
「――は?」
唐突すぎる提案に思わず聞き返す。金髪の男は意気揚々と続けた。
「俺、キミに興味湧いちゃったんだよねー。大人しく従うならキミの身の安全は保証するよ。どう? 悪い話じゃないでしょ?」
さっき私を実験台にすると言ったその口で今度は身を守ると言う。到底信じられる話ではなかった。
「……その言葉を信じろと?」
「別に信じなくてもいいけどさ。でもキミに選択の余地ないと思うなー」
そう言って金髪の男が顔を近づけてくる。その表情は相変わらず笑みを浮かべていたけど、目は全然笑ってなかった。男の不気味な迫力に気圧され、私は思わず唾を飲み込んだ。
「で、どうする? 今ここで殺されるか、俺たちに保護されるか。好きな方選んで良いよ」
選択肢を与えているようで、実質一択しか用意されていない問いかけ。他に選択肢がない以上、従うしかない。このまま大人しく殺されるよりはマシだ。私は意を決して口を開いた。
「分かった、言う通りにする」
「よし、交渉成立だね」
私が答えるや否や、黒髪の男が拘束していた足をどける。私はゆっくりと起き上がり、警戒しながら二人を見据えた。
「じゃあさっそく移動しようか」
金髪が私に向かって手を差し伸べてくる。一瞬迷ったが、私はその手を取って立ち上がろうとした。が、全身に痛みが走り、膝をつく。おそらく殴られた時に肋骨が折れたのだろう。呼吸をする度に激痛が走る。ただでさえ満身創痍だったところに更なる追い打ちをかけられ、立つこともままならない状態だった。
「あちゃー、歩けない?」
あまりの苦痛にうめいていると、金髪が苦笑いをしながら訊いてきた。私は力なく首肯する。
「しょうがないか。じゃ、ちょっと失礼するよ」
そう言った途端、彼がいきなり私を抱き上げた。そのまま軽々と肩に担がれてしまう。突然視界が高くなり、私は驚いて目を瞬かせた。
「ちょっ……!」
抗議の声を上げようとしたが、腹部の傷に響いて断念する。痛みに悶絶している間に彼らはスタスタと歩き出してしまった。
もはや抵抗する気力も残っておらず、私はされるがままに運ばれていくしかなかった。