征服できない白




 車は国境に向かって順調に走っていた。ミルキと連絡を取ったことで緊張が解けたのか、一気に疲れが押し寄せてきた。眠ってしまいたいが、こんなところで眠るわけにはいかない。いつ追手がくるかもしれない状況で、呑気に寝ていられるほど神経は図太くなかった。
 何もすることがないからひたすら窓の外の景色を眺める。舗装された道路を走る車の中は静かだった。運転手は我関せずと言った顔で黙々とハンドルを握っている。
 なんだか不思議な気分だった。ついさっきまで決死の脱出劇を繰り広げていたのが嘘みたいだ。こうして何事もなく平穏無事に逃げられていることが未だに信じられなかった。

(こんなにもあっけないのか)

 正直、拍子抜けだった。こんなにも簡単に逃げ出せるなら、もっと早く実行すればよかった。私は今まで何を躊躇していたのだろう。

(これもイルミの針のせいなのかもしれない)

 疑いが頭をもたげ、胸がざわめく。針の存在に気づいてからは自分の思考を疑ってばかりだ。
 うまく逃げ切れたところで、私を蝕む恐怖は終わっていない。真の解放は針の除念に成功した時だ。

(アイジエン大陸に着いたら除念師の情報を集めよう。アイジエンは未開発の土地も多いらしいけど、あれだけ広い大陸なんだからきっとどこかに除念師はいるはず。ミルキの言う通り、派手に動き回らず地道に探し回るしかない)

 自分に言い聞かせるように今後の予定を立てる。そうやって未来のことを考えていると、ふと脳裏に慣れ親しんだ銀髪が過ぎった。

(除念に成功したら……まずはキルアに会いに行こう)

 キルアとは天空闘技場以来会えていない。最後に見た暗い瞳を思い出して、胸がギュッと痛む。キルアにあんな目をさせてしまったことへの後悔と自責の念が湧き上がった。
 毒を盛られたことを考えると、会いに行くのは危険かもしれない。それでも、あんな形で別れたままはどうしても嫌だった。もう一度会って、ちゃんとキルアと話したい。許してもらえなくても、もう一度ちゃんと謝りたい。
 そう思った瞬間、鼻の奥がツンとして目頭に熱が集まるのを感じた。私は慌てて頭を振ると、滲みかけた涙を拭う。

(しっかりしろ)

 感傷に浸ってる場合じゃない。まだまだ道のりは長いのだから。私は両手で頬を叩き気合いを入れると、ふたたび窓の外へと視線を向けた。

 車に乗って数時間。やがて前方に大きな壁が見えてきた。その向こうに国境があるのだろう。壁に沿って走る道をしばらく進むと、検問所が見えた。その手前で車を止めると、警備らしき男が近寄ってくる。
 ここで身分証を提示しなければならない。私はミルキによって偽造された身分証を取り出した。警備員はそれを確認すると、特に問題ないと判断したようであっさりと通してくれた。どうやらミルキが用意した身分証は本物と同じ効力を持っているようだ。再び走り出した車の中で、私はほっと息をついた。
 検問所の先に広がるのは荒野だった。一直線の道路をひた走る。前方を照らすヘッドライトが闇の中に浮かび上がっていた。
 やがて、遠くに街の明かりが見えてきた。国境を越えた最初の街レッドグレーヴ。そこからさらに北に進めばいよいよ首都のロベリアだ。あともう少しだ。
 ふと外の空気が吸いたくなって、車の窓を開ける。冷たい風を頬に受けながら、すう、と空気を吸い込んだときだった。――車内に着信音が鳴り響いた。
 慌てて携帯を取り出すと、画面には知らない番号が表示されていた。どくんと心臓が嫌な音を立てる。

(来た)

 ごくりと喉を鳴らし、恐る恐る電話に出る。すると、電話口から聞き覚えのある声が流れてきた。

『――やってくれたね』

 私は携帯を耳に当てたまま息を呑んだ。鼓動が早まり、掌に冷たい汗が浮かぶ。

(落ち着け。イルミは今頃サヘルタだ)

 私が逃げ出したことで執事から連絡がいったのだろう。
 イルミから電話が来ることは分かっていた。そのためにわざわざ携帯を変えずにおいたのだ。探知されないよう電波を遮断する装置だってつけている。居場所は突き止められていないはずだ。

(大丈夫。慌てる必要はない)

 そう自分に言い聞かせるが、イルミの声を聞いただけで身体が震えてしまう。動揺する私をよそに、イルミは淡々と続けた。

『まさかこのタイミングで逃げ出すとはね。最近は大人しかったから油断してたよ。すっかり騙されたな』
「……騙す?」

 その言葉は、私の怒りに火をつけた。腹の底に溜めていた憎悪が一気に噴き上がるのを感じ、気づけば感情のままに口走っていた。

「騙すだなんてイルミにだけは言われたくない。人の頭にこんなもの刺しておいて、よくもぬけぬけと……」
『あーなんだ。もうバレてたんだ』

 私の剣幕など全く意にも介さず、イルミは平然と言葉を返してきた。

『その状態でまだ家を出る気力が残ってると思わなかったな。ナマエの強靭な精神力には恐れ入ったよ』

 馬鹿にしてるとしか思えない口調で言われ、カッと頭に血が上る。だが、ここで挑発に乗ってはいけない。私は奥歯を強く噛み締めると、歪んだ笑みを浮かべた。

「人形に成り果てたと思ってた相手に出し抜かれる気分はどう?」

 嘲り混じりに言い放つ。これまで散々好き勝手されてきたのだから、これくらい言ってやらないと気が済まなかった。そのためにイルミからの電話を待っていたのだ。

(見くびってた相手に出し抜かれて、内心はらわた煮えくりかえってることでしょうよ)

 どす黒い感情が胸に渦巻くのを感じながら、イルミの返事を待つ。
 しかし予想に反して、返ってきたのは静かな声だった。

『――あの夜言ってたことも、嘘だったの?』

 どこか寂しげな響きを含んだ声が鼓膜を震わせる。その瞬間、心臓が絞られたように痛んだ。

(なんで、そんな声……)

 イルミも分かっていたくせに。私が向ける感情が、針によって作られたものだってことは。それなのに、どうして傷ついているような声でそんなことを言ってくるのか理解できなかった。
 途端に形容しがたい感情が体の奥から迫り上がってくるのを感じた。不快で、激しく、痛い。私は目を閉じて、複雑に絡み合う感情の中から憎しみだけを取り出した。

「そうだよ。全部嘘。もう、イルミのそばにはいたくない。二度と顔も見たくない」

 口の中が乾いて、声が少しだけ掠れた。それでも構わず畳み掛けた。

「何もかも針でどうにかできると思ったら大間違いだよ。イルミのことなんて……大っ嫌い!」

 怒りに任せて叫ぶと、イルミが小さく息を呑むのが聞こえた気がした。

『――そう。分かった』

 数秒の沈黙の後、静かに告げられる。それがあまりにも素っ気なく感じられて、胸がざわついた。まるで興味を失ったかのような、冷たい言い方だった。それを冷たいと感じてしまう自分が嫌でたまらない。

「さようなら、イルミ」

 最後にそう吐き捨て、イルミの返事を待たずに通話を切った。これ以上何も聞きたくなかった。
 はぁ、と荒くなった呼吸を整える。途端に視界がぼやけて、唇をきつく噛んで堪えた。

(泣くな。泣いてたまるか)

 涙を止めるために必死で深呼吸を繰り返す。こんなことで簡単に心を揺さぶられる自分が許せなかった。もっと強くならないと。
 初めてイルミを出し抜くことができたというのに、喜びも達成感もなかった。ただ胸の中にぽっかりと穴が空いたようで、ひどく虚しかった。


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