逃亡




 イルミと対峙した翌日、ついに逃亡を決行する日がやってきた。
 昨日から一睡もしていない。あんなことがあった後じゃ、とてもじゃないけど眠れなかった。しかし意識は冴え渡っていた。まるで戦いの前みたいに。
 私は長椅子に腰掛けて、窓から見える景色を見つめていた。
 今朝方、イルミは屋敷を発っている。とっくに大陸を出ているだろう。今から戻ってきたとしても半日以上はかかるはず。

(大丈夫、絶対に逃げ切れる)

 そう自分に言い聞かせながら、深呼吸を繰り返した。逃げるための手はずは整えてある。あとはもう機を待つだけだった。

 夕陽が差し込む部屋には、時計の針が刻む音だけが響いている。さっき見た時から針は十分も進んでいない。昨日からずっと時間が過ぎるのが遅く感じる。先はまだ長いのだから少しでも休んでおかないと。そう思って目を閉じても、眠りは気配すら忍び寄ってこない。眠ることは諦め、ぼんやりと天井を眺める。そのままじっとしていると、ふいに昨夜の出来事が脳裏に蘇った。

 ――好きだよ。

 イルミの声が耳の奥で響く。昨夜から何度も繰り返し思い出しているせいか、それはひどく生々しく感じた。イルミの表情や触れられた感触が鮮明に浮かび上がってくる。そのたびに猛烈に腹が立った。悔しい。こんな作られた感情に揺さぶられたくない。それなのに、私の意志とは無関係に胸が高鳴ってしまう。頭がおかしくなりそうだった。
 堂々巡りの考えを打ち消すように頭を振る。こんなことも今日で終わりだ。明日からは新しい生活が始まるのだ。今までの生活とは全然違うものになるはずだ。イルミから意識を逸らすため、ひたすら別のことを考え続けた。

 そうしている間に、時間は過ぎていった。いつの間にか外はすっかり暗くなっている。そろそろだ。もう何度目かもわからない深呼吸を繰り返す。

「よし……」

 気合いを入れるようにパチンッ! と両頬を叩き、部屋を出た。
 廊下に人の気配はなかった。しかし油断はできない。絶を使って気配を消し、足音を忍ばせて玄関へと向かう。幸いなことに誰ともすれ違うことなく外まで出ることができた。
 外に出ると冷たい風が頬を打った。集中を切らさないまま慎重に屋敷から離れていく。周囲に人がいないことを確認してから一気に走り出した。鬱蒼とした樹海を駆け抜けながら、何度も頭の中で繰り返したミルキの指示を思い出す。

『家を出たらまずは門に向かえ。門に着いたら一旦その場で待機しろ。守衛の交代のタイミングを狙うんだ』

 最初は守衛を気絶させろなんて言われたけど、無関係な人を傷つけるようなことはしたくないと拒否し、口論の末にミルキの方が折れてくれた。その代わり、絶対に失敗するなと念押しされた。
 全速力で走り続け、やがて前方に大きな門が見えてきた。あれこそがゾルディック家の敷地を出る唯一の出入口だ。
 門が見える位置に身を潜める。息を殺して待つこと数分。予想通り、守衛のゼブロさんが試しの門から入ってきた。交代の時間だ。
 私は固唾を飲んでその様子を見守っていた。緊張で全身が強張る。心臓が激しく脈打っていた。

(大丈夫、きっとうまくいく……)

 自分に言い聞かせながら慎重に息を吐き出した時だった。

「――っ!」

 背後で巨大な物体が蠢く気配がして、危うく悲鳴をあげそうになった。
 ミケだ。ミケが地面を揺らして近づいてきている。まだかなり遠くにいるはずなのに、その存在感は圧倒的だった。まるで背中に重たい岩を背負っているような圧迫感がある。

(――見られてる)

 ぞっと背筋が寒くなる。ミケは私の存在に気づいている。こちらの気配を検分するような視線を感じ、思わずその場から逃げ出したくなった。でもダメだ。ここで逃げたらすべて水の泡だ。

(落ち着け、襲われることはない)

 この家の番犬はよく躾けられている。こちらから何かしない限り、内部の人間に牙を剥くことはない。そう自分に言い聞かせて、必死に恐怖を押し殺す。
 ミケが近づいてくることを察したのか、ゼブロさんが立ち止まって首を傾げた。しかしそれも一瞬のことで、やがてその背中は森の奥に消えていった。

(――今だ!)

 私は隠れていた茂みから飛び出すと、一直線に門へと走った。その勢いのまま、ぶつかるようにして扉を押す。私の力だと一の門が限界だ。渾身の力を込めると、鉄製の扉がゆっくりと開いていく。試しの門を開くのはかなり久々だったから無事に開けたことに安堵する。門を開いたことでゼブロさんには気づかれただろう。執事に連絡がいくのも時間の問題だ。ここからは時間との戦いだ。
 門を出ると、麓には一台の車が停まっていた。運転席には見知らぬ強面の男が座っている。ミルキが雇った人間だろう。男は私の姿を確認すると、後部座席に乗るよう促してきた。
 後部座席に乗り込んだ途端、車が猛スピードで走り出す。尋常ではないスピードで走る車内で、私はバックミラーを見続けていた。追手の姿はない。しかし、まだ油断はできない。痛いくらいに拍動する胸を抑えながら、私は必死に祈った。どうかこのまま逃げ切れますように、と。

 十分も走ると、窓から見える景色は変わっていた。山道を抜けて平地に入ったのだ。遠くなっていくククルーマウンテンを横目で見る。まだ完全に安心はできないが、ひとまず脱出は成功したようだ。
 私は深く息を吐き出すと、ミルキに報告するために携帯電話を取り出した。数回のコール音の後、電話がつながった。

「車に乗ったよ。今のところ追われてる様子はない」

 緊張が残る声で端的に告げる。電話の向こうからミルキの『よし』という声が聞こえてきた。

『こっちはやっとナマエが逃げ出したことに気付いて執事たちが慌てふためいてるよ。何人かを追手に向かわせるみたいだけど、まぁそのまま行けば追いつかれることはまずないだろ』
「よかった……」

 無意識のうちに身体に入っていた力が抜けていく。

『オイ、だからって気を抜くなよ』
「分かってるって」
『ホントかよ。いいか、最後にもう一度ここからの流れを説明するからよく聞けよ』

 ミルキの説明を聞きながら、頭の中に地図を思い浮かべる。現在地はパドキア共和国の内陸部にあるデントラ地区。まずは陸路で国境を越えてミンボ共和国を目指す。ミンボの首都で飛行船に乗り、アイジエン大陸へ向かう。そこまでのルートはミルキが用意してくれた。

『そこまで逃げ切れば安全圏に入るはずだ。派手な行動はとるなよ。不法入国で捕まったら元も子もないからな』
「わかった」
『あとは自力で除念師を探せ。いいな?』
「うん。わかってる」

 ミルキの指示にしっかりとうなずいて答える。アイジエン大陸はまったく馴染みのない土地だ。そこで一から情報を集めてイルミの針を取り除けるような除念師を見つけられるだろうか。不安な気持ちが頭をもたげたがすぐに振り払った。今は逃げ切ることだけ考えよう。先のことを不安に思うのはそれからだ。
 私は一呼吸ついてから、ずっと言えてなかったことを口に出した。

「あのさ、ミルキ」
『なんだ? 』
「手を貸してくれてありがとう」

 途端に電話の向こうから舌打ちが聞こえてくる。そして心底嫌そうな声が続いた。

『気色悪いこと言うな。別にナマエのために協力したわけじゃないからな』
「なんかそれ、ツンデレのテンプレ台詞みたい」
『……お前、ふざけたこと言ってると殺すぞ』
「ごめん、冗談です。でも感謝してるのは本当だよ。ミルキがいなかったらここまで来れなかった。改めてありがとう」

 素直に感謝の言葉を告げると、今度は返事がなかった。数秒沈黙が続いた後、『……あー、とにかくもう二度と戻ってくるなよ! いいな!』と怒鳴られ、一方的に通話を切られてしまった。
 私は携帯をしまうと、窓の外を流れる景色を見た。

「二度と戻ってくるな、か」

 ミルキに言われなくても、もう戻るつもりはない。ようやく自由になれるんだ。このチャンスを逃せば次はない。絶対に逃げ切り、新しい人生を切り開く。
 そう決意を新たにする一方で、胸の奥にポッカリと穴が開いてしまったような感覚があった。それが果たして自分の心からの感情なのか、それとも針によって作られたものなのか、今の私には判断がつかなかった。


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