とびきりの嘘が赤いなら




「――え」

 呆然とイルミを見つめ返す。頬を撫でる冷たい風が、直前に触れた唇の暖かさを浮き彫りにする。時間差で事態を理解した私は、飛び退くようにイルミから離れた。

「何するの!?」

 カッとして、思わず叫んでいた。心臓がものすごい勢いで早打ちしている。イルミの唐突な行動に、私の心音は情けないほど素直に乱れた。

「ごめんごめん、つい。ナマエがあまりにも無防備だったからさ」
「なっ……」

 えらく勝手な言い分に私はたじろいだ。

(だからって、何でいきなりキス!? どうしてコイツはいつもいつも突飛な行動ばかり……!)

 どんどん頭に血が上って思考がこんがらがっていく。落ち着け、イルミのペースに乗せられるな、と必死で自分に言い聞かせるけど、無理だった。頬は火照るし、鼓動も狂いっぱなし。どうにもならない。
 とにかく一度イルミから離れて、湧き上がった頭を冷やしたかった。このままじゃボロが出るのが目に見えている。
 しかしこちらの行動は先読みされ、逃げ出す前にイルミに腕を掴まれてしまう。

「どこに行くつもり?」

 ぐいと引き寄せられて、横向きに抱き締められる。またしても突飛な行動にギョッとしているうちに、次は耳元に顔を寄せられた。「ナマエ」といつもより低い声で囁かれ、耳の産毛がざわりとする。もう勘弁してと懇願したくなった。がくりと均衡を崩されて、まだ体制を立て直せていないのに滅多斬りにされてる気分だ。
 イルミがふっと口元を緩めた。何だかものすごく楽しそうだ。思わずクソッと毒突きたくなる。
 さっきから翻弄されっぱなしで腹が立つ。だけど抵抗よりも先に自分が取るべき行動を考えてしまう。その一瞬の迷いが動きを鈍らせ、私はまたしても遅れをとった。
 顔を自然な力でイルミの方へと仰向けられる。イルミの長い睫は伏せられていた。首を傾げるように顔を近づけられて、心臓が竦んだ。

「ちょっと待って、これは、い、」

 いやだ、と続けようとしたのを、イルミは言葉を重ねてきた。

「好きだよ」

 一瞬、呼吸が止まった。
 至近距離で見つめてくるイルミの目は真剣だった。だけど、その台詞に、熱に浮かされていた頭が急激に冷やされていくのを感じる。耐えきれず、イルミから目を逸らした。
 ――ここまでするのか、と驚いた。
 私を懐柔するためならば、そんな嘘も平気で言えるのかと。驚きとともに、心が軋むような悲しみが胸に広がる。
 イルミの言葉が真実のはずがない。信じる方がどうかしている。……そう分かっているのに、どうしようもなく揺さぶられてしまう。イルミの言葉を闇雲に信じたくなる。
 相容れない感情がせめぎあって、私はきつく奥歯を噛み締めた。

(余計なことを考えるな。今はイルミから疑われない振る舞いに徹するんだ。イルミから好きだと言われて、今までの私だったらどう反応したか…‥)

 必死に考えながら視線を持ち上げると、熱っぽい眼差しに搦め捕られた。――イルミに、求められている。そう感じ取った瞬間、頭の中が真っ白になった。
 イルミがゆっくり顔を近づけてくる。唇に吐息を感じる。これからされることがわかっても、身動きが取れなかった。

「ん、うっ」

 ふたたび落ちてきた唇を、私は受け止めてしまっていた。ただ触れているだけなのに背筋がびりびりする。呼吸の仕方さえ分からなくなって、酸素を求めて口を開いた。
 熱い舌が、唇を割って入ってくる。舌に舌が触れる。ぬるぬると舌で捏ねられると、頭の芯が揺らいだ。まるでむき出しの神経に触れられたかのように、衝撃的な酩酊感が押し寄せてくる。
 言葉の何十倍もの濃度で、イルミの存在が侵食してくる。もうただ、侵されるほかなくて。

「んんっ!」

 口の中をいっぱいにされる息苦しさに耐えかねて、イルミの胸を叩く。すると意外なほどあっさりとイルミは顔を離した。
 至近距離からジッと見つめられる。こっちは息も絶え絶えだというのに、相手は息の一つも乱れていない。それを悔しいと思う暇もなく、イルミは次の手を伸ばしてきた。

「ね、オレいま告白したんだけど。なんとか言ったらどう?」

 頬を指の背で撫でられる。口調はきついのに触れてくる手は優しくて、私は固まることしかできなかった。どんな顔をすればいいか分からない。
 ぎくしゃくと視線を落とすと、指先が咎めるように下唇を押してくる。答えなければまたさっきと同じことをすると言われている気がして、慌てて口を開いた。

「私は……」

 何か言わないと。答えないと。そう頭では分かっていても言葉が続かなかった。
 ――たった一言、返せばいい。
 でも、その一言がどうしても言えない。言いたくない。
 散々躊躇した挙句、結局私は答えをはぐらかした。

「考える時間、くれるんでしょ。だから、今日はもう勘弁してほしいんだけど……」

 後半はほとんど懇願するような口調だった。機転を利かせてうまく取り繕う余裕なんてない。
 じっとイルミが見つめてくる。見透かすような強い視線に晒され、居心地が悪くなる。イルミの目に、今の私の姿はどう映っているのだろう。その目から真意を読み取ることはできなかった。
 落ち着かない沈黙が漂い、数拍のあとにイルミがため息をついた。

「失敗したな。こんなお預け食らうんだったら待つなんて言わなきゃよかった」
「……」
「ま、いいか。今日はこのくらいにしといてあげるよ」

 イルミの手が離れていく。ほっとすると同時に、ほんの少しだけ名残惜しさを覚えてしまう自分がたまらなく嫌だった。

「言っとくけど、次に会うときは容赦しないから。それまでにちゃんと答えを用意しておくように」

 口では忠告するようなことを言いながらも、イルミの声はどこか上機嫌だった。去り際に頭を撫でてくる手も優しい。私は感情をひとたらしもこぼすまいとしながら、じっとイルミがいなくなるのを待った。
 完全に見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていたけど、やがて耐えられなくなってへなへなとその場に座り込んだ。むしろよく今まで腰を抜かさずにいられたものだと自分を褒めてやりたい。へたり込んだまま、両手で顔を覆った。

「やった……」
 
 イルミに気付かれることなく、なんとかこの場をやり過ごせた。

(――なのに、どうして)

 最大の局面を乗り切れたはずなのに、胸を占めるのは歓喜とは程遠い感情だった。イルミから受けた仕打ちに心がもみくちゃになって、今も治まる気配はない。

(嫌い。嫌いだ。あんな奴……)

 どうしてあんな男が存在するんだろう。良心の呵責を覚えることなく、人の頭に針を刺して操作するという非人道的な行動をやってのけるには、どれほどの意志の力を必要とするのだろう。私には到底理解できない。理解したいとも思わない。
 私はうなだれた。ぐしゃりと心が潰れ、涙が落ちる。けれども、嗚咽を漏らしたのはほんの少しのことで、すぐに顔を上げて立ち上がった。
 立ち止まってる場合じゃない。私にはまだやるべきことが残っている。泣くのは、全てが終わってからだ。
 腹の底で暴れ回る感情を必死にこらえながら、私は中庭を後にした。


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