暗やみでだけ愛にみえる
「ここでなにしてたの?」
イルミが噴水を一瞥し、再度こちらに視線をよこす。その問いかけに深い意味は無いだろう。細心の注意を払いながら答えた。
「何だか眠れないからちょっと散歩してただけ」
「ふぅん」
「イルミの方こそどうして中庭に?」
「オレはナマエを探してた」
「……あっそ」
私は意図してぎこちなく視線を逸らした。どうやってイルミと接したらいいか分からないという風に。少し前までの私ならきっとこんな反応をしたはず。
うまくやれているだろうかと不安になりつつイルミの様子を窺うと、食い入るような眼差しとぶつかった。
「なにその顔」
「……なにって、もともとこういう顔ですけど」
「いつもより変な顔してる」
「はぁ?」
失礼な! と文句を言いながらも内心ビクついていた。顔に出さぬよう表情筋に力を込めていたのが裏目に出てしまったらしい。自分の芝居の下手さにうんざりした。
「顔こわばってるし、目も泳いでる。何をそんなに緊張してるの」
「してないってば!」
「してるよ。あ、もしかしてオレのこと意識してる?」
「そっ、んなわけ……」
むきになって否定しかけて、ここは肯定するべきかと逡巡する。が、その行動はあまりにも自分らしくないものに思えて結局押し黙った。
イルミはどうやら都合よく解釈してくれたようで「いい傾向だね」と満足げな表情を浮かべた。
「あ、そうそう。結婚の話だけど、一旦保留になったから」
「え?」
唐突な話題転換とその内容に目を瞠る。
そういえばそんな話になっていたな、と今更になって思い出す。針の存在に気づいてからはすっかり頭の片隅に追いやっていた。
「母さんを納得させるにはまだ時間が掛かりそうだしね」
まだ、の部分に含みを感じるのはきっと気のせいじゃない。針で従順になった傀儡ならばキキョウさんも納得すると考えているのだろう。イルミの思惑が透けて見えて、怒りと悲しみが胸を渦巻くが、努めて平静を装った。
「私は結婚なんて一度も了承してないからね」
「どうしても嫌って言うなら白紙に戻してもいいよ。オレはナマエがこの家に居てくれれば何でもいい」
意外な返答にまたもや驚かされる。てっきりお前の意思など関係ないと切り捨てられるかと思っていた。
「イルミがそんなこと言うなんて、どういう風の吹き回し?」
「気が変わったんだよ。まずは周りから固めてやろうと思ったけど、無理に事を進めたところで余計に反発するだけだって分かったしね。今回はオレが折れるよ」
イルミらしからぬ発言に一瞬心が揺れるが、すぐに気持ちを持ち直す。これもこの男の策略だ。あたかも譲歩するような姿勢を見せて揺さぶりをかけているに過ぎない。
見上げた先で、イルミが口元にかすかな笑みを浮かべている。そこには焦りや緊張の欠片もなく、絶対的な優位に立つ者の余裕が感じられた。
「ナマエにもう一度考える時間をあげる。今後この家でどうやって過ごしていきたいか、お前が納得できる答えを出すまで待つよ。今まで通りがいいならオレはそれでも構わない」
あえてこんなことを言うのは、イルミが押し付けたのではなく私が自分の意思で決めたことだと印象付けるためだろう。
目に見えないレールが敷かれているのを感じる。私はかつての自分を模倣しながら、慎重に言葉を選んで話し出した。
「考えた結果、それでも家を出たいって言ったら?」
「さあ、どうなるだろうね。オレはナマエを手放すつもりは毛頭ないから、お前が死ぬ気で頑張るしかないんじゃない?」
他人事みたいな口調のくせして、言ってることは独占欲丸出しだ。イルミの言葉一つ一つに心臓の鼓動が昂ぶる。ただ、それは強烈な苦さと表裏だった。
イルミの優しさも甘やかさも、全て偽りだ。私を操るために耳障りのいい言葉を使っているに過ぎない。……そう分かっているのに、引きずられそうになる。
イルミは猫のように目を細めて、さらに私を揺さぶるための言葉を続けた。
「ナマエはオレたちを選ぶよ。もうオレたち家族を切り捨てようとは思っていない」
「そんなこと……」
「そんなことないって? そうは見えないけど。お前もいいかげん自分の変化を認めたら? オレもナマエも、もう前とは違うんだよ」
嘘つけ、と叫びたくなった。私を無理やり変えたのはイルミのくせに、よくもそんなことが言えたものだ。
瞬間的に湧いた怒りが、惑乱されかけた意識を正常に引き戻す。頬の内側をきつく噛んで、自分を戒めた。余計な感情を抱くな。今はこの場を切り抜けることだけ考えろ!
「私は……」
そこで言葉を切って、たっぷり五秒は間をあける。まるで本心を打ち明けるべきか迷っているかのように。
イルミがじっとこちらの様子をうかがっているのが分かる。私が陥落するのを待っているのだと思うと腑が煮えくり返りそうだ。そんな内心はおくびにも出さず、イルミが望んでいるであろう言葉を口に出した。
「正直、迷い始めてる。この家に残るのも有りなんじゃないかって……」
自然と声が震える。緊張を隠せない姿はより真実味を帯びさせるだろう。
あたかも真実かのように振る舞えるのは、心のどこかで本当にそう思っているからだ。でも、それは針によって作られた感情に過ぎない。
イルミは何も言わずにじっと私を見つめている。力強い視線は、それ以上の言葉を求めているようだった。私は視線を彷徨わせた後、恐る恐る続けた。
「今のイルミなら、その……そばにいるのも悪くないかもって、思ってる」
言った瞬間、かっと喉が熱くなった。顔も赤くなっていくのがわかる。演技でもイルミ相手にこんな台詞を吐くのは死ぬほど恥ずかしかった。
歯を食いしばって羞恥に耐えていると、ふいにイルミが足を踏み出して、ぐんと互いの距離が近くなった。とっさに後ろに下がることもできなかった。
顎をとられ、至近距離でイルミが見つめてくる。もう片方の手が、私の頭を包むようにする。髪に指を絡めながら頭を撫でられ、その手が少しずつ頬へと落ちてくる。まぶたに指が乗ってきたから、私はとっさにぎゅっと目をつぶった。
(うわ、なにこれ)
目の縁をわずかに捲るようにして撫でられると、首の後ろがぶわりと熱を持った。
今すぐその手を振り払ってしまいたいけど、その行動が正しいのか分からなくて、結局されるがままになってしまう。
(――……まずい)
イルミの手が思いがけず心地よくて、いつのまにか頭の芯が緩んでしまっていた。これ以上、触られたらいけない。目を開けなければ、と思った時だった。
ふに、と柔らかいなにかが唇に押し当てられる。目を開けた時にはすでに感触は去っていた。