背水を抱く
「こんな夜中に何の用だ」
ミルキはパソコンの画面から目を離さず吐き捨てた。人工的な光に照らされた横顔が心底鬱陶しげにゆがめられる。夜中にいきなり部屋まで押しかけたのだから無理もない。嫌がられるだろうと分かっていたけど、今の私には相手を気遣える余裕なんて一切なかった。
ただただ一つの願いだけが腹の底から込み上げ、口を衝いて出た。
「この家を出たい。今すぐにでも」
「まーたそれかよ。だから準備できるまで大人しく待っとけって何度も言ってるだろ」
「もう一刻の猶予もないんだよ!」
相手の言葉を遮る勢いで捲し立てる。ミルキの協力を得るために口八丁で丸め込んだ時とは違い、まったく余裕がない口ぶりだった。
私の尋常じゃない様子を察したのか、ミルキはそこでようやく画面から目を離すと胡乱な目を向けてきた。
「お前、何かあったのか?」
一瞬、正直に答えるべきか迷った。勢いでここまで来てしまったけど、今さらになってミルキがイルミとグルの可能性も考えてしまったからだ。
(――いや、それはないか。協力するメリットがないし、たとえ何かと引き換えだったとしてもミルキにとっては私が家族になることの方がデメリットに感じるはずだ)
頭に過ぎった疑惑をすぐさま払拭して、冷静に思考する。
シルバさんは針の存在に気付いていた。ということは、キキョウさんも認知している可能性は高い。だとしたら一度釘を刺しただけで今の今まで放置されていたのも頷ける。いずれ針が侵食し、イルミの傀儡になることを見越して容認していたのだろう。
しかし、ゾルディック家の妨げになるという理由で私を疎んじているキキョウさんと違って、ミルキは別のベクトルで私を嫌悪しているから、おそらく針の存在を知らされても受け入れることはないだろう。
逡巡した後、私はゆっくりと口を開いた。
「イルミに、針を埋め込まれてた」
吐き出した自分の言葉に胸が煮えるようで、喉が震えた。
ミルキがギョッと目を見開く。『針』の一言で全てを察したのだろう。額に脂汗を滲ませながら「マジかよイル兄……そこまでやるのか……」と頭を抱えた。かと思えば、キッと目を吊り上げて睨みつけてきた。
「何やってんだよこのマヌケ! 油断しすぎだろ!」
「……」
ミルキの言う通りだ。イルミがどういう人間か分かっていたはずなのに、甘い言葉に惑わされて危うく崩れかけた。すべては私の油断が招いた結果だ。
気づいてしまえば、あまりにもイルミらしい行動だ。どうして今まで気づかなかったのか不思議なほどに。どれほど自分の目が曇っていたか思い知らされた。
黙り込んでいると、ミルキは苛立たしげに舌打ちしてさらに言葉を投げかけた。
「針にはいつ気付いた」
「はっきりと自覚したのはついさっき。前からなんとなく違和感は感じてたけど……」
「なんだって? それはいつからだよ」
ミルキの目つきがどんどん険しくなっていく。
「分からない。もしかしたら連れ戻された時からかもしれない」
「お前はそれでのうのうと過ごしてたってわけか。ほんっと、どうしようもないヤツだな!」
返す言葉もない。
ミルキはもう一度鋭く舌打ちするとブツブツとぼやきながらパソコンに顔を戻した。そのまま話が終わってしまう気配を感じて、慌ててミルキが座る椅子に駆け寄る。
「この針どうにかする方法はないの?」
「簡単に言うな! イル兄の針がどれだけ厄介かナマエも知ってるだろ。術者本人が解除するか、相当力のある能力者に除念を頼むしか方法はない。少なくともお前が自力で抜くのは絶対に無理」
ばっさりと切り捨てられ、言葉を失う。改めて、自分の体内に恐ろしい異物が埋め込まれていることを自覚して、本能に深く根ざした恐怖に囚われた。
その場に立ち尽くす私に構うことなく、ミルキはキーボードを叩き続けた。そして、一際強く叩く音が響いたかと思うと、ぐるりと椅子を回してこちらに体ごと向き直った。
「そういうことなら話は別だ。ナマエには一刻も早くこの家から出て行ってもらう」
「これって……」
ミルキの真ん前に置かれたパソコンの画面を見て、呆気にとられる。
そこには、デントラ地区からミンボ共和国の飛行場まで続く詳細な逃亡経路が映し出されていた。
「こんなもんとっくに準備できてたに決まってるだろ。オレを誰だと思ってんだよ」
「だったらもっと早く言ってくれても……」
「ナマエに手を貸すことでオレもリスクを背負ってんだよ! お前の覚悟が中途半端な状態で逃がして、万が一また戻ってくるなんてことがあったらオレが損するだけだからな。ナマエが戻ってこないっていう確信が持てるまで待ってたんだよ」
ミルキはコフーと息を吐き出したあと、忌々しげに続けた。
「だけどそれは間違いだった。さっさとナマエを追い出すべきだった。イル兄は本気だ。どんな手を使ってでもお前をこの家の人間にするつもりだ」
一瞬、こちらに向かって伸ばされる手が頭を過ぎって、恐怖で背筋が粟立つ。
「オレはナマエが家族の一員になるなんて死んでもごめんだからな。イル兄がその気なら、こっちも本気出す」
「ミルキ……!」
これほどまでにミルキを頼もしいと思えたことがあっただろうか。毛嫌いされていて良かったと心底思う。熱い眼差しを向けると「気色悪い」と吐き捨てられた。
「決行は三日後だ。この日はイル兄の仕事がサヘルタである。万が一逃げ出したことがバレたとしてもすぐに戻ってこれる距離じゃない」
「三日後……」
たった三日がとても遠く感じられる。
「いいか、それまで死んでもイル兄に勘付かれるなよ。バレたらもっと強い針を刺されて自我を消されるからな」
ミルキの忠告を受け、ごくりと唾を飲み込む。
ここからは戦いだ。決してボロを出すわけにはいかない。
(絶対にこの家を出るんだ)
今一度強い決意を宿して頷く。ミルキはフンッと鼻を鳴らすと、用は済んだとばかりにパソコンに向き直った。
「言っとくけど温情をかけてやるのもこれが最後だからな。ナマエがイル兄の針人形になったら容赦無く殺してやる」
その言葉は、今の私には救いに聞こえた。
私は聞こえるか聞こえないくらいの声でありがとうと言うと、踵を返した。
扉を開けて、深呼吸する。夜気を含んだ空気を胸の奥まで吸い込み、何度も息を深く吸い込んだ。忘れかけていた力がよみがえるようだった。