もたげる猜疑




 一直線にこちらへ歩いてくる姿を、固唾を呑んで見つめる。シルバさんの目はまっすぐに私をとらえている。その瞳にいつもと違う色が浮かんでいるよう見えて、ごくりと喉を鳴らした。
 なんだろう。なんだか怖ろしい。緊張を隠しきれていない私の様子に、シルバさんは肩を竦めて笑った。
 
「そんなに怯えなくてもいいだろ」

 いつもと変わらない調子で話しかけられて少しだけホッとする。しかし、前回会ったときのことを思い出して慌てて気を引き締めた。

 シルバさんと顔を合わせるのは、家を出るための協力を仰ぎに部屋まで訪ねたとき以来だった。あの時から、私の中のシルバさんの位置付けは大きく変わった。
 あの日、シルバさんは私に嫁いできて欲しいと言った。イルミの抑止力として私の存在を欲していると。そのやりとりをイルミに聞かれ、怒りを見せるイルミを尻目に「俺とイルミどちらを選ぶ」などと不可解な発言をしてイルミを挑発した。あの出来事をきっかけにイルミの態度が変わり始めたように思う。
 私とイルミを散々かき乱しておきながら、シルバさんは愉しむような気配すらあった。この人にとったら児戯に等しいのだろう。
 あの日、私は悟った。シルバさんは敵じゃないかもしれないけど、味方でもない。今は敵じゃなくても、この人の気まぐれで敵側になりうる可能性だってある。決して油断できない相手だ。

 目の前までやってくると、シルバさんはじっと私を見つめてきた。ただそこにいるだけで気圧される圧倒的な存在感に息を呑む。
 何か言わなくてはと口を開きかけたとき、脳裏にイルミの声が蘇った。

『もう親父と二人で会うのは禁止だから』

 はっと思い出す。そうだ、イルミにシルバさんと会うなって言われてたんだった。
 脳裏に割り込んできたその声が何重にも重なって聞こえ、ぐわんぐわんと脳を揺らす。まるで思考を阻むかのように。

(――まずい。こんなところイルミに見られたら何を言われるか分かったもんじゃない)

 思わず半歩後退ると、シルバさんは面白そうに軽く眉をもちあげた。

「どうして離れるんだ?」
「……イルミに、シルバさんとは二人で会わないようにと言われてるんです」
「なんだ、もうすっかり飼い馴らされてるんだな」

 からかい混じりの口調だったが、聞き捨てならなかった。
 誰のせいでこうなったと思ってるのか。シルバさんが意味不明なこと言ってイルミを挑発したからでしょうが!

「飼い馴らされてなんかいません。私はただ、イルミの怒りを買って面倒なことになるのを避けたいだけです」

 ムキになって言い返してる自覚はあった。怒りを買うことも覚悟してたけど、シルバさんは薄く笑って「そうか」と端的に返すだけだった。
 シルバさんは無言で私を見つめてくる。強い視線に居心地が悪くなった。できるなら一人になって、ぐちゃぐちゃなままになっている頭の中を整理したい。しかし願いとは裏腹にシルバさんは話を続けた。

「ナマエとオレが出会った日のことを覚えているか?」
「シルバさんの仕事の現場に出くわした時のことですよね」

 忘れられるわけがない。あの瞬間から私の運命が変わったと言っても過言じゃない。
 シルバさんは昔を懐かしむように目を細めると、くつくつと喉を鳴らした。

「あの時は驚いたな。まさかいきなり窓に突っ込むとは思わなかった」
「あの時は必死だったんです。今思えば命知らずだったと思います。下手したら落下の衝撃で死んでましたから」
「だが、お前は生き残っただろう。ナマエの選択は間違ってなかったってことだ」

 一瞬、沈黙がおりる。やがて抑揚のない口調で、シルバさんは口を開いた。

「今のナマエは、あの頃とはまるで別人だな」

 落胆したような口ぶりだった。なぜそんな風に言われなくてはならないのだろう。ムッとしたが、反論を考えて口にするより前に、また畳み掛けられてしまった。

「オレはあの頃のお前を買っていたんだがな」

 ため息までつけられて、さすがに我慢できなかった。一瞬置いて、やっと言い返す。

「何が言いたいんですか」

 苛立ちを隠しもせず問えば、シルバさんは彫りの深い端正な顔に不敵な笑みを浮かべた。
 肋骨の内側で心臓がゆっくりと、重く、脈打ち始める。――奇妙なことに、込み上げてきた感情は怒りよりも恐怖に近かった。
 どくどくと心臓から血液が全身に巡っていく音を聞きながら返事をまつ。返事を聞くのが、怖い。

「お前の望みはこの家を出ることじゃなかったのか?」

 ――言われた瞬間、胸に杭を打ち込まれた気がした。
 なんて答えればいいのか分からなくて、私はただシルバさんを見返した。真っ向からみおろす目が、答えろと無言の圧力をかけている。

「それは……」
「何が何でも家を出ると俺に啖呵を切っておきながら随分と簡単に諦めるんだな」
「なっ……何ですか、それ。シルバさんは、私に家に残ってほしいって言ってたじゃないですか」
「確かに言ったが、気が変わった」

 唇の端を歪めて、ぐいっと顔を近づけられる。

「あいつにやるには惜しいと思い始めてきてな。あいつの思い通りになるのもつまらん」
 
 いったい、何を言ってるんだこの人は。
 シルバさんは終始おだやかな態度をとっていたが、こうして畳み掛けられると尋常じゃない威圧感があった。そのせいで頭の中が徐々に混乱し始める。

(やるには惜しいって……)

 言われた言葉を噛み砕こうと必死になる。注がれる視線に、からかい以外のどんな感情が混じっているのか判断がつかない。
 乾いた喉に唾をゴクリと流し込む。感情的にならないように注意して、胸中の思いをぶつけた。

「色々あって、考えが変わったんです。今までの私は自分が家を出ても何も関係ないって思ってました。でも、それが身勝手な思い込みだって気付いたんです。今は、この家に残って生きていくのも悪くないかなって思い始めてて……」
「本当にそう思ってるのか?」

 遮るように言われて息を呑む。心の奥まで突き通すような視線にたじろいだ。

(どうして今更こんなことを言い出すんだろう)

 迷いを持っていたのは確かだ。私はまだ生まれたばかりのこの感情が本物だと自信をもって言えない。
 でも、散々悩んでようやく出した答えだったのに。やっと外の世界を諦めることができそうだったのに――。

(諦める? どうして?)

 我に返り、ぞっとした。いま、何を思った? 何を諦め、何を手放そうとしたのか。急に不安のような、焦りのような、なんとも言いがたい感覚が身体の中心を駆け抜けた。おかしな話だけど、自分の心の声に不純物が混じっていた気がする。不審に思って自分の心をもっと探ろうとしたが、シルバさんの声に遮られた。

「それがお前の本心とは俺には思えんがな」

 何も言い返せなかった。……言い返す余裕が、なかった。
 打ちのめされ、半ば呆然としながらシルバさんの顔を見つめる。これ以上シルバさんの言葉を聞くのが怖かった。でもきっと、私が知りたがっている答えをシルバさんはもっている。
 だしぬけに頬に手が添えられて、びくりと身が竦む。不意打ちの接触にビクビクしながら上目遣いで見上げると、思いがけず穏やかな視線とぶつかった。

「これでもナマエのことは大事に思ってるんだ。簡単にあいつの手に落としたくないと思うくらいにはな」
「な……」

 この人は、さっきから本当に何を言ってるんだ!
 いたたまれなくなって、顔を背ける。シルバさんが、ふ、と吐息のような淡い笑い声を聞かせた。頬に触れていた手が、額に移る。どうしてそんなところを触るんだろうと不思議になる。

「まだお前が知らない真実がある」

 額の中心あたりを、親指で擦られる。硬い指先の感触に、はっと息をのんだ。

(うそ、まさか――)

 自分の頭が鳴っていた。頭の中の血管を音を立てて血が流れてゆくのがわかる。濁流のように溢れかえる記憶を必死にかき集めた。
 何度も味わった、頭の芯がぼやけるような奇妙な感覚。不審に思いつつも放置していた点と点が繋がって、心臓が冷えていく思いがした。

 シルバさんは表情を消して、静かにこちらを見据えていた。やがて、額に触れていた手が離れていく。

「探ってみろ。答えはそこにある」

 最後にそう言い残して、シルバさんは去っていった。


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