誰もしらない細部

 


 ――お前を傷つけたいわけじゃない。
 イルミのその言葉は、私にとってひどく矛盾したものだった。
 たしかに、イルミが言う“オレのものにする”ようなことは無かったかもしれない。けれど、それだけが傷つける行為だと思っているなら大間違いだ。長年に渡っていびり倒してきたことを忘れたとは言わせない。
 長い年月蓄積された負の感情を抑えきれず、私は苛立ち混じりに口を開いた。

「何それ……これまで散々好き勝手してきたくせに、矛盾してる」
「そうだね。オレもそう思うよ」

 イルミの重い視線が、掴まれたままの手に落ちる。

「矛盾してるのに、たしかに存在してるから厄介なんだよ。オレだって持て余してる」
 
 投げやりに吐き捨てられた台詞に、驚愕して目を見開いた。矛盾した感情を持て余す――その感覚は、私にも覚えがあったから。
 嫌悪している相手のはずなのに、興味を持ち始めてる。日に日にイルミを拒絶しきれなくなっている。そんな己の心境の変化を認められず、散々苦悩し、葛藤してきた。
 イルミの奥底にも、そんな理屈では説明できない感情が潜んでいる。ただそれだけのことに、自分でも驚くほど心を揺さぶられた。

(あぁ、聞かなきゃよかった……)

 後悔しても遅い。イルミという男の変化を知り、この目で見て、肌で感じてしまった。
 
(くそっ、なんでこんな……血も涙もない外道のくせに、今さら人らしく振る舞わないでよ!)

 悔しさとも腹立たしさとも言いようのない感情が全身を駆け巡る。八つ当たりだと分かっていてもやり場のない怒りをぶつけずにはいられなかった。
 
「……イルミのせいだ」
「は?」
「イルミのせいで、私も変になったんだ」

 刺々しさを隠しもせず、むしろ喧嘩を売るくらいのつもりで言うと、イルミは呆れた視線をよこした。

「随分突拍子もないね。お前が変なのは元からだと思うけど」
「うっさいな! イルミにだけは言われたくない! あぁ、もうやだ……こんなの絶対おかしいって分かってるのに、どうして……」

 ついそう口走ってしまって、顔を歪める。こんなこと言って何になる。
 感情のコントロールが出来なくなっていることを自覚して口を噤むが、イルミは追求の手を緩めなかった。

「つまり、ナマエはオレのものになる覚悟が出来たってこと?」
「なっ、なんでそうなるのよ! 全然違うから!」
「じゃあ何。オレにも分かるように説明してよ」
「だから、それは……」

 うまい言葉が見つからず、口ごもる。見かねたイルミが態とらしくため息をついた。

「お前から突っかかってきたくせに、都合が悪くなったらだんまり? 子供じゃないんだからそういうのやめたら」
「ぐっ……」

(ムカつく! こいつ、くっそムカつく!)

 ペースに巻き込まれてはダメだと分かっているのに、イルミの言葉がいちいち癇に障ってますます平静を失う。

「お前は口を開けば文句ばかりだね。いったい何がそんなに不満なの? やたらと家を出たがってることもそうだ。そこまで頑なにオレたちから離れようとする理由は何?」
「そんなのっ……」

 イルミの口調はまるで罪人を尋問しているようだ。怯みそうになるのを堪えて言い返そうとするも、とっさに言葉が出てこなくて愕然とした。

(どうして――)

 何が何でもあの家を出ると、あれほど強く望んでいたことだったはずなのに、それすらも薄れかけているのかもしれない。そう思うとゾッとした。まるで衣服を着けずに外に飛び出したことに、今気づいてしまったかのように不安になる。
 イルミはこちらの目の奥まで貫くような視線で見つめながら畳み掛けた。

「たしかに前まではナマエを余所者として扱ってたよ。でも、オレたち家族にとってお前の存在がそれだけじゃないことくらい分かってるだろ? お前はもう部外者じゃないんだよ、ナマエ」
 
 その言葉を聞いた瞬間、頭の中にあの家で過ごしたおよそ十年間の日々、その思い出が圧倒的に蘇った。
 ただ生きることに必死だったあの頃。当初は誰も私の存在なんて気にも留めていなかった。キルアが生まれてからは多少の変化はあったけど、それでも部外者という位置付けは変わらなかったはずだ。
 あの家に私の居場所はないと思っていた。だから、外で生きていこうと決めた。生まれて初めてした、本物の決心だった。
 なのに今、イルミに「部外者じゃない」と言われて、私ははっきりと揺らいだ。

(なんで今さら……あの頃の無関心のまま放っておいてくれたらよかったのに。そうしたらこんな風に迷ったりなんかしなかった!)

 懸命に構えていた砦が崩された感覚に、一歩間違えれば泣きじゃくりそうだった。でも、そんな姿、イルミにだけは見せたくない。

「……もう決めたことだから。あの家を出るって」

 こんなことをしか言えない自分が歯がゆかった。案の定、イルミは露骨に大きな溜め息を吐いた。

「ほんと強情だよねナマエは。ていうか、ただ意固地になってるだけなんじゃない?」

 またしても痛いところを突かれてグッと奥歯を噛みしめる。どうしてこうも劣勢に追いやられてしまうんだろう。
 何も答えようとしない私にしびれを切らしたのか、イルミは掴んだままだった腕を引いて自分の方へと引き寄せた。

「ま、いいよ。今はそれで。好きなだけ抗えばいい。ナマエの気が済むまで付き合ってあげる」

 囁かれた声は、甘くからめ捕るような響きをしていて、肌がぞくりと粟立つのを感じた。
 腕を掴む手がようやく離れたかと思えば、今度は髪に触れてきた。長い指が耳朶ごと包み込むように髪を撫で、ゆっくりと首筋のほうへ降りてくる。急に甘くなった雰囲気と肌を滑る指先にびくりと体を震わせ、私はイルミから身体を離した。邪険に突き飛ばす余力は残っていなかった。

「言っとくけど、オレからは絶対に折れないよ。さっさと諦めた方が身のためかもね。ナマエがオレを選ぶなら、いくらでも甘やかして大事にしてあげる」

 イルミの声が胸に突き刺さって、目眩を感じた。胸のなかに広がったまま、消えてくれない動揺がさらに悪化する。まるで力ずくで誑かされているような気分だった。
 騙されるな、絆されるな、心を許すな――あれほど頭の中で繰り返してきた自戒の声が、いつのまにかこんなにも遠くなってしまった。

(あぁ、そうか……)
 
 そういうことなんだろう、と自分の心の奥を覗き込んで、途方に暮れた。
 気づいてしまった。私は、イルミのことを憎みきれない。いや、それどころか……。
 無力感に襲われうなだれる。自分の心なのに、どうしてこうもままならないんだろう。

「じゃ、オレはあっちで寝るから」
「え?」

 唐突にそう言われて、驚いて顔を上げる。イルミは立ち上がり、呆然とする私を一瞥するとさっと踵を返した。

「おやすみ、ナマエ」
「あ、待っ……」

 背中を向けたイルミが、私のためらいに気づいて「なに?」と振り返る。引き留めたい気になっている自分が信じられなかった。これ以上イルミと何か話したいわけじゃない。ただ、今は一人になりたくなかったのと、一方的に会話を切り上げられて腑に落ちない気持ちが錯綜し、次の言葉を曖昧にさせた。
 イルミはしばらくその場に佇んでいた。呼び止めておいて何も言わない私に嫌味のひとつでも飛ばしてくるかと思いきや、無言のままこちらに戻ってきた。
 目の前でぴたりと止まり、見つめてくる。かと思うと、まるでキスするように身を屈めてきた。反射的に体を強張らせる私を見て、イルミはふっと笑った。

「なに。一緒に寝て欲しいの?」
「違う!」

 からかうような笑みを含んだ声で囁かれ、思わず声を張り上げていた。

「なんだ。名残惜しそうな顔してたから、てっきり誘われてるのかと」
「そんなわけない! 変なこと言うな!」

 まさか、本当にそんな顔をしていたのだろうか。だとしたら死ぬほど恥ずかしい。
 むきになって否定する私を「そう、ならもういくよ」の一言で受け流して、イルミは今度こそ部屋を出て行った。
 

「はぁぁぁー……」

 一人になった途端、一気に疲労感がのしかかってきて、深いため息がもれた。
 混乱に次ぐ混乱で、ひどく消耗していた。未だ動揺はおさまっていない。心臓の鼓動は異様に早く、こめかみの血管も痛みを覚えるほど強く脈打っている。両手で顔を覆って、昂る感情を抑えようと試みるが、大した効果はなかった。

『ナマエがオレを選ぶなら、いくらでも甘やかして大事にしてあげる』

 イルミの声が蘇って、認めたくない感情がぶわっと沸き起こってくる。なんて趣味が悪いんだ、と自分で自分に失望するが、それでも胸には熱い思いが込み上げてきた。悔しいけど、認めざるを得ない。

 ――私は、イルミに惹かれている。それは誤魔化しようのない事実だった。
 
「どうしよう」

 途方に暮れた呟きが静かな部屋に響く。
 頭の奥でずっと警鐘が鳴っている。私はいったい何に脅えているんだろう。それすらも、もう分からなくなっていた。


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