静謐は常闇の音

 


 ホテルから出ると、外はすっかり宵闇の気配に包まれていた。心地よい程度にひんやりとした夜風を浴びながら、ホテルの近くにある屋台街へと向かう。道々には簡単な食事や飲み物を売る屋台が所狭しと並んでいて、日が落ちても人出が多かった。屋台の規模や構造は千差万別。立派な屋根がついている店もあれば、今にも倒壊しそうなつぎはぎだらけの店もある。なんとも言えないディープな雰囲気が味わえるのがミンボの屋台街の特徴だった。
 この国にはキルアの仕事の同行で何度か訪れたことがある。ミンボとパドキアは隣り合った国であるためかゾルディック家と繋がりが深い人物が多く、国境を超えて依頼がくることも多々あった。
 ミンボに来たときは、キルアとともに屋台街で買い食いをするのが恒例になっていた。様々な露店を眺めながら異国の料理や食材を選ぶのがなかなか面白くて、今回も夜市の楽しいひと時を過ごせば少しは気分転換になるかと思っていたのだけれど……。
 屋台街の少し埃っぽい空気を吸い込んで、ため息を吐き出した。

(落ち着かない……!)

 すぐ後ろをピタリとついて歩く執事。その眼差しからは、こちらの一挙手一投足を見逃さないという気迫を感じる。ホテルを出てからずっとこの調子だ。
 監視されるのは慣れたものだけど、こうもあからさまにやられると気になって仕方がない。

(ていうか、この人なら逃げ出せちゃいそうなんだよなぁ〜)

 背後から伝わるオーラからは『頼むから逃げ出さないでくれ!』と言わんばかりの必死さを感じる。それだけ失敗した時に受ける仕打ちが恐ろしいんだろうけど、監視者としては失格の振る舞いだ。感情を表に出さぬよう教育されているゾルディック家の執事としても。
 私は歩きながら肩越しに後ろを振り返った。こちらを凝視していた彼とバッチリ目が合う。表情は変わらないが、その目の奥になんとも言えない怯えのような感情を見出した。

(やっぱり頼りないというか、どう見ても強そうには見えない。これならきっと……)

 視線を前方に戻し、慎重に周囲の景色を眺める。入り組んだ路地に所狭しと軒を連ねる露店。溢れかえる人々。加えてこの暗闇。逃げ出すには絶好のチャンスだろう。
 自然と逃げ出す算段が頭の中で組み立てられていくが、同時に一つの懸念がよぎった。

(もし私がここで逃げたら、この人はどうなるのかな)

 何かしらの処罰は免れないだろう。イルミが失態を犯した執事に情けをかけるとは思えない。最悪、死罪もあり得る。
 無関係な人を犠牲にして――そんな道に価値はあるのだろうか?

 今までの私は、ひたすら自分の欲望を優先させようとしていた。あの家を出たい、外の世界で生きたい。その願いを叶えるために脇目も振らずに行動してきた。もちろんそれが間違いだとは思っていない。あの時に抱いた願いは本物で、この瞬間も消せずにいる。ただ、もう少し周りに目を向けるべきではあった。私の身勝手な行いのせいでキルアを深く傷つけてしまった。――そして、イルミの中の何かを変える要因にもなってしまった。
 私が家を出ようとすることで誰かに影響を与えるなんて思いもしなかった。いや、ろくに考えようとしていなかった。ゾルディックの人間からしたら私など取るに足らない存在だと思っていたから。でも、その思い込みはもう捨てなくてはならない。
 イルミの言う通り、私はあの家と深く関わり過ぎてしまった。もはや容易には抜け出せないほどに。そのことを自覚した上で、今度はもっと慎重に行動する必要がある。
 今ここで自分の欲求を優先させれば、一人の執事の命が犠牲になる。そう思うと、どうしても逃げる気にはなれなかった。

 悶々と考えを巡らせながら歩いていると、ふと鼻先にいい匂いがかすめて思考が阻まれる。匂いの元を辿ると、もくもく煙をあげる屋台に行き着いた。ちょうど鉄板の上で細かく刻まれた肉が焼かれているところだった。店主は鉄ヘラで肉を掬い上げると、様々な具材が挟まったパンの間に器用に詰め込んでいく。屋台街の至るところで見かけるミンボの国民食だ。
 肉が焼ける香ばしい匂いを嗅ぎながら、そういえば朝から何も食べてないことを思い出した。きっと後ろにいる彼も同じだろう。少し逡巡したのち、サンドを二つ注文した。
 紙に包まれたサンドの一つを差し出す。彼は警戒の滲む眼差しでサンドと私の顔を交互に見た。

「どうぞ。ずっと運転してたし、朝から何も食べてないでしょう」
「いえ、しかし……」
「イルミからは私を逃すなって命令されただけで、買い食いするなとは言われてないでしょ。別にイルミにチクったりしないから安心して」

 言い淀む彼の手に押し付けると、渋々ながら受け取ってくれた。私も自分の分のサンドを紙包みから取り出して口に運ぶ。うん、美味しい。
 しばらく黙々と食べながら歩く。ちらりと執事の方を見てみると、やはり空腹だったようで既に半分以上なくなっていた。食べているときは気が緩むのか、素の表情に戻っているように見える。その無邪気にかぶりつく姿に自然と笑みがもれた。
 妙に人間くさいというか、ゾルディック家の執事らしくない人だと思う。これまで数多くの執事と顔を合わせてきたが、皆一様に感情を表に出さないようにしていた。
 私は新鮮な気持ちで執事の全身をさっと観察した。赤毛の短髪に、そばかすの散る肌。下がり気味の眉はやはりどこか頼りない印象を与える。

「ねぇ、名前は――」

 ふと興味が湧いて、彼の名前を尋ねようとしたときだった。
 突然、強烈な不安感に襲われた。まるで、無数の目線に取り囲まれているかのような――。
 焦りが胸を押し寄せて辺りを見回すが、何者の気配も感じない。

(気のせい――?)

 神経が過敏になりすぎていたのだろうか。いや、それにしてはあまりにも……。

「どうしました?」

 いきなり周囲を警戒し始めた私を不審に思った執事が声をかけてくる。
 何でもない、と答えようとしたとき、唐突に吐き気が込み上げた。

「うっ……」

 頭の先から血の気がひき、冷や汗が首筋を濡らす。
 今度は苦しみ出す私を見て、執事がさらに狼狽するのが気配で伝わる。頭上から何かしら声をかけられているが、言葉を返す余裕はなかった。

(もしや、さっき食べたものに何か入れられた?)

 まず思い至ったのが毒物を盛られた可能性だ。しかし、これまで無数の耐毒訓練を行ってきた経験から毒物を摂取した時の体の反応とは異なることに気付く。
 この何とも言えない不快感は何だろう。嫌で嫌でたまらない。肉体的な苦痛よりも、精神的な苦痛が勝っているように思える。
 片手で口元を覆い、押し寄せる不快感を必死にやり過ごそうとした。しかし回復する兆しはない。原因が分からない以上、なす術がなかった。

「――もう、帰ろう」

 苦しくなる呼吸をこらえて口を開けば、勝手に言葉が溢れ落ちた。しかし口に出すと、それが最善の選択だと思えた。
 そこからは一言も言葉を交わさず、私たちはホテルへと引き返した。


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