仄日の浮標

 


 ひたすら車は走り続け、窓から見える空が夕暮れに染まる頃、ようやくミンボ共和国の首都にあるホテルに到着した。当たり前のように最上階の客室に通されたことにもはや驚きはない。過去、キルアの仕事に同行する中でゾルディック家の財力の凄さは何度も目の当たりにしてきた。
 しかし、実際スイートルームに足を踏み入れると予想以上に豪華な部屋で少し圧倒された。入ってすぐのところは三十畳はあろうかというリビングルームになっていて、一面ガラス張りの窓からは首都の景色を一望できる。リビングルームの奥には、キングサイズのベッドが置かれた主寝室にベッドと簡単なテーブルセットの置かれたゲストルームまで付いていた。
 同じ部屋と聞いてからずっと気が重かったけど、ひとまずイルミと同じベッドで寝ることにはならずに済みそうだ。そのことに人知れず胸を撫で下ろしていると、イルミはこちらを振り向いた。

「じゃ、オレは仕事に行くから。ナマエは好きに過ごしてていいよ。そいつを連れて行くなら外に出てもいい」
「えっ」

 そいつ、という言葉とともに指差された先には執事が立っている。運転手をしていた男の執事だ。
 思わず「いいの?」と言いかけて口を噤む。外に出ていいと言われたぐらいで喜んでどうする。そもそも許可がないと外出できない状況がおかしいのに。反感の気持ちを抱く一方で、以前よりも明らかに譲歩が見えるイルミの発言に困惑した。
 イルミは私の横を通り過ぎると、執事に向かって鋭い声を投げかけた。

「ナマエを逃したらお前に罰を与える。分かってるね?」
「……はい、イルミ様」

 執事が深々と頭を下げる。腰の前で組まれた指先が震えているのを見つけて、なんとも言えない気持ちになった。

「良い子で待ってるんだよ、ナマエ」

 そう言い残し、イルミは部屋を出て行った。

(まさかホテルで待機することになるとは思わなかったな。てっきりこのまま仕事にもついて行かされるのだとばかり……)

 戸惑ったものの、こちらとしては好都合だ。イルミがいなくなったことでようやく肩の力が抜ける。
 私は改めて広い室内を物色し、満足したらリビングルームのソファに寝転がった。こちらを監視する執事の気配を感じながら、先ほどイルミに言われたことを反芻する。

 ――ナマエは好きに過ごしてていいよ。そいつを連れて行くなら外に出てもいい。

 思いがけない甘い言葉にはきっと裏があるのだろう。そうでなければおかしい。あのイルミが何の目的もなくあんなことを言うはずがない。私を油断させて、いったい何を画策しているのか……。

「はぁ……」

 自然とため息が漏れた。
 正直、もう疲れた。天空闘技場から連れ戻されてからずっと、一度も気を抜くことができなかった。イルミの行動をひたすら気にし続け、緊張し続けたせいで身も心も疲弊している。そろそろ休息が必要だ。

 仰向けになって天井を見上げたまま、つかの間ぼんやりとする。
 白い天井をずっと見ていると、頭の中まで白く靄がかかっていくような錯覚を覚えた。疲労のせいか頭の動きが鈍り、混沌とした思考回路に陥っていく。

(――あの家を出て、私はどこに行けばいいんだろう)

 ふと湧いた疑問に、思考を巡らせようとするがなんだか上手くいかない。前までは、世界中を旅する自分の姿を思い描くだけで胸が弾んでいたはずなのに。

(旅を終えたら、そのあとは何をする? 私はどう生きていけばいい?)

 根本的な疑問に突き当たり、茫然とする。ゾルディック家から――イルミから逃げ出すことにばかり囚われて、その先のことを碌に考えていなかった。

 そもそも外で生きていきたいと思ったのは、ゾルディック家で一生を終えたくなかったからだ。あの家にいるときは常に自分の存在が霞んでゆくような不安を感じていた。どう足掻いても馴染むことができない家に押し込まれ、息を殺して過ごす孤独な日々を想像するだけで心に空風が吹く。一度でいいから自分が生まれたことの意味を感じてみたい。だから、外の世界に出たかった。外の世界に出れば、きっと虚しい思いをしなくて済む。もっと自由に生きていける――。

 でも、果たして本当にそうだろうか? 外の世界にも、きっと嫌なことをたくさんある。恐ろしいことはどこでも起こり得る。多くの他人の中には私を傷つけようとする人間もいるはずだ。イルミ以上に危険な人間もいるかもしれない。
 でも、あの家にいれば、少なくとも命の危機にはもう曝されないはずだ。イルミのすることにいちいち抗わなければ、それなりに平穏な毎日を送れる。……それに、キルアが家に帰ってきたら、拗れてしまった仲を修復できるかもしれない。
 私の存在を誰よりもを求めてくれたのは、間違いなくキルアだ。そして、過去出会った誰よりも強い存在感を持って意識に食い込んできたのは……認めたくないけど、イルミだ。

(このまま流れに身を委ねてしまえば、楽なのかもしれない)

 ありえない考えが薄暗い雲のように頭の中をさっと横切っていく。そのことに強いショックを受けた。

 ――違う! 今のは違う。私は何がなんでもあの家から出たい。あの家でイルミの監視下に置かれることを誰が望むのか。さまざまな自由を奪われている異常な状況をずっと続けていけるわけがない。どこかで必ず限界がくる。自分の根本は絶対に揺るがないという意思を貫き通さなければ。なにがあろうとも、気をしっかり持たないと……。

(もう余計なことを考えるのはやめよう……)

 イルミがいなくてもイルミのことばかり考えていることにうんざりして、思考を放棄した。

(外に出よう。外の空気を吸って、気持ちを切り替えたい)

 このままここにいるとまたぶり返しそうだったので、気晴らしに外に出て、意識をそらしたかった。
 仰向けになっていたソファから起き上がって、出入口のドアの近くに立つ執事に

「あの……外に出たい、です」
「承知しました」

 表情は変わらないが、明らかに嫌がっているのを声色から感じ取って、私は内心苦笑した。それだけ万が一私を逃してしまった時のイルミの仕打ちが恐ろしいのだろう。嫌がっている彼には悪いけど、せっかく外に出歩ける機会は逃したくない。私は心の内で謝りながら執事を伴って外に出た。


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