求愛あそび




 部屋の中へ足を踏み入れたイルミは、ベッドに腰掛ける私のところまで一直線に歩いてきた。
 目の前までやってくると、様子を窺うようにじっと見下ろしてくる。感情の読めない真っ黒な眼とぶつかって怯みそうになる自分を叱咤し、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
 
「昨日から食事に手をつけてないみたいだね。執事から聞いたよ」

 思わず眉を顰める。
 そんなことまで逐一報告させてるのか。管理されてるみたいで気分が悪い。

「それがなに?」
「具合でも悪いのかと思ってさ。心配だから様子を見に来た」

 さらりと告げられた言葉は予想外で、私は一瞬絶句した。
 
(あのイルミが、心配?)

 それは、イルミという人間にはあまりにも似つかわしくない単語だった。一体どういう風の吹き回しだろう。あっけにとられる私をよそに、イルミはさらに奇妙な発言を重ねた。

「今までそんなこと滅多に無かっただろ。どこか悪いなら医者を呼ぼうか」

 ――気味が悪い!
 思わず叫びそうになったが、すんでのところで呑み込んだ。

(ちょっと食事を摂らなかったくらいで何を今さら……これまで私がどれだけ血を吐いてのたうち回ろうが気にも留めてなかったくせに)

 あまりにも白々しい発言にだんだん腹が立ってきた。

「必要ない。別にどこも悪くないから放っておいて」

 そう言い捨て、睨み上げる。が、そんな視線を物ともせずイルミは淡々と続けた。

「そう。なら食事の内容が気に入らない?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ何?」
「だから何でもないって! 私だって食欲がない時くらいあるから」
「ふぅん、そう」

 そこまで言ってようやくイルミは引き下がった。
 私は頭を抱えたくなった。なんだこの会話。この男はいったい何がしたいんだ……。
 イルミの意図が読めず、どっと疲れがこみ上げてくる。これのせいで私の疲労は蓄積される一方だった。

 ――あの日からずっと、イルミのおかしな言動は続いていた。
 事あるごとに部屋を訪れるようになったかと思えば、正気の沙汰とは思えない発言を繰り出し、気が済んだら去っていく。かつてのようにそばにいるだけで身の危険を感じるようなことはなくなったが、だからこそ私は困惑した。イルミに限っては敵意を向けられないことの方が異常に感じてしまう。
 どんな心境の変化があったのか知らないけど、とにかくやめてほしい。イルミが優しいとか不気味でしかない。

「ナマエ」

 はっと気づいた時にはイルミの顔が至近距離にあった。いつのまにか隣に座られている。それに驚き目を見張ると、イルミが首を傾け、さらに距離を近づけてくる。真っ黒な瞳に目を丸くした私の顔が映り込んでいて、ごくりと唾を飲み込んだ。 
 近い。本当に距離が近い。さわさわと体温を感じ取れるほど。こんなの、意識してしまうではないか。
 たまらなくなって、私は顔を背けた。それでもイルミがこちらの様子をつぶさに観察しているのがはっきりとわかる。まずい。うまく言えないが激しくまずい。

「どこ見てるの?」

 大きな手の平がするりと頬を包みこむ。顔を背けることは許さないとばかりにイルミの方を向かされ、唇がわなないた。
 イルミはそんな私の様子を無言で見つめたまま今度は指の節で頬を撫でてきた。びく、と肩がはね上がる。殴られたわけじゃないのにじんじんと肌が痺れ、熱を帯び始める。これはいけない。耳まで赤くなっている自覚がある。

(やめて。そんな風に私に触れないで)

 そう言いたいのに、喉の奥がひくりと痙攣するだけで声にならない。

 ――イルミのおかしさは発言だけに留まらず、こうして気まぐれに頬や頭といった部分に触れてくるようになっていた。
 触れてくる手に敵意はない。それ以上何をするでもなく、ただ触れてくるだけ。これまで私を脅かしてきた掌がまるで幼い子供を愛でるかのように撫でてくるのを、私はたまらなく恐ろしい心地で眺めていた。

 この行為に、いったい何の意味があるのだろう。イルミが何の意図もなくこんなことをしてくるわけがない。そう思う一方で、私はすでに答えを知っている気がした。

(まるで、イルミに大切に扱われてるみたい……)

 そんな発想に至ったことにひどく狼狽する。
 急に不安のような、焦りのような、なんとも言いがたい感覚が身体の中心を駆け抜ける。これ以上深く考えてはいけないと本能が警鐘を鳴らしていた。

(――呑まれるな!)

 これ以上、イルミの好きにさせてはいけない。
 強く自分を叱咤して、イルミの手から逃れるために顔を背ける。その手が再び触れてくる前に、私は急いで問いかけた。

「どういうつもり」

 私の問いにイルミが瞬きを繰り返す。

「いったい何を企んでるのかって聞いてるの」
「企む? オレが?」

 心外だというようにイルミが片眉を持ち上げた。

「イルミが私の体調を気遣うとか明らかにおかしいでしょ。何か裏があるとしか思えない」
「へぇ、まるでオレに何か企んでいてほしいみたいな言い方だね」

 ぎくりと喉が震えた。
 イルミの目が、いたぶり甲斐のある獲物を前にした獣みたいに細められる。

「オレがナマエに触れるのに理由があってほしいんだろ? その方がナマエにとって都合がいいから」

 私は何も答えられなかった。イルミの指摘は、まさに私の心情そのものだったから。
 イルミの指先が顎を軽く持ち上げる。鼻先が触れるほどの距離でイルミはゆっくりと言葉を紡いだ。

「ま、今はそれでいいよ。時間はたっぷりあるからね。じっくり分からせてあげる」

 顎に触れた手が、猫でも可愛がるかのように撫でてくる。
 どこか甘さを孕んだイルミの雰囲気に、心臓が急激に脈打ちはじめる。いくつもの感情が濁流のごとく入り乱れていて息をするのも苦しいほどだった。頭に血はのぼるし、頬は火照る。

 こんなの、おかしい。
 こんなの、私じゃない――。

 おさまらない感情の乱れに困惑しながら胸に手を置いたとき、イルミがふいに手を離した。

「じゃ、オレ今から仕事だから」
「……え?」

 さっきまでの空気が嘘のような軽い調子で告げられ、唖然とする。唐突な展開についていけず、立ち上がるイルミを呆然と眺めることしかできなかった。
 この男、マイペースにもほどがある!

(……でも、自分から出て行ってくれるならむしろ好都合か)

 これ以上はこちらの心臓が持ちそうにない。
 やっと一人になれるとほっとしたのもの束の間、イルミは思いがけないことを言い出した。

「ナマエにも来てもらうよ」
「へっ?」
「外に出たいんだろ? 気分転換になるだろうし、出してあげる」
「えぇぇ……」

 差し出された手を怖々と見つめる。なんの罠だこれは。
 戸惑いつつ顔を上げると、傲然と見下ろす瞳とぶつかった。いいから早くしろと言わんばかりの視線に嘆息をもらす。

(考えても仕方ないか)

 そもそも私に断る選択肢など与えられていない。
 頭の中で鳴り響く警鐘を聞きながら、イルミの手を取った。


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