ふたつのこころ
シルバさんの部屋から出ても、イルミは歩くスピードをぜんぜん緩めてくれなかった。靴底が磨り減りそうなぐらいずるずると引きずられながら、こっそり嘆息をもらす。
――失敗した。
シルバさんからの協力は得られず、その上よりによってイルミに見つかってしまった。最悪の結果だ。
(どうしてこう上手くいかないんだ……)
いつだってそうだ。何か行動を起こせば必ず邪魔が入って、事態はさらに悪い方へと転げ落ちていく。やることなすこと裏目に出るのだから、もう何もしない方がマシなのではないかと思えてくる。この家を出ることも、イルミの呪縛から逃れることも諦めて、大人しくしているのが身の為なのかもしれない。
思い通りにいかない歯痒さと無力感に苛まれ、どんどん思考が沈んでいく。
だが、嘆いてばかりもいられない。今この瞬間も、危機は迫っているのだから。
猛然と突き進む背中は不機嫌さを物語っていて、これから自分の身に起きる災難をたやすく連想させた。
(――どこから聞かれてたんだろう)
それによって私が受ける仕打ちは変わってくるだろう。もし最初から――シルバさんにイルミを止めるように頼んだところから聞かれていたとしたらただじゃ済まないはずだ。
しかし部屋に入ったイルミが真っ先に怒りの矛先を向けた相手はシルバさんだった。つまり、最悪なケースは免れたということだろうか。
思考を巡らせていると、急にイルミは立ち止まった。唐突な停止についていけず、鼻先からイルミの背中にしたたかに突っ込んでしまう。
慌てて顔を離せば、イルミはいかにも憤懣遣る方無いといった顔で見下ろしていた。その様子にごくりと唾を飲みこむ。
(やっぱりこれ、最初から聞かれてたかも)
どんな叱責を受けるかと身構えていると、予想外の方向から切り出された。
「親父まで誑して、一体どういうつもり?」
「はぁ!?」
私は目を剥いて声を荒げた。
「た、たぶらかすって……誰が?」
あまりに身に覚えがなくて、呆然と聞き返す。その反応を咎めるかのように、イルミは視線を尖らせた。
「ナマエ以外いないだろ」
イルミの声は冷たく、決めてかかっているようだった。取りつく島もない態度に、ふとキキョウさんの顔が頭に浮かぶ。そういえば彼女にも「どうやってうちのイルミを誑かしたの」って非難されたっけ。その時のことを思い出して、腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。
(親子そろってどんな発想してるんだよ……それに親父まで、ってなんだ。私は誰にもそんなことしてない!)
心中で毒づきながら、掴まれたままだった腕を振り払った。
「意味が分からない。そんなことした覚えない」
「ふぅん。わざわざ親父の部屋に一人で乗り込んでおいて、身に覚えがないって?」
嫌味ったらしく言い返されて、さらに苛立ちが募る。
「あるわけないでしょ! 誑かすなんて発想になる方がどうかしてる」
「そう思わせる行動をとってるのはナマエだろ。それに、たとえお前にそのつもりが無かったとしてもしてるんだよ」
「はぁ?」
何だそれ。無意識のうちに人を誑かしてるとでも言いたいのか。心外だ。
反論の言葉が喉元まで迫り上がってくるが、ふと我に返って呑み込んだ。これ以上否定を続けても不利になるだけだろう。「じゃあ何のために親父のところに行ったの?」なんて詰められたら終わりだ。新たに絡まれる材料を与えるべきじゃない。そう判断し、こみ上げてくる感情を押し殺して口を噤んだ。
「ほんと、ナマエって碌なことしないよね」
頭上から聞えよがしのため息が降ってくる。無言でじとりとイルミを睨みつけるが、それ以上に鋭い眼光を返された。
――真っ向から見下ろすイルミは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。人を追いつめる物言いも、敵意丸出しの態度も、昔からずっと変わらない。それを腹立たしく感じる反面、ほんの少しだけホッとしている自分がいた。どうしてそんな風に感じるのかは分からない。でも、理解不能な眼差しを向けられるよりは、こうして睨みつけられる方がよっぽど分かりやすくていい。
「もう親父と二人で会うのは禁止だから」
「……え」
別のことに気を取られていたせいで反応が遅れた。
とっさに漏れた声は不満の意だと思われたらしく、空気が一気に冷え込んでいく。イルミの勘気に触れたのだと分かった。
「何? そんなに親父と二人になりたい?」
あまりの剣幕に気圧され、反射的に首を横に振る。ここで頷いたら大変なことになると本能的に悟っていた。たじろぎながら「分かった、言う通りにする」と口早に返した。
即座に屈服を選択した私に、イルミはそれ以上何も言わなかった。
話が終わったなら早々に立ち去りたいところだが、とはいえ依然としてイルミは私を見ていた。物言いたげな表情はひどく不機嫌そうだ。イルミが一体何を考えているのか、私にはさっぱりわからない。
不自然な沈黙の後、イルミは苦いものを噛んだように顔を歪め、口を開いた。
「ナマエに同情されるとは思わなかったよ」