騒つく瞳
「イ、ルミ」
振りかえった先――部屋の入り口に立つイルミの姿に、息もつけないほど驚く。
目が合うと、イルミは睨むように両目を眇め、大股でこちらへ近づいてきた。頭に上った血が引いていくと同時に、強い焦りが背筋を這い上がる。
(一体いつからそこに!? どこから聞かれてた?)
迫り来るイルミを恐怖とともに見つめる。目の前までやってくると、長い腕を伸ばして私の腰をとった。とっさに身構えるが、そばに引き寄せられただけでそれ以上は何も起こらなかった。
まるで庇うように前に立ったイルミの視線は、私ではなくシルバさんに向けられた。
「人のものを横取りしようだなんて親父も趣味が悪いね」
きつい声音が耳を打つ。眼差しは冷ややかで、相手に対する敵意を少しも隠そうとしていない。
イルミの言葉を受けて、シルバさんは目を細めて片側の口角を持ち上げた。挑発的な表情だ。
(何この空気……)
雲行きの怪しさを感じ取って、思わず首を縮こめる。
斜め後ろから見るイルミの横顔は珍しく余裕がないように見えた。何故かは分からないが、イルミはシルバさんに対して強い怒りを見せている。一方シルバさんは、そんなイルミの様子を面白がっているようだった。唐突に訪れた一触即発の空気に慄然とする。
(よく分からないけど、逃げたい)
動物的本能で、じり、と後退る。
しかし、本気で逃げ出す前にシルバさんが口火を切った。
「いつからお前の物になったんだ。ナマエをこの家に連れてきたのは俺だぞ」
「は?」
ぶわ、と一気に険悪な空気が膨らんで、びりびりと体が痺れた。ただでさえ張りつめていた空気が、息をするのも難しいほど緊迫したものへと変わる。
「今さら飼い主気取りとは随分と虫がいい話だね」
「事実だからな。ナマエを拾ったのは俺だ」
「だから? こいつに手を出したら親父でも許さないよ」
シルバさんが言葉を発するごとにイルミの殺気が膨れ上がっていくのがわかる。思わず「やめて!」と叫びそうになった。お願いだから、これ以上イルミを挑発するのはやめてほしい。
しかし願いは届かず、シルバさんはイルミの発言を鼻先であしらった。
「なぜお前に許される必要がある」
ひ、と声にならない悲鳴がもれる。両者の殺気を浴びて、ぐらぐらと脳髄が揺れるのを感じた。
(さっきからこの人たちは、いったい何を言い争ってるの……?)
拾っただの何だのと、まったくついていけない。目の前で繰り広げられる応酬に神経がすり減っていくのが分かる。そろそろ過負荷に耐えられなくなるだろう。
(なんでもいいからここから離れたい。巻き添えをくらう前にさっさと逃げよう――)
よろめく足で身を翻そうとした時だった。
「ナマエ」
不意打ちでシルバさんに呼ばれて、びくぅ!と飛び上がらんばかりに驚いた。
「お前はどうなんだ?」
「え……?」
唐突に問われた意味が分からない。
困惑する私を愉しげに眺めながらシルバさんは再度口を開いた。
「俺とイルミ、どちらを選ぶ」
愕然とした。
なんだそれ。
何がどうしてそうなった?
不可解な二択を迫られ逃避しかけた意識は、しかし、すぐさま現実に引き戻された。イルミがこちらを振り返ったためだ。
じっと見下ろす瞳は怒りに淀んでいる。その奥で、シルバさんがからかい混じりの笑みを浮かべているのが見えた。
(何で私に振ってくるんだよ……っ!)
半泣きの心境でシルバさんを睨むが、向き直ったイルミに視界を遮られてしまった。イルミが放つ刺々しい空気がじりじりと増す。このまま黙っていたらまずいことだけは分かった。
(どっちを選ぶって、そんなのどっちも嫌に決まってる! 命がいくつあっても足りない!)
「どっ……」
どっちも嫌です、と続きかけた言葉をとっさに飲み込んだ。
見下ろしてくるイルミの、真っ黒な瞳。その中に見慣れない色を見た気がして、ぎゅっと胸が締めつけられる。
――もうずっと、心の隅に棘のようなものが引っ掛かっている。その棘はいつのまにか肥大化して、心臓を食い破らんばかりに蠢いている。見ないふりを続けるのは、もう限界だった。
ほとんど口から転げ出ていた台詞を、散々ためらった挙句、軌道修正した。
「シルバさん、は……キキョウさんに殺されるのは嫌なので……その、えっと…………」
その先を口に出すのは憚られて、もごもごと語尾を濁す。視線の重圧に耐えきれず俯けば、沈黙が訪れた。
三人とも無言の地獄みたいな時間が続く。たった数秒がとてつもなく長く感じられた。
(まずい、間違ったか――?)
全身に冷や汗がにじむ。
沈黙を破ったのは、シルバさんの笑い声だった。
「それは残念だ。よかったな、イルミ」
「……」
「くくっ、お前のそんな顔は久しぶりに見たな」
シルバさんの言葉につられて顔を上げると、イルミの後頭部が目に入った。どんな顔をしているか分からないが、どうやら怒りは鎮まったようだ。私は喘ぐように息を吸いこんだ。
「安心しろ。さっきのは冗談だ。お前の獲物を奪うつもりはない」
「そ、ならいいけど。じゃ、この話はもうおしまい」
鋭い鋏で布を裁ち切るような声色で話を打ち切ったイルミは、私を見ると眉をひそめた。
あからさまに嫌そうな顔だったが、何かを持て余しているような奇妙なぎこちなさも窺える。でも、胸の底から這い上がってくる感情を持て余しているのは私も同じだった。
「行くよ」
腕を掴まれて、勢いよく引っ張りあげられる。体勢を立て直す暇も与えられないまま、イルミは私を引きずるようにして部屋のドアへと向かっていった。
部屋を出る間際に後ろを見遣る。シルバさんは指をひらひらさせて、私にだけ手を振って見せた。事の成り行きを愉しむような表情に、心底恨みたくなった。