希望の端をつかんだ
荒々しい足取りで廊下を進む。形容しがたい感情が私の心をかき乱していた。恐ろしいのと、やるせないのと、不快なのと不安なのと、そんなあらゆる感情がごっちゃになって頭の中を渦巻いている。それらは交ざりあうと怒りにとてもよく似たものになった。
「ああもう!」
感情に任せて頭をかきむしる。
どうしようもなく腹が立っていた。自分の子供を家のために尽くす存在だと言い切ったキキョウさんにも、すべての元凶であるイルミにも。何より、さきほど想像で思い浮かべた光景がいつまでも頭から離れてくれないことがこの上なく煩わしかった。
「おいナマエ!」
鼻息荒く突き進む私の背中を誰かの怒鳴り声が呼び止めた。振り向けば、長い回廊の先にミルキの姿があった。
「なんで戻ってきたんだよ!」
ドスドスと大きな足音を立てながら詰め寄ってくる。
「やっと出て行ったと思ったらこんなすぐに戻ってきやがって! どういうつもりか説明しろ!」
目の前までやってくると、ミルキは語気荒く吐き捨てきつい眼差しを寄越した。いつもなら怯むような視線の強さだったが、今の私にはまったく効果がない。それどころか、ミルキの怒りに触発されてこちらの苛立ちも沸点に達した。
「私だって戻ってきたくなかったよ!!」
気づけば癇癪を起こしたように叫んでいた。天井の高い広々とした廊下に私の怒鳴り声が響き渡る。
驚きをうかがわせて身を引くミルキに、今度はこちらから詰め寄った。
「戻るつもりなんてなかったのに、キルアに毒盛られて気絶してる間にイルミに連れ戻されたんだよ!」
「お、おいナマエ」
「イルミは結婚とか言い出すし、キキョウさんはどうやってたぶらかしたとか意味不明なこと言ってくるし、どいつもこいつも勝手なことばっかり……!」
喉が痛むのも構わずまくし立てる。一度爆発したらもう止められなかった。溜まった鬱憤が次から次へとこみ上げてくる。
私の勢いにミルキは気圧された様子だったが、結婚という単語は聞き捨てならなかったのか訝しげな視線を向けてきた。
「おい、結婚ってどういうことだよ」
「……イルミが私と結婚するって言い出したんだよ。私をこの家に居させるためにね」
ミルキがギョッと目を見開く。そして「趣味悪すぎだろイル兄……」と頭を抱えた。頭を抱えたいのはこっちの方だ!
「ナマエと家族になるなんて冗談じゃない……」
ミルキは現在進行形で苦痛を味わっていますと言わんばかりの表情を浮かべている。私だって冗談じゃないと言い返したくなるけど、とある考えが頭をよぎって言葉をのみ込んだ。
怒りに染まっていた思考を切り替え、私は取引を持ちかけた。
「そんなに嫌なら協力して」
「は?」
「イルミに見つからない場所まで私を逃がしてほしい」
私の言葉を受けてミルキは大げさなほど顔を歪めた。
「なんで俺が! ナマエがさっさと出ていけば済む話だろ!」
「出ていったところでイルミに連れ戻されて終わりだよ。どこに隠れようが必ず見つけ出すってイルミから言われたもの」
「だとしても協力なんて誰がするかよ」
「……このままだとミルキが私と結婚させられるかもよ」
「はぁ!?」
ミルキの目を見据えたまま、慎重に言葉を選んだ。
「イルミのやつ、最初は私とミルキを結婚させるって言ってたからね。年も近いし妥当だって。イルミとの結婚はキキョウさんが猛反対してるし、次はミルキに御鉢が回ってくるんじゃない?」
キキョウさんは私がこの家に嫁ぐこと自体を嫌悪していたからおそらくそれはないだろう。しかし脅しとしての効果は覿面だった。
唖然とするミルキの顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かって、私は内心でほくそ笑んだ。
「それだけは嫌だ!」
まさに悲痛な叫びだった。声色に滲む絶望感がすごい。
「ナマエと結婚なんて死んでも嫌だ! 気色が悪い!」
「じゃあそうならないように協力して」
「ぐっ……」
ミルキは眉を寄せて悔しそうな顔をした。
「クソッ、なんで俺が……でもコイツと結婚させられるくらいなら死んだ方がマシだ……」
何やらブツブツとつぶやいていたが、やがて思案に耽る顔を見せた。そして感情を抑え込むように瞼を指先で強く揉み、深い溜息が落とされる。
どんな結論を出したのか固唾を飲んで見守っていると、ミルキが忌々しげな視線を投げてきた。
「協力してやってもいい」
(よっしゃ! うまくいった!)
心の中でガッツポーズする。ミルキの力を得られたのは大きい。私一人じゃ到底イルミの魔の手から逃れられないだろうけど、ミルキが手を貸してくれるならまだ可能性はある。
そんな内心の喜びが漏れていたのか、ミルキは苛立たしげに舌打ちした。
「いいか、俺が逃亡ルートを確保するまで結婚の話は食い止めろよ!」
「わ、分かってるよ」
ミルキがじっとりとした目を向けてくる。負の念が漂ってきそうな淀んだ目だ。
「万が一、俺とナマエが結婚なんてことになったら、どんな手を使ってでもお前を消してやるからな」
それだけ言い残すと、乱暴な足音を立てながら去っていった。