きみ以外を歪めた世界
イルミが出て行った後、私はボロボロの体を引きずりながら自室に戻ってきた。
どっと疲労が押し寄せてベッドに倒れこむ。ここ数日ずっと極限状態にいたのだ。心身ともに限界だった。
シーツの中で丸まって目を閉じる。すぐにでも意識を手放したかったが、眠りの気配は一向に訪れなかった。
イルミの姿が、触れられた感触が、何度も何度も蘇る。追い出そうとすればするほど鮮明になるそれに、胸は鉛を飲み込んだように重たくなる。
(どうしてイルミはあんなことを……)
私は思いの外ショックを受けていた。イルミがあんな手段で私を征服しようとするなんて、今まで想像したこともなかったから。イルミがそんなことをするわけがないと無意識のうちに思い込んでいたのかもしれない。
ずっと我慢していた涙がひと粒、転がり落ちた。
(なんで涙が出るんだ)
私は傷ついてなどいない。痛くなんかない。そう自分の心に言い聞かせる。そうしていないと、心がぽっきりと折れて二度と立ち上げれなくなってしまいそうだった。
声もなく泣き続ける。やがて体力の限界が訪れ、気絶するように私は眠りに落ちた。
目を覚ました時、すでに陽は高くまで昇っていた。窓から入る光の角度を見る限り、昼を回っているのだろうと思われる。
寝すぎた為か頭は重かったが、身体は随分と楽になっていた。とりあえず起きて顔を洗おうと起き上がって、傍らに立つ存在に気がついた。
「おはようございます、ナマエ様」
恭しく頭をさげる姿には見覚えがある。たしかキキョウさんの身の回りの世話をしていたレディースメイドだったはずだ。今度は私の世話でも命じられたのだろうか。
(前までは私の存在なんて完全無視だったくせに、今さら様付けとはね)
心の中で毒づきながら、ぴんと背筋を伸ばして立っている彼女に向き直る。
「イルミ、は」
喉は痛むが声を出せないほどではない。イルミの所在を尋ねると、抑揚のない声が答えた。
「イルミ様はご不在にしていらっしゃいます」
「仕事ですか?」
「はい。そのように伺っております。お戻りは数日かかるとのことです」
数日の間はイルミと顔を合わせずに済みそうでほっと胸をなでおろす。
しかし安堵したのも束の間、ナマエ様、とこちらを見据えて侍女は言葉を続けた。
「奥様がお呼びです」
頭から冷水を浴びせられた気分だった。どうやら私には休息など存在しないようだ。
(生きて帰れるますように……)
胸の内で祈りながら「すぐに行きます」と答えた。
侍女の先導でやってきたのはキキョウさんの部屋だった。
初めて足を踏み入れるその空間は目が痛くなるほど豪奢だった。家具はすべてアンティークのものだろう。繊細な意匠が特徴的で美しい。贅の限りを尽くされた部屋の真ん中にはこれまた豪華なテーブルと椅子が置かれている。その椅子に腰掛ける女性はどこかの王族かと思うほどに堂々としていた。
「ごきげんよう、ナマエさん」
緊張でうまく発声できず頭をさげた。この人の前に立っているだけでも消耗していくのが分かる。
でも、これは願ってもない好機だ。この家を出る為にも、私はこの人にとことん嫌われなくてはならない。
「座ってちょうだい」
冷えた声でうながされる。緊張で身体を強ばらせながら目の前の椅子に腰を下ろした。
そばに控えていた執事がテーブルに紅茶を置く。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「さ、どうぞ召し上がって!」
「……これを、ですか?」
「ええ。遠慮しなくていいのよ」
湯気が立ち上るティーカップを覗き込む。香りは良いがその中身は黒く濁っていて、何かしら混入されているのは明らかだった。間違いなく毒だろう。それも致死量の。頬がひくひくと引き攣るのが分かった。
(わざわざ嫌われにいかなくても、もう十分すぎるくらい嫌われてるか)
表情こそは穏やかだが、周囲に満ちた空気は不穏そのものだ。私の存在が不愉快だと如実に訴えている。怖い、と素直に思った。でも萎縮しているだけじゃ何も始まらない。
震える指先をぎゅっと握り込み、まっすぐに目の前の貴人を見つめた。
「私に何か用ですか」
絞り出した声は掠れていた。
キキョウさんは口元を扇で隠し、キュイン!と音を立てながらモノアイの照準を私に合わせた。
「一度あなたに聞いてみたかったの。どうやってうちのイルミをたぶらかしたのか」
思いもよらない発言にぎょっとする。
「そんなことしてません!」
「あら、じゃあどうしてイルミがあなたを嫁がせるなんて言い出したの?」
知るか! 自分の息子に聞いてくれ!
そう言い返したい気持ちをぐっと堪える。この人相手に感情的になったらダメだ。一つ間違えればこの場で撃ち殺されてもおかしくない。落ち着け、と自分に言い聞かせながら静かに息を吸い込んだ。
「イルミは、私がこの家を出るのが気に食わないと言ってました。私がイルミたちとは違う思想を持っていることも。だから、この家に嫁がせて私を教育すると……」
「それは違うわ。気に入らないものは排除するものよ。私があの子にそう教えたもの」
二の句を継がせない断固とした口調だった。まるで自分がそう作り上げたとでも言うように。私は言い知れぬ違和感を覚えた。
(この人は、自分が教えたことは必ず実行すると思っているんだ)
思えばイルミもキルアに対して同じように思っている節がある。ゾルディック家の人間にはそれが普通なのかもしれない。でも、私には到底理解できそうになかった。血の繋がった家族相手だとしても、誰かを自分の思い通りにするなんて……。
そこで、はたと違う方向に思考が飛んだ。
気に入らないものは排除する。それは、目の前のこの人にも当てはまる性質なんじゃないだろうか。
(このままだと私も排除される……?)
さーっと頭のてっぺんから血の気が引いていく。身の危険を感じて思わず体が引ける。
そんな私の心境を知ってか知らずか、キキョウさんはことさら大きな音を立てて手の中の扇を閉じた。
「イルミがあなたみたいな異物を家に持ち込んだ理由を知りたいの。あなたの何がイルミにそこまでさせるのか」
「そんなこと……」
私が知りたいくらいだ。
なんて答えたらいいか分からず黙り込む私に、苛立ちが滲む甲高い声が浴びせられる。
「あなたのような娘を娶って、一体この家にどんな利益があるのか教えてくれないかしら」
「……」
「あら、だんまり? それじゃ声が出るようになっても意味がないわね」
キキョウさんが嘲るように笑う。
この相手を徹底的に追い詰めようとする物言い、イルミにそっくりだ。
イルミは子供を産めば私に利用価値があると言っていた。彼女もまた、私にどんな価値があるかを求めている。目の前の人がイルミと重なって見えて、嫌な汗が背筋を這うのを感じた。
「イルミはいつだって私の教えを忠実に守ってくれたわ。あの子は家のために尽くす私の分身よ。あの子が家に何の還元もできない無価値な存在を迎え入れようとするはずがないのよ!」
興奮気味にまくしたてられた内容に私は戦慄した。
(そんなの……まるでイルミが家のため存在してると言ってるようなものじゃないか)
普通の親だなんてとんだ思い違いだった。この人もまた、常軌を逸している。キキョウさんの発言に憤りを覚えると同時に、私はひどくショックを受けていた。
私には家族がいない。自分の家族というものを知らない。けれど、家族とは無条件に慈しむ存在だと思っていた。そんな淡い幻想を、彼女の言葉が切り刻んだ。
キキョウさんを糾弾する力はない。その権利も。この家では彼女こそが正しく、私が異質なのだから。
彼女たちとの埋められない溝を再確認して、私は決意を新たにした。必ずやこの家を出て、自由を手に入れるという決意を。
「私には、この家の利益になるような価値なんて、ありません」
ゆっくりと言葉を区切る。嗄れた声でもしっかり聞こえるように。私の言葉にキキョウさんは「まあ!」と気色ばんだ。
「それなのに恥知らずにもイルミと結婚しようと?」
「私にとってもこの件は不本意です」
間髪入れずにそう返せば、キキョウさんが驚いたように体を引いたのが分かった。
頭の中で鳴り響く警鐘を無視して、私は言葉を続ける。
「私がゾルディック家に相応しいだなんて微塵も思っていません。……でも、自分に何の価値がないとも思っていませんから」
それは虚勢だった。私には、誰かに誇れるようなものなど何もない。でも、そのことを口に出して認めることだけはしたくなかった。それは私のなけなしの矜持だった。
キキョウさんはふたたびパラリと扇子を開いて口元を隠した。バイザーに浮かぶ赤い点が、耳障りな機械音を立てながら動き回る。
「……まあ、生意気ね」
ぞくりと背筋に悪寒が走った。一瞬で増幅した禍々しいオーラにあてられ、息が苦しくなる。
(まずい)
黒いレンズに、恐怖で硬直する私の顔が映り込む。命の危機を感じても全身が凍りついたように身動きひとつ取れなかった。
しかし、一触即発の空気は意外なほど早く霧散した。
「やっぱりあなたたちの結婚を認めるわけにはいかないわね」
扇子がパチンと閉じられ、赤い唇が弧を描く。能面のような笑顔だった。
「イルミには別の方と結婚してもらいます。この家に相応しい立派な淑女と。それでいいわね?」
瞬間、イルミの横に見知らぬ女性が立っている光景が頭に浮かぶ。途端に、表現のし難い不快な感覚がこみ上げてきた。その感情をなんと呼ぶのか私には分からない。分かりたくもない。
脳裏に浮かぶ光景をつとめて意識的に頭から追い払い、私はかろうじて言葉をつないだ。
「構いません」
キキョウさんは満足気に頷くと、扇の先端で私の背後にある扉を指した。
「下がって結構よ」
言われるままに立ち上がり、一礼して部屋を出ていった。
(今度こそ本当に殺されるかと思った……)
九死に一生を得て、私はようやく深く息を吸い込むことができた。
安堵感が広がる一方、わずかに胸のつまるような感覚に眉を顰める。一体なんだっていうんだ。
ざわめく感情に苛まれながら、私は足早に廊下を駆けて行った。