幽かに触れた
地獄のような話し合いが終わり、談話室を出た私の背を追う影があった。
「ナマエ」
背後から声をかけられ、びくぅ!と飛び上がりそうになる私の肩を誰かが掴む。次の瞬間、世界が反転して全身が浮遊感に包まれた。
「っ!?」
はじめは何が起きたか分からなかった。だけど、視界の端に映り込む黒髪と覚えのある禍々しいオーラからたやすく察してしまう。私の身体はイルミの肩に荷物のように担がれていた。
(やばいやばいやばい!)
手足をばたつかせて抵抗を試みるが、イルミはびくりともせず歩き出した。
不自然な体勢のまま運ばれ、ただでさえギリギリの身体にさらなるダメージが加算される。とくに圧迫されている腹がつらい。このままだと吐くかもしれないと覚悟し始めたところで、ようやくイルミの自室に着いた。
麻袋でもおろすようにイルミは私をベッドに放り投げる。体を起こす隙も与えられず、顔の横に手を置かれ覆い被さられた。
「ずいぶんと嬉しそうだね、お前」
気にくわない、とその顔には書いてあった。
ごくりと唾を飲みこむ。まずい、これは本気で怒っている。
思わず体が逃げを打つ。それが良くなかった。無駄な抵抗を続ける私をとがめるように胸元をどんと押されてのしかかられた。
「結婚を認められなければ解放されるとでも思った? はは、どこまでもおめでたいよねナマエって。一から躾直してやらないと」
早口で捲し立てられ喉がつまる。今何かされたらひとたまりもない。
イルミの腕の下から逃れようともがいたらいっそう強い力で抑え込まれた。歴然とした力の差を思い知らされてくちびるを噛み締める。
そんな私の様子を嘲笑ったあと、イルミは耳元に口を寄せてきた。
「既成事実でも作ったら母さんも認めるかな」
一瞬で頭が真っ白になった。
(は? 嘘でしょ?)
信じられない気持ちでイルミを見上げる。その顔は逆光で黒く塗りつぶされて表情は読めない。お願いだから嘘だと言ってくれ。しかし、願いとは裏腹にイルミは淡々と恐ろしいことを言ってのけた。
「子供が出来ればナマエに活用する価値があるって認めてもらえるだろうし。うん、そうしよう」
心臓がバクバクと鳴り響いて、背中は恐ろしいほどに冷えていた。
なけなしの力を振り絞って暴れるが、両手首を頭上でひとまとめにして押さえ付けられてしまう。そして、イルミの手が私の服の中に入り込んだ。
「っ……!!」
ひゅっと声にならない悲鳴がもれる。
本気だ。本気で、イルミは――。
(いやだ!)
こんなこと、耐えられない。これなら痛めつけられる方がずっとましだ。
だって、こんなことは知らない。これまでイルミには散々痛めつけられてきたけど、一度だってこんなことはなかった。
それは、私にとって何よりも恐ろしい未知だった。
やめて、と声に出そうとしても掠れた音しか出ない。なんとか逃げようと私は必死にもがいた。抗い続ける私に苛立ったのか、イルミは私の首筋に歯を立てた。皮膚を食い破る痛みに、ひくりと身体がひきつる。
――もう限界だった。
張りつめていた糸が、ついにプツリと切れてしまった。
「っ……」
目の奥がぐっと熱くなって、水の膜が瞳を覆う。一度決壊したらもう止められなかった。
「っ……ぅ……」
無性に悔しくて、惨めで……悲しくて。
とうとう私は小さな子供みたいに泣きじゃくりだした。
泣いたところでイルミを助長させるだけだと分かっているのに、意思とは関係なく涙が溢れてくる。生理的な涙とは違う、感情的な涙をイルミに見せるのは初めてのことだった。だから余計に見られたくなくて、両腕で顔を隠す。
ふと、覆いかぶさるイルミの体温が離れた。そして沈黙が訪れる。
私が泣いてるのが物珍しくて観察でもしているのだろうか。それにしては奇妙な空気を肌で感じて、おそるおそる目線をあげた。
涙で霞んだ視界に映ったのは、今までに見たことがないイルミの顔だった。
「ぇ……?」
イルミは、まるで新種の気味の悪い虫を見つけてしまった時のような表情をしていた。
(え、何その反応……)
てっきり嘲笑一色だと思っていたのに。予想外の反応にあっけにとられる私からイルミは目を逸らした。
「萎えた」
吐き捨てられた言葉にさらに目を瞠る。
それだけ言うと、イルミは立ち上がって部屋から出ていった。最後までこちらを振り返ることなく。
部屋に一人残された私は、唐突な展開についていけず暫くベッドの上で呆然としていた。
(助かっ、た?)
よく分からないが、イルミの気が変わったということだろう。私の泣き顔を見て。……よっぽど見るに堪えなかったということだろうか。
(いや、そんなことはどうでもいい。とにかく助かったんだ。よかった……)
頭の中でぐるぐるとまわる思考を追いやって、私は安堵の息を吐き出した。