終わらせたい物語
無慈悲にも朝はやってきてしまった。
一晩休んだおかげでどうにか起き上がれるくらいにはなっていたが、満身創痍であることに変わりはない。何より心が憔悴しきっていた。芽生えていた期待を粉々に打ち砕かれ、もはや己を奮い立たせる気力すら残っていない。
「ナマエ様、旦那様がお呼びです」
いつのまにか傍らに立っていた執事が、ベッドの上で打ち拉がれる私を見下ろしながら告げる。
シルバさんが……ということはつまりその場にイルミもいるのだろう。
『動けるようになったら父さんたちのところに行こう。オレたちの結婚の話をしないとね』
昨日のイルミの言葉がよみがえる。
本当にイルミと結婚することになるのだろうか。そうなってしまったら、もう二度と自由に生きることは叶わないだろう。それは底なし沼に足をとられたような絶望感だった。
もうイルミからは逃げられない。誰も助けてなんてくれない。私はどこまでも孤独で、どこまでも無力だった。
悲鳴をあげる体を引きずりながら執事の後をついていくと、談話室の前にたどり着いた。ここを訪れるのはシルバさんからキルアの同行を頼まれた時以来だ。あの時と同じくらいの緊張と、あの時とは違う絶望がずしんと胸にのしかかる。
執事が扉を叩くとすぐに「入れ」と低い声が答えた。開かれた扉の先には、豪奢なソファに腰掛ける三人――シルバさんとキキョウさん、そしてイルミの姿があった。
ごくりと唾を飲み込もうとして失敗する。緊張でうまく嚥下することすら出来ない。汗ばむ掌を握り込み、室内に足を踏み入れた。イルミが隣に座れと視線で命じてくる。逆らう気も起きず、大人しく隣に腰をおろした。シルバさんたちと向かい合うかたちになって緊張感がいや増す。強張った表情のまま動けずにいると、斜向かいに座るシルバさんが口を開いた。
「キルにやられたそうだな」
はい、と答えようとして喉に激痛が走り、痛みを堪えながら何とか頷く。そんな私の様子に反応を示したのはキキョウさんだった。
「うふふ、さすがキルね! 立派に成長してるわ!」
うっとりとした声色で息子への賛辞を披露され、思わず顔が引きつってしまう。
十年という月日の中でゾルディック家の教育方針は嫌というほど思い知らされてきた。今さら憤る気持ちも起きない。だけどやっぱり相容れないと思った。この一族の一員になるなんて、まるで想像できない。
「で、話の続きだけど」
割って入ったイルミの声に、肩がびくりと上下してしまう。
「オレはこいつと結婚するから。いいよね?」
無意識のうちに俯いていた。足元から冷気が駆け上がってくる感覚に目の前が暗くなる。
あぁ、もう終わりだ――。
「駄目よ」
はっきりと響いた声に思わず顔を上げた。目に飛び込んできたのは、真一文字に引き結ばれた赤い唇。キキョウさんの視線はイルミにだけ注がれていた。まるで私の存在など目に映らないかのように。
一方シルバさんは、常と変わらない威厳を湛えながらもどことなく苦笑まじりの笑みを浮かべていた。
「それを家に置くことは構いません。でも、結婚は認められないわ」
「なぜ」
イルミが端的に問えば、「当然でしょう!」とキキョウさんが気色ばむ。緊迫した空気が漂った。
「結婚は一族の問題よ。あなたはゾルディック家の長男としてしかるべき相手と結婚する義務があるの」
「相手なんてどれでも一緒だろ」
「まぁぁ! イルミ、あなた本気で言っているの!? あぁ嘆かわしい!」
ばちばちと火花を散らす二人の間に挟まれた私は、妙に冷静な頭で目の前の状況を整理していた。
(冷静に考えたら、あのキキョウさんがこんな馬鹿げた結婚に賛成するわけないか)
当然の決定であるかのようなイルミの口ぶりから、てっきり同じ考えなのだと思い込んでいた。
もともと私を快く思っていないのは知っていたけど、今回の件でさらにキキョウさんから嫌われたことだろう。しかし普段なら胃が痛くなるような敵意も、今は救いに思えてならなかった。
(このまま認められなかったら、イルミと結婚しなくて済む……?)
どくどくと動悸が早まる。とっさに胸をおさえると、視界に何かが飛び込んできた。
「そもそもイルミはその人を愛しているのかしら」
視線はイルミに固定されたまま、扇子の先が私の鼻先に突きつけられる。
何を言っているのか、一瞬、理解するのを脳が躊躇った。愛だの恋だのという類は、私とイルミからはあまりにも縁遠いものだったから。おそらくイルミも同じ気持ちだろう。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに「そんなわけないだろ」と吐き捨てた。
「だったらなおさら認めないわ」
ぴしゃりと。はたき落とす音が聞こえてきそうなほどの一刀両断。
これにはさすがに驚きを隠しきれなかった。
(あのキキョウさんが普通の親みたいなこと言ってる……)
愛がない結婚は認めないだなんて、殺伐としたこの家にはあまりにも不釣り合いな台詞だと思った。
「なにそれ」
イルミの声は地を這うように低い。思い通りにいかず苛立ちを抑えられないようだ。こっそりと横目で盗み見ると、どこか拗ねたような表情をしていた。
「そんなルール聞いたことないけど」
「これは家の規則じゃなくて母親として言っているのよ。それに……」
美しく縁取られた赤い唇が閉ざされ、はじめてキキョウさんの視線がこちらに向けられる。あまりの威圧感に目をそらしたくなるのを堪えながら言葉を待った。
キキョウさんはぱらりと扇子を開いて口元を隠した。優雅で隙のない仕草だ。見せつけるようなそれは、はっきりと境界線を引かれたようだった。
「こんなものを家に迎え入れるなんてぞっとするわ」
口に出すのもおぞましいと言わんばかりの物言いだった。
およそ十年、ずっとこんな扱いを受けてきたのだ。今さら落ち込みはしない。……だけど、どうしてだろう。心臓がぎゅっと握り込まれたような心地がするのは。傷つくはずなんてないのに、どうして。
理解できない心の動きに困惑していると、キキョウさんはさらに続けた。
「あなたはどうなの?まさか自分がイルミの結婚相手として相応しいとでも思っているのかしら?」
「っ……」
とっさに首を横に振ろうとしたが、隣から凍土にいるかのごとき冷気が放たれて身動きが取れなくなる。
「何とか言ったらどうなの?」
パチン、パチンと、キキョウさんが手に持った扇子を苛立ちのまま開閉する。早く答えろという圧が凄まじい。しかし答えようにもイルミから発せられる禍々しいオーラに動きを縛られてしまう。唐突な板挟み状態に全身から冷や汗がだらだらと流れた。
どんどん場の緊張感が高まっていく中、沈黙を打ち破ったのはシルバさんだった。
「ひとまずこの話は保留だ。イルミ、お前は少し頭を冷やせ」
シルバさんの一言で、二人の殺気が霧散していく。助かった、と私は内心で胸をなでおろした。
終始こちらの意見は無視だったけど、思わぬ方向で話が進んでくれた。もう駄目だと諦めていたが、まだチャンスはあるのかもしれない。
(やっぱり嫌だ。ここに居たら、きっと私はおかしくなる)
先ほどの不可解な感情を思い出して、唇を噛み締める。イルミのそばに居続けたらまともな心まで失ってしまうだろう。そうなる前にこの家を出なくては。そのためにはキキョウさんの存在が不可欠だ。冷たい指先をぎゅっと握りこんで、気力を奮い立たせた。
降って湧いた希望に気を取られ、私は気づいていなかった。イルミから、射殺しそうな目線を向けられていることに――。