苦い誓いとはじまり




 どこで間違ってしまったのだろう。
 キルアの思惑を見抜けず毒入りの水を飲んでしまったことか。それともイルミの賭けに乗ったことか。そもそも、ゾルディック家を出ようとしたことがはじめから間違いだったのかもしれない。
 混濁する意識の狭間で、何度も後悔した。でも、何もかもがもう遅い。私はイルミとの賭けに負けた。あの家から――イルミからは、もう逃げられないんだ。



 身体が熱い。苦しい。痛い。
 この世のありとあらゆる苦痛を凝縮したような感覚に蝕まれ、ひたすら苦しみ、もがき続ける。どれほどの時間そうしていただろうか。途切れ途切れに意識を取り戻していたが、その度に己の身を襲う壮絶な苦しみに耐えきれず気を失う。その繰り返しだった。極限の状態まで陥り、すべてを使い果たそうとした頃、唐突に苦痛が和らいだ。おそらく解毒剤を飲まされたのだろう。朦朧とした意識の中で、自分はまだ生かされるのだと悟った。


 次に意識を取り戻した時には、自分がどこにいるのか全く分からなかった。体の下は柔らかく、寝台かどこかに横たえられていることが分かる。

(生きてる……)

 どうやら命からがら生き延びたらしい。だけど、心はちっとも晴れなかった。脳裏に浮かぶのは、塗りつぶしたように真っ黒な二つの双眸。

「ぅ、っ……」

 わずかに身じろぎするだけで全身が痺れて、暫し呻いた。意識がはっきりしてるおかげで苦痛がまざまざと感じられる。昏睡状態のままの方がいくらかマシだったかもしれない。起き上がることは諦めて、ベッドに身体を投げ出す。回復に専念しようと霞んだ視界を閉じかけた時、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。

「起きた?」

 一気に意識が現実へと引き戻される。なんとか気力を手繰り寄せ、くぐもった声をあげた。

「イ、ルミ」
「あー良かった。死んだかと思ったよ」
「ここは……」
「オレの部屋」

 その言葉に息を呑んだ。まさかもう屋敷に連れ戻されていたなんて。つまり、いつ死んでもおかしくないような状態で大陸を渡ったというわけだ。その強行から、絶対に逃がさないという強い意志が感じられて、目の前が真っ暗になった。そして、さらなる絶望が突きつけられる。

「動けるようになったら父さんたちのところに行こう。オレたちの結婚の話をしないとね」

 結婚。イルミから発せられたその単語に、ぎょっと目を剥いた。
 ――あの夜、イルミが言った私の活用方法。てっきりタチの悪い冗談だと思っていたのに。
 信じられない気持ちでイルミを見上げる。視界がかすんで表情は窺えない。たまらない焦燥を覚え、必死に声を絞り出した。

「結婚って、本気?」

 こちらを見下ろす影がゆらりと動く。そして、冷笑が落ちてきた。

「お前も諦めが悪いね」

 まるで聞き分けの悪い子供を相手にするような声色だった。

「別にナマエを監視下に置けるなら手段は問わないよ。例えば、そう……死ぬまで地下牢に閉じ込めるとかね」

 淡々とした口調は冷たく、こちらの拒絶を許そうとはしない。イルミは本気で私の自由を奪うつもりだ。悪夢のような忌まわしい恐怖が現実であることを、私は認めざるを得なかった。

「ははは、嘘さ。そこまではしないよ。まあ、ナマエが逃げようとするなら話は別だけど」

 音を連ねただけの空々しい笑い声が耳に響く。もはや反応する気力は残っていなかった。

(あぁ……もう終わりだ……)

 絶望に打ちのめされる。そんな私を見て何を思ったか、イルミはとんでもない方向から爆弾を落としてきた。

「オレがナマエを抱けるか心配してる?」
「…………」

 一瞬、脳が停止する。まるで他国の言語のように聞こえた言葉をなんとか理解した途端、反射的に起き上がろうとしていた。全身全霊を込めて否定をするために。だが、身体は鉛のように重く、首さえ持ち上がらなかった。

(してない! そんな心配、微塵もしてない!)

 そう大声を出せたらどんなにいいだろう。実際は掠れた声を出すだけで精一杯で。歯痒い思いでイルミの方を睨みつけていると、ふいに目の前が暗くなった。密着する体で感じた重みと温度で、イルミが覆い被さっていることが分かる。突飛な行動に、否定の言葉は喉奥に引っ込んでしまった。

「……っ!」

 思わず腕を振り上げ抵抗しようとする。しかしその手はあっさりと拘束され、ベッドに縫い付けられた。そのままぐっと顔を近づけられ、心臓がばくばくと跳ね出した。

「多分お前相手でも出来るよ。気持ち悪いことには変わりないけど」
「っ……、はっ?」

 愕然としたのは一瞬。すぐに我に返って、露骨な侮蔑にカッと全身が熱くなった。

(こいつ、ぶっ殺す……っ!)

 組み敷く体から抜け出そうともがくが、拘束された手はピクリとも動かない。

「それは、こっちの、台詞だ……!」

 切れ切れの息の間から声を圧し出す。それだけで喉が焼けるように痛んだ。加えて、頭に血が上ったせいか吐き気と頭痛が伴ってやってきた。体に残る毒が猛威を奮っているのがわかる。
 イルミは苦しみ始めた私をじっと観察すると「解毒剤を飲ませるのが遅かったかな」と無感情にこぼした。

「ま、せいぜい死なないように頑張って」

 そう言い残すと、ふりかえりもせず部屋を出ていった。

「はっ、ぁ……うっ、ぐっ……」

 残された私はこみ上げる吐き気を必死に堪えていた。ここで吐いたら何を言われるか分かったもんじゃない。唇から血の味がしたが、構わず噛み締めた。

『気持ち悪いことには変わりないけど』

 さきほどイルミから言われた言葉が頭の中で反響する。まるで胸がちりちりと焼かれるようだった。そんな自分が信じられなかった。

(どうして、こんな……いや、違う。これは毒のせいだ。毒のせいでおかしくなってるだけだ……)

 襲いくる苦痛に思考が飲み込まれる。そしてふたたび意識を手放した。


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