高潔の鐘がなる




 扉を開けば、怒号のような、それでいて大きなうねりのような歓声に包まれる。控え室にいても会場の熱気と歓声は伝わっていた。けれど、いざこうして舞台に立つとまるで迫力が違っていた。
 意識的に呼吸を行い、高鳴る鼓動を抑えながら対戦相手に目を向ける。相手も同じく、今舞台の上に足を踏み入れたばかりだった。

「逃げなかったんだ」

 定規のようにまっすぐ背筋を伸ばしたイルミがこちらを見る。細められた瞳には意地の悪い光があった。上背があるぶんその威圧感はひとしおだ。
 ずっと、この目に怯えてきた。死を覚悟したことも一度や二度じゃない。この試合で、イルミとの因縁を断ち切るんだ。

「始め!!」

 試合開始を告げる審判の声とともに念を発動させる。しかし臨戦態勢に入る私とは対照的にイルミは微動だにしなかった。割れるような歓声に包まれる中、イルミの平坦な声がはっきりと聞こえた。

「キルとは仲直りできたかい?」

 場違いな問いかけに眉をしかめる。試合はもう始まっているというのにイルミは少しも身構える様子はない。余裕綽々の態度に腹が立ったが、感情を抑えて答えた。

「おかげさまで」
「そう。なら良かった」

 そう返すと、イルミは悠然とした足取りで近づいてきた。オーラを滾らせ攻撃に備えるが、あと一歩で間合いに入るというところで立ち止まる。

「どうしてオレがここまですると思う?」

 は、と瞠目する。何を言われたのか、一瞬、理解するのを脳が躊躇った。

(どうしてって……)

 それはずっと心に引っかかっていたことだった。どうしてイルミは私を引き止めようとするのか。これまでイルミから受けた仕打ちを思えば違和感でしかない。だけど、私はあえて深く考えないようにしていた。うまく言葉にできないが、底のない沼を眺めているような漠然とした不安だけがあった。

「分からないって顔だね」

 言葉につまる私をイルミが睥睨する。ぞわり、と不穏な空気が広がった。

「ナマエが拾われたあの日から、オレたちはずっと一緒に育てられた。なのにどうしてだろうね? お前だけが“歪んで”育ったんだよ」
「なっ……」

 歪んでいるのはどっちだ! そう言い返そうとしたが、こちらの言葉は耳に入っていないかのように遮られる。

「歪んだものは正しい方向に矯正してやらないとね。もう二度と家を出るなんて言い出さないように」
「なに、それ」

 イルミの言っていることがさっぱり理解できない。私を挑発したくてわざとおかしなことを言っているのだろうか。それにしては真に迫るものがあって、じわじわと冷や汗が滲んでいった。

「私はゾルディック家の人間じゃない。違っていて当然でしょう」
「はは、まだそんなこと言ってるんだ」

 イルミは嗤いながら言った。しかしその視線は変わらず鋭利に尖っている。

「そうやって自分は違うって顔してるのが気に食わないんだよ」

 言葉を失った。
 気に食わない。たったそれだけの理由で、私から自由を奪おうというのか。あまりの身勝手さに怒りがこみ上げてくる。しかし、それ以上に恐怖を覚えた。
 イルミと私の間には絶対的な隔たりがある。それを、イルミは気に食わないと言った。正しい方向に矯正してやると。イルミの本心に触れて、途轍もない恐怖がわきあがった。

(ダメだ! 絶対にあの家を出ないと……イルミのそばにいちゃいけない)

 焦りが募って、心なしか呼吸がしづらくなる。焦燥感に駆られるまま口を開いた。

「なんて言われようと私は、あの家を出る。そのために、イルミを」

 続くことばをうまく紡げなかった。凍りついたように喉も、舌も、唇も動かない。

「……っ」

 途端、かくんと右膝がかしいだ。どんなに力を入れても立っていられなくて片膝をつく。
 そこでようやく、自分の身に異変が起きていることに気がついた。

「はっ、はっ……」

 うまく呼吸ができない。視界は白く黒く、激しい明滅をずっと繰り返している。

「あーよかった。ちゃんと効いてるみたいだね」

 目の前に手がのびてきて、乱暴に顎をつかまれた。顔を上げさせられた先に、愉悦に満ちたイルミの瞳があった。早く立ち上がらなきゃ、と足に力を込める。しかし重心は定まらず、もう一方の膝も地につける羽目になる。

 ふいに、視界のすみで何かを捉えた。なんとか目線だけを上げると、観客席から見下ろすキルアが目に入った。その顔からは感情が抜け落ちていて、瞳はぞっとするほど暗い。

『ナマエの裏切り者』

 脳裏にキルアの声がよみがえる。喉を通ったあの冷たい感覚も。
 私は、とんでもない思い違いをしていた。許してもらえたなんて、あまりにも甘い考えだった。

「ぐっ、ぅ……!」

 いきなり腹の底から激しい痛みが突き上げてきて、私はとうとうその場に崩れ落ちた。胃袋がめくれあがる感覚に身悶える。イルミから何の手も下されることなく、敗北が決まった。

「さ、一緒に帰ろう。ナマエ」

 耳元で声を落としてささやかれた言葉の、どこか毒をはらむ甘さに喉の奥が凍りつく。

 ――ここからが、私にとって本当の不幸のはじまりだった。


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