暗夜の礫
目を覚ますと、ベッドの上にいた。
「ん……」
閉じた瞼越しに感じる眩しい光に、ゆっくりと意識が浮上する。寝起き特有の倦怠感に苛まれつつ目を開くと、ここ数日お世話になっている上質な羽毛布団に包まれていた。
(あれ、いつのまに寝たんだっけ)
寝ぼけ眼を瞬かせながらぼんやりと思考を巡らす。
たしか、昨日はキルアから逃げるために部屋に戻ってきて、そしたらイルミが訪ねてきて……。
「――っ!」
そこまで思い出して、ベッドから飛び起きた。
(そうだ、イルミに気絶させられたんだ)
慌ててあたりを見回したが、すでにイルミの気配はない。
「よかった、もういない……」
そう安堵したのも束の間、気絶する直前に見た光景を思い出して、はっと息を飲んだ。
――見下ろす温度のない瞳と、鈍く光る銀色の先端。
イルミに針で刺されたのだと自覚した途端、ざあっと全身から血の気が引いていった。
すぐさま布団を剥いで己の身を確認する。が、服に皺ができているくらいで目に見える変化は見つからない。ならば内側はどうか。全身のオーラを張り巡らせてイルミの痕跡を探る。特に頭のあたりは入念に。
しかし、これといった異常は見つからなかった。
「おかしい」
あのイルミが何の手出しもしてこないなんて。状況から見ても針の二本や三本、頭に埋め込まれててもおかしくないのに。
もしや、昨日の出来事はすべて夢だったのだろうか。
いや、そんな筈はない。昨夜、たしかにイルミはこの部屋を訪れた。そしてはっきりと「家を出るなんて認めない」と言ったんだ。今更になって野放しにできないとか言い始めて、挙げ句の果てに嫁がせるだの何だの……思い出すと頭が痛くなってくる。
『ここまで俺を煽った罰だよ』
最後に聞いたイルミの台詞が耳にこびりついている。
イルミの言う罰とは何なのか。不自然なほど何も起きていないこの状況が、嵐の前の静けさのように思えてならなかった。
(イルミは何を考えてるんだ……?)
長年かけて積み上げてきたイルミへの認識が大きく崩れた今、頼れるものはもう何もない。それはまるで暗闇の中に明かりも持たず放り出されたかのような恐怖だった。あてもなく暗闇を彷徨った先にはいったい何が待ち受けているのか……。
ベッドの上で膝を抱え体を縮こませる。目に見える脅威よりも、見えない脅威の方が何倍も恐ろしいのだと思い知った。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、何かの接続音が耳をついた。
音の出所を確かめるため顔を上げると、消していたはずのテレビの電源がついているのを見つける。不審に思うより先に、画面に映し出された文字が視界に飛び込んできた。
「な、にこれ」
画面の中央に大きく表示された『戦闘日決定』の文字。下には自分の名と、その横に見覚えのある名前が並んでいた。
「えっ?」
見間違いかと思い目を擦るが変わりはない。間違いなく、『イルミvsナマエ』と映しだされている。
「はぁ!? どういうこと!?」
ベッドから身体を跳ね起こし、テレビにかじりついた。勢いのあまりテレビが倒れそうになるが構っている余裕はない。
「申し込みしてないのに、どうして……!」
200階クラスに上がるとき、寝泊まりする場所は欲しいから登録だけはしたけど試合参戦の申し込みは断ったはずだ。なのに、どうして試合が組まれている? しかもよりによってあのイルミが相手だなんて!
「くそっ!」
居ても立っても居られず、部屋を飛び出した。
向かった先は、私が滞在するフロアの受付だった。勢いのままカウンターに手をつくと、ガラス越しのお姉さんがぎょっと目を丸くさせた。
「すみません! あのっ、あれはどういうことですか!」
受付に設置されたモニターを指差す。そこにはちょうど私とイルミの試合について映し出されていた。食ってかかると、お姉さんは綺麗に整えられた眉を歪ませた。
「どういうことと言われましても……」
「何かの間違いです! 試合を申し込んだ覚えありません!」
「はぁ。確認いたしますので少々お待ちください」
眉を顰めたままパソコンをいじり始める。その訝しげな表情は、キーボードを叩き終えた後も続いた。
「いえ、たしかに昨晩ナマエ様ご本人から参戦の申し込みがされていますが」
「そんな筈は……」
「受付のカメラで確認しましたが、昨晩ナマエ様が当フロアの受付カウンターにいらしているのが映っていますよ」
「ちょっと見せてください!」
「あ、ちょっとっ!」
受付ガラスの受け渡し口から手を突っ込み、パソコンをこちらに向かせる。画面には、確かに私らしき人物の姿が映っていた。だが、それが自分だとはどうしても思えなかった。
(――イルミだ)
きっと、針で姿を変えて私のふりをして申し込みをしたんだろう。確証はないが、妙な確信があった。
だが、その真意までは読み取れない。
(イルミのやつ、こんな回りくどいことまでして一体何が目的だ?)
考えに耽っていると、胡乱な目線を送っていたお姉さんが口を開いた。
「なら棄権しますか? ただしそうなるとイルミ選手の不戦勝という形になりますが」
「え……」
そうか、その手もあるのか。
イルミの思惑は気になるけど、今は目先の危機を回避するのが先決だろう。イルミと対戦なんて、真っ平御免だ。
「じゃあ、棄権で――」
「へー、それでいいんだ」
背後から響いた声に、条件反射で震え上がる。声をした方を振り向くと、予想通りの相手が立っていた。