因果のうつろい
無我夢中だった。気づけば、対戦相手がリング外で沈んでいた。
『ナマエ選手、200階進出ぅぅう!!!!』
アナウンスと同時に、割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がる。四方から降り注ぐそれを呆然と浴びながら、ようやく状況を理解した。
「やった……」
本当に200階まで来てしまった。込み上げる感慨に一瞬酔いしれる。だがすぐに我に返って、観客席をぐるりと見回した。
「キルア!」
盛り上がる観衆の合間で頬杖をついて座る姿を見つけて、思わず声を張り上げていた。あっちの試合はもう終わったのか。結果はどうなったんだろう。そわそわしながら見ていると、キルアが不貞腐れたように唇を尖らせた。その表情に一瞬不安を覚えるが、すぐに払拭された。
親指を立てて得意げに笑う姿に、ほっと胸をなでおろす。よかった。キルアも勝てたんだ。
――滞在七日目。今日はキルアが100階に上がれるかどうかが決まる試合があった。もちろん傍で見守る気満々だったのだけど、運の悪いことに自分の試合と丸被りしてしまったのだ。棄権してでも観戦しようする私を制したのはキルア本人だった。キルア曰く「ナマエが見てない方が実力出せる」らしく。そこまで言われたら引き下がるしかなくて泣く泣く諦めたけど、やっぱり無理矢理にでも観ておけばよかったと後悔した。だって私が見れるキルアの試合は今日で最後になってしまったから。
(これでお役御免か)
リングの上から二階席にいるキルアを見つめる。正直、キルアと離れるのは名残惜しい。もう少しだけここに残るのも有りかもしれない。
そんな考えが一瞬過るが、すぐに振り払った。もう決めたんだ。家を出るって……イルミから離れるって。
観客席を見たまま立ち尽くす私に痺れを切らしたのか、リング外に立っていた審判が近づいてきた。
「200階からは申告制試合だ。90日以内に対戦がない場合は登録が抹消されるので注意するように」
「わかりました」
もう試合はしないけどね。
審判からの忠告を聞き流し、キルアと合流するためにその場を後にした。
「いたたた」
さっきの試合で打ち付けた肩が痛む。折れてはいなさそうだけどこれは腫れそうだな。でも今は肩よりも胃の方が痛い気がする。
さて、試合に勝てたのはいいけれど本番はこれからだ。とうとう、キルアに打ち明ける時がきてしまった。
「はぁ……気が重い」
キルア、怒るだろうなぁ。何発か殴られるのは覚悟しといた方がいいかもしれない。いや、もしかすると半殺しにされるかも……。
悪い想像が膨むにつれてどんどん足取りも重くなる。しかし控え室までの距離は短く、どんなに歩調を遅らせても数分もしないうちに着いてしまいそうだ。
「あ」
選手の控え室の手前、受付ロビーのソファに見慣れた銀髪を見つける。キルアはまだ私に気づいていないようだった。ゴクリと唾を飲み込む。いよいよ覚悟を決めなければならない。さて、なんて言って切り出そうか。
そんなことで頭がいっぱいになっていたからすぐには気付かなかった。キルアの傍らに立つイルミの存在に。
「!?」
反射的に近くの柱に隠れた。
(どうしてイルミがここにいるんだよ!)
まだ距離があったからおそらく私の存在には気づかれていないはず。これは仕切り直した方がいいかもしれない。いや、でもキルアとここで落ち合う約束をしてるし、逃げるわけにも……。
「ッ……!!」
一瞬、心臓が握り潰されたかと思った。それくらい鋭い殺気が空間に広がったからだ。殺気に当てられて全身から冷や汗が吹き出る。この殺気には覚えがある。これは、きっと――。
いてもたってもいられなくて、その場から逃げ出した。
床板を踏み抜く勢いで廊下を横断し、慌てて部屋に戻った。気休めにしかならない鍵をかけて、その場に膝をついた。
「あれはやばい、やばすぎるって……!」
ロビーで感じた尋常じゃない殺気。あれは、キルアのものだ。
きっとイルミから私の話を聞かされたんだろう。想像をはるかに超えるキルアの怒りに全身が震え上がる。
甘かった。怒らせるとは思ってたけど、まさかあそこまでとは。あれは半殺しなんてものじゃ済まない。
「どうしよう」
いっそこのまま逃げてしまおうか……いや、ダメだ! そんな別れ方したら二度と会えなくなってしまう。こんな形でキルアとの繋がり終わらせたくない。でも、じゃあどうしたら。
(考えろ、考えるんだ)
扉の前でしゃがみこんで頭を抱えるが一向にいい案は思いつかず。そうこうしているうちに、頭上から容赦のないノック音が響いた。
きっとキルアだ。今開けたら、殺される気がする。やっぱり一旦逃げてキルアの怒りが鎮まるのを待ったほうが……。
「ナマエ。いるんだろ?」
「え」
扉越しに聞こえた声は、予想していた人物のものじゃなかった。
「イルミ?」
「や。ちょっといい?」
なぜ、イルミがここに。てっきり怒り狂ったキルアが突撃しにきたとばかり…。もしかしてキルアと一緒になって私を懲らしめにきたのだろうか。しかし、扉の向こうにはイルミの気配しか感じられなかった。ますます分からない。いったい何しにきたんだろう。
考える間も与えられず、さっきよりも強めにノックされた。
「入っていいか聞いてるんだけど」
「えっと」
「何? 都合の悪いことでもあるわけ」
「そういうわけじゃないけど……」
「なら開けてくれる。それともぶち破られたいの?」
淡々とした声に苛立ちが混じるのを感じて、咄嗟に施錠を外してしまった。
――その軽率な行いを、私はのちに深く後悔することになる。