茨の呪縛




 闘技場へ滞在し始めてから早三日。衝撃的な初日を終えてからは、思いがけず平穏な日々を送っていた。
 はじめはイルミの変化に戸惑うばかりだったけれど、慣れてしまえばどうってことはない。むしろ殺気を向けられない日々の気楽さにどんどん染まっていく一方で。どんな酷い目に遭わされるかと憂いていたのが遠い昔に感じられるほどだった。
 
 おかげでこの三日間はキルアの試合観戦に存分に集中できた。ついでに、自分の試合にも。ここではよっぽど重傷を負わない限りは次々に試合が組まれる仕組みなっている。血なまぐさい争いは好きじゃないけれど、ファイトマネー目当てで試合を続けていたら、いつのまにか200階を目前に控えていた。七年前は150階に到達するのも半年以上かかったというのに。どうやら、気付かないうちに随分と鍛えられていたらしい。人間離れした人たちに囲まれていたせいで気が付かなかった。

 己の実力を知れるいい機会になったし、今後の生活資金も稼げたし……最悪だと思っていたこの旅もなかなか悪くないのかも、なんて。なんともお気楽な思考に至る私とは対照的に、キルアは盛大にへそを曲げていた。

「あー! クッソー!」

 100階クラスをクリアした時から与えられた個室に悪態が響き渡る。振り返ると、ふてくされた顔でベッドに胡坐をかくキルアがいた。

「マジで面白くねー」

 文句をこぼしながら、ガラガラと音を立ててチョコロボ君を空になるまで口に放り込んでいる。その頬には痛々しい傷があった。昨日の対戦でつけられた傷だ。
 初日の試合で50階まで進出したキルアの快進撃は80階を迎える直前でストップした。二日かけてなんとか90階まで進めたが100階クラスへの壁は厚く、そこからなかなか上がれずにいる。機嫌が悪いのはそれが原因だ。

「まあまあ、今日の試合もかなり惜しかったし明日には勝てるって」
「……なんかウゼー」

 素直な感想を伝えたつもりだったけど、今のキルアには火に油だったらしい。じろりと睨みつけられてしまう。

「イル兄はしょうがねーけど、ナマエに負けてると思うとすっげーヤダ」
「なっ!」

 あまりの言い分に軽く絶句する。

「ちょっといくらなんでも私のことナメすぎじゃない? これでもキルアより十個も上なんだからね」
「ナマエのくせに年上ぶんなし」
「実際年上だし!」

 ぎゃいぎゃいと軽口を叩き合いながら、内心ほっと胸を撫でおろしていた。
 長かった冷戦期間が終わり、ようやくキルアが口をきいてくれるようになった。まだ口調に険は残るけれど、ちょっと前までの超絶塩対応と比べたらどうってことはない。むしろ可愛く感じるくらいだ。気まぐれな少年にだいぶ振り回されている自覚はあるけれど、とにかく今は安堵の気持ちでいっぱいだった。

 でも、まだひとつ問題が残っている。キルアの機嫌を一気に急降下させるであろう大きな問題が。

(家を出ること、いつ伝えよう)

 イルミの呪縛から解き放たれた今、主な懸念事項はそれだった。伝えなくちゃとは思うのだけれど、なかなかタイミングを掴めずにいる。
 いや、本当はただ単に言い辛いだけだ。自惚れかもしれないけど、この前の比じゃないくらいキルアは激怒する気がする。せっかく機嫌を直してくれたキルアをまた怒らせたくない。一緒にいれる残り少ない時間は仲良く過ごしたい。そんな自分勝手なエゴが口を重くさせていた。

「なーナマエ」

 拗ねた口調のまま呼びかけられる。八つ当たりが続くかと思いきや、話は思わぬ方向へと転んでいった。

「イル兄となんかあった?」
「え」

 突然イルミの名前を出され、思わずたじろぐ。

「何かって、どうして?」
「だって変だから」

 ズバッと切り捨てられる。

「あのイル兄がナマエと普通に話してることがまずありえねーし。ぶっちゃけ気味悪い」

 キルアの言う通りだ。これまで散々啀み合ってきた二人が急に普通に話してるんだから、それは奇妙な光景だろう。
 ここ数日のイルミの様子を思い出す。向けられる無機質な視線。当たり障りのない言葉。抑揚のない、感情の欠落した声。そのすべてが、私への無関心を物語っていて。

(まただ)

 胸焼けしたときのような気持ち悪い感覚が広がっていく。あの日からずっと、心の奥で黒いもやもやががうずを巻いていて、こうしてふとした折に顔を出していた。

(でも、こんなの今だけだ)

 この三日間で考え抜いた結果、このもやもやは一時的な感情のバグだと結論づけた。長い間、非日常に晒され続けたせいで生じた弊害。もうずっと前から、あの底抜けに真っ黒な瞳が恐ろしくて仕方なかった。あんな恐ろしいものがさらに殺気を帯びて向けられるのだから、たまったもんじゃなかった。でも、長い年月を過ごすうちにそんな日々にもすっかり慣れ切ってしまっていて。そのせいで、急な変化に混乱して感情を取り違えてしまったんだ。
 きっと、すぐ気にならなくなる。これは誤った感情なのだからだ。こんなものが正しいわけがない。こんな――みたいな感情が、私の本心のはずが……。

「ナマエ!!」

 耳元で響いた大声に、目をしばたたいた。急に現実へと引き戻されたような感覚に陥る。

「なにぼーっとしてんだよ」
「あ……ごめん」

 キルアの視線が探るようなそれに変わる。まずい。変に間をあけたせいで疑われている。

「えっと、イルミの様子がおかしいって話だよね」
「そーだよ。お前、なんかしたの」
「いや、別に……あれじゃない? 久しぶりにキルアと一緒に出かけられてイルミも浮かれてるんじゃないの?」
「はぁ?」

 我ながら適当なことを口走っている自覚はある。案の定、キルアから思い切り怪訝な顔をされた。それでもペラペラと回る口は止まらない。

「イルミってもともと何考えてるかよく分からないし、今回もただの気まぐれでしょ。そもそも前が異常だったんだって。こっちに来てまで目の敵にするのは面倒になったんじゃない?」
「ふーん」

 納得しているのかいないのか、微妙な反応を返された。薄っぺらい言葉で誤魔化している自分に嫌気が差す。今が打ち明けるチャンスだったのかもしれない。でも、このタイミングで伝えるのはどうしても憚れた。そんな自分がますます嫌になってくる。

(やめよう)

 深く考えたら負けだ。おかしいのは今だけ。あの家を出ればきっと、まともな感覚を養える。
 そう何度も自分に言い聞かせながらろくでもない思考に無理やり蓋をした。


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