毒で育ったその感情
『876番・1271番の方、Dのリングへどうぞ!』
スピーカー越しの声が会場に響き渡る。同時に、座席を振動させるほどの歓声が一斉にわき上がった。一同が注目するのは中央に設置されたリング。等間隔に並べられたその上で、いくつもの試合が並行して行われていた。
今、私は天空闘技場にいる。
七年ぶりに訪れたこの場所は昔と何一つ変わっていない。ただあの頃と違うのは、自分が観客側にいることだった。
七年前にここを訪れた時は、私もリングに立って戦う側だった。修行の一環としてイルミとミルキと共に放り込まれ『行けるところまで行け』というシルバさん命令のもと、訳も分からず目の前の敵と戦った。自分よりも何倍も体の大きい相手に殴られ、蹴り飛ばされ、逃げ出そうと思ったことも一度や二度じゃない。けれど、逃げたら殺されると思い込んでいた当時の私は、とにかく死にたくない一心で戦い続けた。そうこうしているうちにシルバさんから帰宅命令が下りて屋敷に戻ることになったのだけど。
リングの上で争う参加者たちを眺めながら、当時の思い出が次々に頭を過ぎった。しかし、感傷に浸る余裕はない。
いま私は、あの頃の強烈な記憶を凌駕するほどの異常事態に直面しているからだ。
「ここはまったく変わってないね」
「う、うん」
「オレたちが来たのって確かキルが生まれる前だっけ」
「たぶん七年前かな」
「へーもうそんなに経つのか」
熱気に包まれた観客席の片隅で、隣り合って座ったイルミと言葉を交わす。なんてことない普通の会話だ。端から見ればなんの変哲も無いやりとりだろう。
でも、私たちにとってはまったく普通じゃない。
「あ、キルの番だね」
視線を落とすと、リングの一つにキルアの姿があった。その向かいには下卑た笑みを浮かべた大柄な男が立っている。体格の差は歴然で、観客席から幼いキルアを揶揄する声がしきりに上がっていた。
「それでは、始めっ!!」
審判が開始の合図を出した瞬間、キルアは敵の背後へと回った。対する男は後ろに立たれたことにも気づいておらず、目を白黒させている。あ、これは一瞬で終わるだろうな。そう思った時には、ガラ空きの背中に痛烈な蹴りが入れられていた。ノーガードで蹴りを受けた巨大な体躯がその場であっけなく沈む。
あまりに一瞬の出来事で、煽り立てていた観客が一瞬静まり返る。だが次の瞬間には盛大な歓声が轟いた。
「1413番、50階への入階を許可します!!」
審判が高らかに宣言する。予想を大きく裏切る展開に観客は興奮しきりだった。遠目に見えるキルアは当然とばかりに鼻を鳴らしている。そんなキルアの姿を追いかけるイルミの目がまるでフリスビーのように丸くなるのがわかった。
「へえ、いきなり50階か。やるね、キル」
「……」
「でもまだ動きに無駄が多いな。あとで直してやらないと」
相槌を打つべきが迷って、結局黙り込む。それでもイルミはつらつらと話し続けるものだから、どうしていいか分からなくなった。
(ほんと、調子狂う)
眼下のキルアがこちらに向けてVサインを送ってきたのを、力なく手を振ることでなんとか応える。ごめんよキルア。試合に集中できない私を許してくれ。
なんとも気まずい飛行船での移動時間を乗り越え、ようやく闘技場についてからのイルミは、はっきり言って『おかしい』の一言に尽きた。
キルアの受付を済ませ、そそくさとその場を離れようとしたところをイルミに呼び止められた。ここまでは飛行船に乗った時と同じ。まだいびり足りないのかと嘆き、ふたたび針のむしろ状態になることを覚悟したけれど、予想に反してイルミは何もしてこなかった。嫌味を飛ばしてくることも威圧的なオーラを放つこともない。ただただ隣に座ってるだけ。正直、拍子抜けだった。何もしないのならどうして隣に座らせたのだろう。監視でもしてるんだろうか。
そんなことを考えていると、不意にイルミが話しかけてきたのだ。
問い詰めるわけでも怒りをぶつけるわけでもなく、いたって普通の調子で。あのイルミが。目が合うだけで舌打ちし、眉を顰め、下手すりゃ殴りかかってくるのがデフォルトだったあのイルミが、だ。にわかには信じられなくて、一瞬、自分が別の人間に成り代わった錯覚に陥るほどだった。
一体、どうしたというのだろう。
殺気を向けられるのは慣れている。だけど、こんな風に話しかけられたことは未だかつて一度もない。まるで深い森の中で方位磁石を持たずに放り出されたような不安と恐怖に駆られた。こんなことなら、嫌味を言われた方がよっぽど分かりやすくていい。
おそるおそる横を見ると、イルミはいつもの無表情で何処ともなく眺めていた。こちらの不躾な視線に構うこともない。いつもなら、ここで「なにじろじろ見てるの殺すよ」の一言くらい飛んできてもおかしくないのに。……まるで、何も気にしてない、みたいな。
その無機質な瞳を見て、ゾルディック家に来たばかりの頃の様子を思い出した。私のことなんてまるで見えていなかったあの頃のイルミ。その姿を思い出し、一つの結論に辿り着いた。
(……そっか。私のことなんて、もうどうでもいいのか)
イルミが私を気にしていたのはキルアに悪影響になり得る存在だったから。その邪魔者が家を出ると分かった以上、もう気にかける必要はないのだろう。それならこの態度にも納得がいく。もともと、私自身には何の興味もないのだから。私は、イルミにとってただの有象無象に戻ってしまったんだ。
その事実に気付いた途端、胸の奥が淡く痛んだ。同時に、愕然とした。
来る日も来る日もイルミからの解放を願っていたというのに。いざそうなったらまるで傷ついたような気持ちになるなんて。自分の感情が到底信じられなかった。
(相当毒されてるな)
こんなの、まともじゃない。イルミにいびられ過ぎていつの間にかおかしくなってしまったのだろうか。
自分自身が信じられず、ショックのあまり頭を抱えそうになったところで、不意にイルミが立ち上がった。
「オレの番だね」
いつのまにかイルミの番号が呼ばれていたらしい。こちらの動揺など露知らず、イルミは涼しい顔でリングを見下ろしていた。
今回の同行では、キルアのついでに私たちも参加の登録をしていた。言い出したのはイルミだ。まあ暇だし、100階まで行けば個室も貰えるし、特に断る理由もないから了承したのだけれど。
「じゃ。先行くから」
そう言い残し、去っていく後ろ姿をつい目で追ってしまう。
もう、あの目に捕らえられることはないのだろう。私はイルミの世界から排除された。喜ばしいことだ。何よりも望んでいた、はずなのに……。
「あーっ! もう!」
胸をせり上がる何かを吹き飛ばすように、頬を両手で思いっきり挟んだ。ばちん、という鈍い音が喧騒に紛れる。
(しっかりしろ。正気に戻れ私。辛かった日々を思い出せ!)
ぐらぐらと揺らぐ思考を正すようにもう一度頬を打つ。それでも雑念が触れ払えなくて、何度もなんども同じように繰り返した。
そうしているうちに、観客席に戻ってきたキルアに真っ赤に腫れ上がった頬を見られて大笑いされることになるのだけれど、胸にこびり付いた感情はいつまでも消えることはなかった。