ぼやける君の輪郭
「出ていく、だって?」
数秒の沈黙の末、返ってきた反応は、冷やかを通り越して氷のようだった。
「なにそれ聞いてない。どういうこと?」
あからさまに苛立った口調にぎくりと震える。さっきまでのネチネチとした嫌味ったらしさとは違う。イルミを纏うオーラがどんどん異様なものになっていって、額から冷や汗が滲んだ。
「え、と……その、この前シルバさんと話して……今回の同行を最後にこの家を出るっていう話で」
「は?」
反射的に身が竦む。あまりの剣幕に周囲の空気がビリビリと震えた。
(なんでマジギレ!?)
困惑しきる私にかまわず、イルミはさらに畳み掛けた。
「誰の許可を得てそんなこと言ってるのさ」
「一応、シルバさんには許可もらってる」
「オレは聞いてないって言ってるんだけど」
「……」
なんだそれ。イルミの許可なく決めたのが不服ってこと?
「イルミに話してなかったのは悪かったけど、でも、もう決めたんだ」
おそるおそる切り出せば、イルミの双眸がすうっと細められた。まるで鋭利なナイフを向けられたような錯覚に陥る。
「ふぅん。ナマエは家を出たくないんじゃなかったの」
「え? そんなこと言ったけ?」
「言った。この家を追い出されるのは勘弁してほしいって。自分が言ったこと、もう忘れた?」
言われてみれば、そんなことを口走ったような気もする。たしか、数年前にイルミを怒らせて殺されかけた時だっけ。首を絞められたインパクトが強すぎて忘れていた。
(どうして、イルミがそんなことを覚えているんだろう)
疑問と同時に、覚えのあるザワつきが胸に蘇った。細かい会話の内容は思い出せないけど、最後に心の底をよぎった空恐ろしさだけはしっかりと覚えている。あの時、見ないふりをした何かが再びチラついて、みぞおちのところがズキズキと痛みはじめた。
「言ったかもしれないけど」
「かもじゃなくて言ってるから」
「……たしかに前はそう言ったけど! でもあの頃と今じゃ違うよ。考え方も色々変わったし」
「今とは違う? はは、お前なに言ってるの」
イルミは笑った。楽しくて笑うんじゃない、相手をとことんみくだしたイヤな笑い方だった。
「お前はなにひとつ変わっちゃいない」
ぴしゃりと切り捨てられ、目を瞠る。
「なにそれ。何でそんなことイルミに言われなきゃなんないの」
「オレは事実を言ってるだけだよ。お前はあの頃から何も変わってない。家を出るっていうのも単なる思いつきで言ってるだけだ」
「は……はぁ?」
あまりに強引な言い分に呆れてしまう。どうしてここまで全否定されなきゃいけないんだ。さすがに言い返そうとするが、反論を制するようにイルミの声が低く落とされた。
「じゃあ、言ってごらん? あの頃となにが違うのか。今ここですべて」
暗く澱んだ瞳に捕えられ、言葉につまる。
「どうした?」
――ほら、言えないだろう?お前は昔からずっと変わってない。これからも変われやしないんだよ。
そんな洗脳めいた視線に、ひやりとしたものが背を這う感覚を覚える。じわじわと追い詰められているような、このままじゃ取り返しのつかないところまで引きずり込まれてしまいそうな……。
「……っいや、いやちょっと待って! 色々おかしいから!」
絞り出した声はもはや叫びに近い。このまま黙っていたらイルミのいいようにされてしまいそうで、必死に声を張り上げた。
「冷静に考えてよ! 私が出て行く方がイルミには好都合でしょう!? 私のことは邪魔で仕方ないんじゃなかったの?」
キルアが生まれてからずっと、鼓膜にこびり付くぐらい言われ続けてきた台詞だ。忘れたなんて言わせない。
場を支配するイルミの怒気が一瞬だけ揺らいだ。その隙をついて、一気にまくし立てる。
「キルアに悪影響な邪魔者がやっといなくなるんだよ? イルミにとっては願ってもないことじゃない。喜ぶならまだしも……イルミの反応はどう考えてもおかしいよ!」
渾身の叫びをぶつけた途端、イルミはまるで発条が切れた人形のようにピタリと停止した。
「……」
唐突に沈黙が降りて、私の荒い息遣いだけが広間に響く。
「…………オレは、喜ぶべきなの?」
今度はたっぷり三十秒。長い沈黙を終わらせたのは素っ頓狂な問いだった。
まるで、オレは人間なの? と尋ねるかのようにこちらを見ている。こくこくと頷けば、イルミはひどく無防備な顔つきになった。虚を衝かれたみたいに目を丸くしてる。かと思えば、今度は不可解そうに眉を寄せて首を傾げてみせた。
(あのイルミが百面相してる)
ひどく珍しい光景に釘付けになっていると、ふっとイルミの顔から一切の表情が抜け落ちた。
「そっか」
腑に落ちたようにそう呟いたかと思えば、イルミはさっきまでの様子が嘘みたいに落ち着いてしまった。
対する私はというと、そんな急激な変化に対応できるはずもなく。
(なんなの一体……)
途方に暮れるって、まさにこういう心境を言うのだと思う。
よく分からないけど、とりあえず脅威が去ったことだけは分かる。途端に、どっと疲労感が押し寄せてきた。このままソファに突っ伏してしまいたい。
ちらりと前方を盗み見れば、イルミはもうすっかりいつもの無表情に戻っていた。……いつものイルミ、のはずなのに。まるで知らない人間のように見えるのは何故だろう。
歪んでいる男だということは身に沁みて分かっていた。だけど、イルミが持つ歪さにはある種の芯があって、その確固たる歪みっぷりには妙な安心感すらあったほどだ。
なのに、一体どうしたというのだろう。家を出ると告げた途端に血も凍る殺気を向けられて、私が十年間で築き上げてきたものが土台からひっくり返されてしまった気分だった。
(いや、深く考えるのはやめよう。考えてどうにかなるものでもないし)
もしも、この先もあの家で過ごすのであれば、いずれはイルミの心情を知る機会があったのかもしれない。でも、私はもうすぐゾルディック家を出る。イルミと面と向かって話すのも、きっとこれが最後になるだろう。
もう藪蛇をつついて下手な揉め事を起こしたくない。この一週間はイルミと接しないようにして波風立てずに過ごそう。
そう決意したけど、またしても立ち去るタイミングを逃した私は、結局、飛行船が到着するまでの数時間をイルミと過ごす事となった。