束の間の休息
地下の拷問部屋から解放されて三日。
イルミに折られた肋骨を庇いつつ足を踏み入れた場所は、ゾルディック家の書庫と呼ばれる場所だった。
(やった、誰もいない)
数え切れないほどの書物が収められているこの洋館は、本邸からかなり離れたところにあった。訪れる者は少ない。
この場所には、イルミから目をつけられていた頃によく逃げ込んできていた。さすがに最近じゃ四六時中監視されるなんて事は無くなったけど、そんな生活を長く続けたせいで今でも他人の気配には敏感なままだった。大勢の執事が行き来する本邸じゃ気が休まる時がない。だから、どうしても一息つきたい時にはこの閑散とした洋館にくるのが常だった。
だけど、今日ここに足を運んだ目的は別にある。
「えーと、確かこっちに……」
本棚の列をいくつも通り過ぎ、暗殺以外の本が乱雑にとりまめられた棚にたどり着いた。不規則に並べられたそれを上から順に視線でなぞる。情報量の多さにクラクラしつつ、やがて一冊の本が目にとまった。
「あった」
たいした厚みのないそれを手にとる。表紙の端には思い切り折り曲げられた跡があった。本全体も湾曲している。丁重に扱われていなかったのは一目瞭然だった。
そんなボロボロの本だけど、手にした途端に胸が高鳴った。
(はやく読みたい)
気持ちをはやらせながら踵を返した瞬間、バタンと扉が開かれる音が響いた。
「誰かいるのかよ」
不機嫌丸出しの声が耳に届く。姿は見えないけど、その声で誰が来たのか一発で分かった。
(せっかく独り占めできると思ったのに……)
ガックリと肩を落とす。きっと相手も同じ気持ちで機嫌が悪いのだろう。
さっきまでと一転した重い足取りで歩を進める。近づくにつれて不機嫌なオーラが強くなるのを感じつつ入り口に戻ると、そこには顰めっ面のミルキが立っていた。
「どうも」
「チッ」
顔を見るなり舌打ちされた。この野郎。マナーがなってないぞ。
恨みがましい視線を送ってみるが完全スルー。ドスドスと盛大な足音を立てながら本棚の方へと行ってしまった。
ミルキの登場にさしたる驚きはない。過去にもこの場所で鉢合わせたことがあったからだ。
(また抜け出してきたのかな)
どうやらミルキは訓練をサボってこの場所に逃げ込んできているらしい。数年ほど前からあの訓練という名の拷問に参加しなくなったからあくまで人から聞いた情報だけど。ちなみに情報源はゼノさん。最近のミルキは暗殺道具の開発に嵌まり込んでしまって、戦闘の訓練にはめっきり参加しなくなったとゼノさんが嘆いていた。気苦労が絶えないなゼノさん……。
ミルキは手近にある棚の本を一斉に掻っ攫うと、閲覧用の机の上に乱雑に放った。そしてどこからか取り出した菓子を物凄い勢いでかっ込み始める。なんだか、溜まった鬱憤を発散するような荒々しさだった。
(なんか今日のミルキ、めちゃくちゃ機嫌悪くないか?)
私の前じゃ常にキレてるイメージだけど、今日は一際虫の居所が悪そうだ。これは早々に立ち去った方がいい。触らぬ神に祟りなし。
背を向けてこそこそと立ち去ろうとしたが「おい待て」と鋭い声に呼び止められてしまった。
「え、わたし?」
「お前以外誰がいるんだよ。そこ座れ。」
「えっ! いや、ちょっと今から用事が……」
「下手な嘘つくな! いいから座れ!」
大声で怒鳴られて、渋々近くにあった椅子に腰かける。
ミルキはじっとこちらを睨みつけていた。ただでさえつり上がった目をさらに鋭くして、唇をひん曲げている。嫌な予感しかしない。
「お前、キルのことも怒らせただろ」
「あー、よくご存知で……」
「そのせいでキルから八つ当たりされたからな」
「マジですか……」
怒りの原因が自分にあることを知って、冷や汗が背を伝う。
まずい。ついこの間イルミを怒らせたことでミルキから責められたばかりなのに。これは相当ネチネチ言われそうだ。
「ほんといい加減にしろよ。そんなに僕たち兄弟を怒らせたいのか?」
「いやキルアに関してはそんなつもりはなかったんだけど」
「そんなつもりはない? じゃあ何であんなに不機嫌なんだよ。こっちはとばっちり食らって大変だったんだからな!」
「それは大変申し訳ないと言いますか……」
「薄っぺらい謝罪はいいから早くどうにかしろ!」
ミルキは怒りが抑えられない様子で机を叩きつけた。
どうにかしろって言ったって。どうしたらいいかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。
「私だってどうにかしたいけどさ、謝っても全然許してくれないだもん。なんであんなに怒らせちゃったのかもよく分からないし」
「はぁ?」
怒りに満ちた目が一瞬虚を衝かれたように大きく見開かれる。そして、救いようのないバカを見る目に変わった。
「お前……バカだバカだとは思ってたけど、そこまでか……」
「いや本当に訳わからないんだって! イルミのこと嫌いかって聞かれたから答えただけなのに、急に怒り出しちゃって……」
「お前それなんて答えたんだよ」
「嫌いだって言ったけど」
「それでなんでキルが怒るんだよ」
「知らないよ! 理由聞いても教えてくれないし」
なんだか泣きたくなってきた。キルアはこの家で唯一まともに話せる相手なのに。無視されるのは正直かなり辛い。
困り果てた様子の私を哀れに思ったのか。それとも呆れかえっているのか、ミルキは引きつった表情のまま言葉を失っていた。おそらく後者の理由が原因だろう。
「はぁー……」
これみよがしな重いため息を吐かれる。そして、ミルキから思いがけない言葉を掛けられた。