嫌いの裏側




「あ、いたいた」

 ふわふわと綿毛のような髪を揺らしながら姿を現したのはキルアだった。

「よ、よかった……」

 あの悪魔が戻ってこなくて。本当に。
 最悪な予想が外れてくれたことにほっと胸を撫で下ろす。同時に、体中の血が一気に抜け落ちるような感覚に襲われた。脱力感が半端じゃない。
 そんなヘロヘロな状態の私をみて、キルアは不満げに口を開いた。

「つまんねー! 寝てたら水でもぶっかけてやろうと思ったのに、もう起きてんだもんなー」
「いやそれ既にミルキにやられてるから」
「げっ! ブタ君と被るとか最悪じゃん!」

 気分ワリー! と悪態をつくキルアを前に、深い深い溜息がもれた。

(ついこの間まで涙ぐんで心配してくれてたのになぁ……)

 もうすぐ六歳になるキルアくんにとって、この光景はよくある日常の一コマと化してしまったらしい。それどころか最近は悪戯を仕掛ける余裕まで出てきているのだから恐ろしい。

(それでも、助けに来てくれたことには変わりないか)

 なんだかんだ毎回探しにきてくれるから、きっと本心では心配してくれてるんだろう。最近は生意気な態度ばかり取られるけど、根は優しい子だし。

「まあ、イタズラが目的だとしてもキルアが来てくれて助かるよ。ありがとう」
「べつにぃー」

 素直に感謝の意を伝えると、そっぽを向かれてしまった。だけど髪の隙間から覗く小さな耳が赤くなっているのが見てとれた。こういうところは可愛いんだけどな。
 微笑ましく眺めていると「ニヤニヤすんなばーか」と悪態をつかれた。訂正。やっぱり可愛くない。

「とりあえずこれ外してもらってもいい?」

 ジャラジャラと鎖で繋がれたままの手足を顎で指した。こんなのも外せねーのかよっていう視線は無視しておく。
 頑張れば自分でやれなくもないけど、もう疲れ果てたからこれくらい甘えさせてほしい。

「しょうがねーなー!」

 キルアは右手を鋭く変形させ、腕を振り下ろした。途端に、鉄製の鎖がすっぱりと切断されてしまう。そのあまりの切れ味の良さに息を呑んだ。
 たしか、肉体操作はつい最近教わったばかりだと言ってた筈なのに…。

「ほんと、キルアって凄いよね。もう自分のものにしちゃってるんだもん」
「は? ふつーだろこんなの」
「いやいや普通じゃない。普通の人はそんな簡単に肉体操作なんて出来ません」
「ふーん? 普通のやつって大変そー」
「そうだよ。普通の人間はね、この家で生きていくだけでも死ぬほど大変なんだから」

 この家に居候して早十年。その間に何度ゾルディック一族の規格外さを思い知らされただろう。そして同時に、どれだけ辛い目に遭ってきたことか。
 そこでふと、もう一人の規格外の顔が頭に浮かんだ。

「ねえ、イルミってもう帰ってきてる?」
「イル兄ならまだ仕事。今日は帰ってこないってさ」
「えっ本当?」

 これは朗報。とりあえず、今晩はイルミの来襲に怯える事なくゆっくり眠れそうだ。
 鬼の不在に諸手を挙げて喜んでいると、キルアから冷ややかな眼差しを向けられた。

「どんだけ喜んでんだよ。さすがにイル兄ももう気が済んでるって」
「甘い。甘いよキルア。あんたはあの男のしつこさを分かってない」

 あの男がどれほど粘着質で執念深い人間か。十年間で思い知らされたイルミの気質を懇々と説き諭すが、キルアはどこか上の空だった。

「ちょっと聞いてる?」
「なあ、ナマエってイル兄のこと嫌い?」
「んんん?」

 なんだその質問。
 予想のはるか斜め上からの問いにしばし固まる。そうしているうちに、焦れたキルアがさっさと答えろとばかりに距離を詰めてきた。思わずたじろぐ。

「嫌いか、って……」

 まさか改めてこんな事を聞かれるとは。
 ぐるぐると思考が巡るうちに、嫌でもイルミの顔が頭に浮かんだ。その瞬間、背筋にぶるりと震えが走る。

「……嫌いっていうよりは、恐ろしいって感じかな」
「ふーん? 嫌いとはちげーの?」
「そんなに違わないけど……なんていうか、嫌いって言えるほどイルミのこと知らない、かも」

 咄嗟に口をついて出た言葉に自分で驚く。同時に、なんだか妙に腑に落ちてしまった。
 幼い頃から同じ家で暮らしてきたけど、私にとってのイルミはヘマをすると襲ってくる危険生物のようなものだ。恐怖の対象ではあれど、嫌いという感情を抱けるほど身近な存在ではない。
 そのことを伝えるとキルアはどうでもよさそうに「ふーん」とだけ返してきた。けど、どこかホッとしているように見えたのは私の気のせいだろうか。

「ていうか、どうして急にそんなこと聞いてきたの?」
「べつにー? イル兄がナマエのこと嫌いだって言ってたから、ナマエも同じなのか気になっただけ」

 ブスリと。
 心臓を串刺しにされたかのような錯覚をおぼえる。

(まあ、そうでしょうよ。じゃなきゃあんなしつこく甚振ってこないだろうし)

 分かっていた筈なのに、改めて言われると複雑な気持ちになるのはどうしてだろうか。
 なんとも形容し難い感情を処理する間も無く、容赦の無い言葉が続いた。

「ナマエといると、すっげーイライラするって」
「はぁ、そうなのね……」
「あと、ナマエの顔見てると殴りたくなるとも言ってた」
「……」

『ナマエがいるとどうしようなくイラつくんだよね。消えてくれないかな』
『お前のその気の抜けた顔は見てると殴り飛ばしたくなってくるよ。ほんと人を煽るのが上手いよね』

 まるで、イルミ本人がそう耳元で囁いているような錯覚に陥った。
 かつて似たようなことを何度か言われた事があるけれど、間接的に聞かされると腹立たしさが増す気がする。

(イルミの野郎、好き放題言いやがって)

 だんだんと苛立ちを募らせる私に気付かず、キルアは明るい口調で言い放った。

「まあでも、ナマエの方はイル兄のこと嫌ってないんだな」
「いや、前言撤回。私もイルミのこと嫌いだよ。この家の人間の中でいっちばんね!」

 ささくれ立った感情を隠しもせずにそう吐き捨てる。
 すると、キルアの動きがピタリと止まった。

「……は?」

 幼い少年が発したとは思えないほど低い声が地下室に響く。途端に、不穏な空気が充満していった。

「あの、キルアくん……?」

 恐る恐る声をかけた瞬間、キルアの怒りが爆発した。

「何でだよっ! ナマエの嘘つき!!」
「えっ!? ちょっ、えええ?」

 毛を逆立てた猫のように怒り出したキルアに、ひどく困惑する。その反応はあまりにも予想外のもので。まったく身構えていなかったせいで、こちらの苛立ちなど吹き飛んでしまった。

「今さっき嫌いじゃないって言っただろ!」
「言ったけど……」
「なのに何だよ一番って! イル兄のこと何とも思ってないって言ってたじゃんか!!」
「な、何とも思ってないとは言ってない、かな……」

 あまりの怒りように圧され、言葉尻が弱々しく消えていく。
 一体、何がそんなに彼の逆鱗に触れてしまったのだろう。訳が分からずおろおろする私を、キルアは心底気に食わないという顔で睨み上げていた。

 ここまで怒らせたのは、前に仕事終わりに寄り道するのはやめようと提案した時以来かもしれない。あの時も、こうして烈火の如く怒り出し暴れまわった挙句、暗殺者になんてやめてやると脅されて泣く泣く私が白旗を上げたのだ。あの時は本当に大変だった。まあ、それだけキルアがその時間を楽しみにしてくれていたんだって知ることができた訳なのだけど。
 でも、今回はどうして怒らせてしまったのかよく分からない。イルミの事を嫌いって言った事が、そこまで気に食わなかったのだろうか。確かに兄のことを弟の前で嫌いと言うなんて褒められた事ではないけども。
 でもキルアって、そんなに兄思いだったっけ……?

「なんか、ごめん」
「何で謝んだよ」
「やっぱり兄弟の前で嫌いって言ったのは良くなかったかなーと」
「そーゆうんじゃねーって!」
「え、違うの? じゃあなんでそんなに怒ってるの?」
「……っ、俺だって、わっかんねーよ!!!」
「えええ……」

 なんだそれ。本人すら分かっていないものを、どうやって宥めたらいいんだ。
 完全にヘソを曲げてしまったキルアを前に、途方も無い気持ちになった。

(まだ当分休めそうに無いな……)

 これからキルアの機嫌とりにかかる労力を考えると、気が遠くなりそうだった。


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