百星巡りの果てに


 鼻の奥がつんと痛んで、視界が滲んでいく。頬を伝う生温かいものが涙だと気づいた時には、もう嗚咽を止めることができなかった。くしゃりと歪んだひどい顔を見られたくなくて、俯いて顔を覆う。あぁ、嫌だ。こんな風に泣くつもりなんてなかったのに。
 沈黙の中、すすり泣く声だけが響く。顔を上げることができなかった。目の前の彼がどんな顔をしているか見るのが怖かったから。めんどくせぇって顔されてたら多分立ち直れない。
 だけど結局、あまりに長い沈黙に耐えきれなくなって、恐る恐る顔を上げる。そこにはどこか得体の知れない表情を浮かべている佐野万次郎の姿があった。

「何ですか、その顔……」
「お前、泣くんだ」

 斜め上からの発言に言葉を失う。言うに事欠いてそれか。人のことをなんだと思ってるんだ。

「私だって、泣くことくらいありますよ」
「ふーん」

 興味のなさそうな相槌の後、いきなり距離を詰められて思わずあとずさった。

「なんで離れんの」

 暗く翳った瞳が、脅すようにじっと見つめてくる。そうなったらもう身動き一つ取れやしない。じりじりと問合いをつめられ、唾を飲み込む。鼻先が触れるくらいの距離まで迫ったとき、彼が口を開いた。

「泣いてるとこ、もっと見たい」
「は……はぁぁ?」

 予想外の発言に素っ頓狂な声が出る。一体何を言っているのかこの人は。思わずまじまじとその整った顔を凝視してしまう。冗談でもなんでもなく、至極真面目な顔をしていた。その瞳があまりに真っ直ぐすぎて、私は思わず息を飲む。

「泣き顔見せろよ」
「嫌ですよ!」
「なんで」
「なんでも何もありません!」

 必死に押し返そうとするも、びくりとも動かない。腕力の差がありすぎる。

(まさかそういう性癖? でも、なんとなくそういうのとは違うような……)

  例えるなら、子供がはじめて捕まえた昆虫を観察したがるみたいな感じだろうか。そんな無邪気な好奇心に満ちた目をしている。いや、それにしたって変なことに変わりはないけれど。
 ぐいぐいと迫ってくる彼をなんとか押し戻そうと奮闘する中、不意に伸びてきた手がわずかに残っていた涙の残滓を拭った。

「あったけぇな」

 ぽつりと呟かれた言葉に一瞬だけ思考を奪われる。そのまま指先は目尻に触れて頬へと滑り落ちた。まるで壊れ物に触るような手つきだった。それがなんだかくすぐったくて、私は身を捩らせる。

「うん。あったけぇ」
「……生きてるんですから、当たり前ですよ」
「そっか」

 その口調にどことなく寂しさを感じ取って、私は彼を見上げた。でも、彼は私を見ていなかった。目は合っているけれど、ここにはいない誰かに想いを馳せるような遠い目をしている。
 どうしてそんな顔をしているのか尋ねようとして、やめた。きっと聞いたところで答えてくれないだろうと思ったから。
 出会った頃から、彼が何かを抱えているのは知っていた。それは多分、私には理解できないようなもので、触れられたくないものなのだとも分かっていた。だから私はそれ以上踏み込まないし、彼もまた何も言わない。それでいいと思っていた。

(――でも、今ここにいるのは私なのに)

 なんだか無性に悔しくなって、私は彼の手をぎゅっと握った。そしてありったけの勇気を振り絞って目の前の唇を塞いだ。驚いたように見開かれた目が間近に見える。いつもと立場が逆だ。普段は私が振り回されている側だけど、今だけは違う。心臓がバクバクして死にそうだったけど、離さなかった。
 やがてゆっくりと離れた後、呆然としている彼に向かって言い放つ。

「目の前に私がいるのに、他のこと考えないでください」

 もはや喧嘩腰だった。私の言葉をどう受け取ったのか、彼は呆けたままこちらを見ている。 勢い余ってなんてことをしてしまったんだと内心のたうち回りたくなったけど、ここで引くわけにはいかない。歯を食いしばって羞恥に耐えた。
 膠着した空気を破ったのは、くくく、と押し殺した笑い声だった。

「名前はワガママだな」

 そう言って、破顔する。そして今度は彼から口づけられた。何度も啄むように繰り返されるうちに身体中の力が抜けていく。それに気付いたのか、彼の腕が背中に回った。優しく抱きしめられて、思わず瞼を閉じる。
 彼の中に潜む深淵は暗くて、底が知れない。それが生来のものなのか、過去の人生の中で身についたものなのか、私には推し量る術もない。でも、いつか彼が抱えているものを私にも分け与えてくれたらと思う。その痛みや苦しみごと受け入れたいから。

(確かにワガママだな)

 こんなことを考えてしまう自分に苦笑する。いつの間にこんなに欲張りになっていたんだろう。最初はただそばにいるだけでよかったのに、今はもうそれだけじゃ足りない。
 触れ合った箇所から伝わる体温が愛おしくて、切なくて、胸が締め付けられる。この人のことが好きだと、心の底から思う。だから、どうか。
 私は祈るように彼の首筋に額を押し付けた。


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -