全部しっていたよ
頬の傷なんてあったことすら忘れるほどに綺麗に治り、その上に更に新しい傷をつけることなく二週間が過ぎようしていた頃、メフィストさんに呼び出された。
「最近は、出ないようですね」
自身の執務机で報告書を読んでいたメフィストさんが、脈絡も無くそう言った。真意をはかりかねてソファごしにデスクのほうを覗き込んでみれば、彼は書類に視線を落としたままさらに続けた。
「奥村先生の件ですよ」
「ああ、なるほど。……って、幽霊じゃないんだから出るとか言わないでよ」
あまりの物言いに呆れてみせるが、メフィストさんはまったく悪びれることなく一笑した。
「無抵抗な相手に躊躇いも無く引き金を引く人間なんて、ゴーストの類いより世程恐ろしいと私は思いますがね」
「たしかに笑いながら銃を乱射してる姿は、恐ろしいの一言に尽きるけどね」
「そうです、人間とは真に恐ろしいものですよ。……おっと、話が逸れましたな」
「アイツが最近姿を現さないって話でしょ?」
そう。出てきていないのだ。雪男の中に潜むもうひとつの人格。先日まで毎晩のように命懸けの銃弾戦を繰り広げていた相手が、ここ最近ぱたりと姿を現さなくなっていた。
「そうです。それに対して、貴女は本来の奥村先生と接触するようになった。」
「うん。まあ、そうだけど……」
通常時の雪男と壮絶な追いかけっこをして以来、私は雪男を避けることをやめて今まで通り……いや、それ以上に接するようになっていた。
(でもその事が、アイツとどう関係が?)
ソファから身を乗り出してメフィストさんを見ると、じらすようにほんの少し間を空けて告げられた。
「理由は分かりませんが、おそらく奥村先生の感情の起伏がもうひとりの人格を表出させる要因となっているようですな」
「……えっと、それってつまり」
「奥村先生が寂しいともうひとりの人格も出てきちゃうという訳です☆」
「えぇ〜……?」
「まあ、確証があるとは言えませんが、接触を避けていた時よりは出現率が下がったのは確かでしょう」
「それはそうだけど……でもさ、私が避けてたぐらいでそんな雪男に影響を与えるとは思えないんだけど?」
同じようなことを燐にも言われた。雪男自身にも避けないでほしいって頼まれたけど(そういえばあんな風に感情を顕わにする雪男を見るのは久しぶりだったかもしれない)だからって、その事が雪男の中に潜むあの凶暴な感情を呼び起こす要因になっているとは到底思えなかった。
疑わしげな目を向けると、メフィストさんは軽く眉を釣り上げ「ふむ」と唸った。
「なるほど。もう少し人間の感情の機微について学ぶ必要があるようだな……」
「え?今なんて?」
「いえ、なんでもありませんよ」
メフィストさんは顎に蓄えた髭をひと撫でし、また人を食ったような笑みを浮かべた。
なんだか失礼な事を言われた気がするのだけど、思い過ごしだろうか。
「何にせよ、奥村先生との接触は続けてください。ただし人気が無い場所ではいけませんよ。最近は姿を現さないとは無いとはいえ何が起きるか分からないのでね」
「はいはい、分かってるよっ、と!」
私は寝そべっていたソファから身を起こし、傍らに置いてあった鞄を手に取った。
「これから一緒にお昼食べようと思ってたしね」
「ほう?奥村先生と?」
「そう。雪男が暇な時って昼休みくらいしかないからさー。早めに迎えに行って一緒に食堂で食べるんだ」
「………接触しろとは言いましたが、過度な接触は許しませんよ」
「あははっ、りょーかいっ」
不純異性交遊は許しませんよ!と、よく分からないメフィストさんの叫びを背に受けながら、私は理事長室を後にした。
薄暗くぬらりとした質感の廊下を、頭上に提げられた小さな看板を確認しながら進む。
「講師室、講師室っと」
祓魔師や訓練生が集まるこの校舎はやたらと広い。加えてどの扉も似てるから気を抜くと迷い込んでしまいそうだった。右往左往しながらようやく目当ての扉の前に立てた時には、思わず安堵の息を漏らしていた。
「失礼しまーす……」
馴染みの薄い場所に居るせいで自然と声が強張る。
足を踏み入れると、すぐに机に向かっている雪男の姿が目に入った。他には誰にもいない。
「雪男ー」
呼びかけに返事はない。その代わり、雪男が僅かに身じろいだ。
「……あれ、寝てる?」
神経質と言えるほど周囲の気配に敏感な雪男がこんな場所で居眠りを?
あまりにも珍しい事態に少しの驚きと、多大な好奇心を膨らませて、事実を確かめるために忍び寄る。 近づくにつれて微かな寝息が聞こえてきた。やっぱり寝てる。
(はー、本当に珍しい……っていうか、雪悪が寝てるところを見るなんて初めてじゃないか?)
好奇心を抑えられず、椅子に腰掛けている雪男の傍にしゃがみこんでその寝顔を下からまじまじと眺めてみる。普段は大人びていても、こうやって無防備に寝ている姿は年相応の少年らしい。
「あ、隈できてる」
血色が良いとは言い難い頬の上。今は閉じられている瞼の下には薄っすらと影が広がっている。それを見て、無防備な寝姿への悪戯心は萎んでいった。
(気持ちよく寝てるところ邪魔しちゃ悪いし、今日は退散しよう)
私はうん、と一度頷き、出来るだけ音を立てないように立ち上がった。
(それにしても珍しいもの見ちゃったな。ああしていると、雪男も可愛くみえるもんだ)
妙な満足感に口元が緩んでいるのを自覚しながら、入ってきた時と同じ扉へ向かって踵を返す。
しかし、持ち上げた右足が固い木張りの床に着くよりも前に、左腕を掴まれた。
「うわっ、わっ!」
突如、後ろから引っ張られバランスを失いかけた体を片足だけでなんとか持ち直す。危うく後ろに倒れ込むところだった。
「あっぶなっ!ちょ、なにす……っ!」
抗議の声を上げようと振り返った先には雪男が居た。しかし俯いている所為でその表情は読めない。
「ゆき、お……?」
掴まれた場所から感じるひやりとした掌の感触に、鳥肌が立った。
「久しぶり、ナマエ」
掛けられた言葉に、ぎくりと全身が強張った。
久しぶりのはずが無い。昨日だってその前だって、雪男とは顔を合わせている。それでも彼は「久しぶり」と言った。その言葉の意味するところは………。
(………アイツだ)
掴まれた腕を振り払おうとするが、ビクともしない。舌打ちをもらすと相手はゆるゆると顔を上げた。雪男には似つかわしくない獰猛な笑みを向けられ、肌が粟立つ。
「そんなに殺気立たないでよ。今ここで殺り合う気は無いから。ナマエと話がしたいんだ」
雪男は享楽的な笑みを打ち消し、真っ直ぐに見つめてきた。
たしかにいつもの殺気は感じない。しかしいつもと違う空気感が、余計に恐ろしさを煽り立てていた。
相手の真意をはかりかねて黙りこくっていると、雪男は世間話でもするかのように話し始めた。
「最近は随分と仲が良いみたいだね」
「は?」
一瞬、何のことか分からず間抜けた声がでた。
「あんなに露骨に避けてたのにね」
「何言って……」
「まあ、あんな風に避けないで欲しいなんて言われたら、優しいナマエは断れないか」
「っ!」
言葉を失う。私の様子を見て、雪男はくつくつと笑った。
「ちょっと待って……どうしてアンタがそれを知って……」
だってそれは、本来の雪男と対面している時に起こった事なのに。どうしてコイツは知っている?
理解が追いつかなくて呆けていると、雪男は自分の胸を拳で数度叩いて、口の端を釣り上げた。
「僕は全部覚えてるよ。何も知らないのは彼だけだ 」
突きつけられた真実に、愕然とした。
ただ破壊衝動に従事するだけの存在だと思っていた。意志の疎通をとる事も出来ない、悪魔と同じだと。
だけど今目の前に居る相手はどうだ。自分の感情を持ち、記憶を持ち、意志を持っている。その異常性に、眩暈がした。
「あなたは、誰なの……?」
「奥村雪男だよ」
そうきっぱりと言い放つと、放心してよろめいた私の腕を雪男は再び引いた。反射的に身を引きかけるがそれよりも強い力で引っ張られ、あえなく雪男の腕の中に納まる形になる。
「ちょ……っ!」
「消えちゃったんだ」
「は?」
かつては銃弾が掠めた傷のあった頬に手をあてられる。気味が悪いほど優しく。しかし「残念」と唇を擦り合わせて笑む様は、まるで得物を狙う猛禽類のようで、背筋がひやりと冷たくなった。
「必死に隠してたよね。傷の原因を聞かれるのがそんなに嫌だった?僕の存在が彼に知られるのがそんなに不味いことなの?」
首元に刃物を当てられたような冷気が背を這う。
「何が言いたいの……?」
「ナマエを傷つけたのは僕なのに、彼は何も知らない」
「そんなこと雪男は知らなくていい」
「そんなの不公平じゃないか」
だって君を傷つけたのは彼の手でもあるんだから。そう耳元で囁かれ、カッと頭に血が上る。
「違う!雪男は関係ない!」
噛み付くように叫んで、その腕から抜け出そうとするが逆に両手を押さえ込まれてしまう。
「関係ない訳ないだろう。だって僕は彼でもあるんだから」
「違う!雪男とアンタは同じじゃない!」
「同じだよ。何も違わない」
彼、なんて他人行儀な呼び方をする癖に、同じだと言い切るこいつに憤りを覚えた。怒りに任せて盛大に暴れるが、次に投げかけられた言葉によって私はギクリと身を強張らせた。
「彼に僕の存在を知らせることだって出来るんだよ」
「なっ……」
「同じ体だからね。方法はいくらでもある」
「そ、それは……」
「やめてほしい?」
唇がわなわなと震える。それを見て、雪男は親指を滑らせるようにしてそこを撫でた。完全に遣り込まれている。そう分かっていても、私にはただ力なく頷くことしか出来なかった。
「いいよ。黙っててあげる。その代わり……」
至極楽しそうな声色を隠さないまま、耳元で囁かれた。
「ナマエには僕の願いを聞いてもらう」
「願い?」
「そう。簡単なことだよ」
口調ばかりは柔らかいが、言っていることは脅しそのものだ。何を言われるのか身構えていると、急に顎を強く掴まれた。
「なっ、なにを……」
衝撃に目を見開いたら、すぐ目の前に人の顔があった。目の焦点が結べないほどの至近距離。ただ、間近に迫った新緑の双眸がこちらを射抜いていることだけは分かった。
(殺される!)
そう覚悟してぎゅっと目を瞑った瞬間、くちびるを塞がれた。
「はっ!?なっ、んっ……」
慌てて身を剥がそうと肩を突き飛ばすが、強い力で引き寄せられてさっきよりも深く重ねられてしまう。
息をする間も与えないようにかき回される。縦横無尽に暴れまわる舌を追い出したくて歯を食い縛ろうとしたら、親指を差し込まれて下の歯を押さえ込まれた。
「くっ、ふ……!」
縮こまった舌を引き出すように絡められる。咎めるように舌に歯を立てられ、ビクリと身が竦んだ。
あまりにも予想外な出来事に心拍音が太鼓のように響いて、涙が滲んだ。
ふいに、唇が離れていく。
その頃には私は息も絶え絶えになっていて、頭の中もぐちゃぐちゃだった。自分の身に降りかかった事を処理できず呆然とする。
涙でぼやける視界の中で、雪男が愉悦の笑みを浮かべていることだけが分かった。
「ナマエの泣き顔が見たかったんだ」
おぞましい宣言の後、首筋に噛み付かれ、やっと正気に返った私は盛大な叫び声を上げることとなった。