嘘びたしの光


 お大事にねーという間延びした声を背に受けながら、保健室を後にした。

「いつつ……」

 この調子なら今日中に治ると太鼓判を押され薬を塗られただけの傷口は外気に触れると少しだけヒリヒリと痛んだ。今いる場所は一般の校舎だから悪魔に襲われる危険なんて無いけれど、傷口を晒していると思うと心許ない。

「午後の授業、どうしようかなー」

 燐のお弁当のおかげで胃袋は満ち足りている。おかげで眠気が押し寄せてきて、授業を受ける気はすっかり失せていた。
 欠伸を噛み殺しながら人気の無い廊下を進む。通りすがりに窓から教室を覗くと、屍累々とばかりに机に突っ伏す生徒がほとんどだった。
 やっぱり今日はサボろう、と褒められたものではない決意を固めて踵を返した時。ふと、見知った気配が近付いてくることに気が付いた。
 張り詰めているピアノ線のように繊細で、どこか危うさを孕んだ気配。確かめるまでもない。これは……。
 慌てて身を隠そうとしたが時既に遅い。廊下の先にある曲がり角から、気配の持ち主が現れてしまった。

「雪男……」

 ほぼ同時に、雪男もこちらに気が付いたようで、眼鏡越しに見える新緑の瞳が見開かれる。次いで、口唇が私の名前を象った。

「あ、久しぶり……」

 反射的に口をついて出た言葉に自分で驚く。毎晩のように顔を合わせていたようで、こちらの雪男と会うのは久しぶりだった事に気が付いたからだ。

「久しぶり」

 雪男は少し離れた場所から優しく微笑んでくれた。その朗らかな空気にあてられ自然と頬が緩む。

(あー、本物の雪男だぁ……)

 最近じゃ狂人じみた彼とばかり対峙してきた所為か、妙な感慨に耽ってしまう。
 しかし、雪男が足早にこちらへと向かってきているのが分かって、浮遊していた意識が無理矢理引き戻された。
 やばい、まだ怪我治ってない!

「こっ、来ないで!」

 幸いガーゼは外してあるから遠目では分からないだろうけど、これ以上近付かれたら確実にバレる。そう気が付いて、思わず声を張り上げていた。
 途端に、雪男の表情が固まったのが分かった。

「え、えーと……あの、今ちょっと、そのー」

 しどろもどろになりながら言葉を探るが、焦った思考で上手い言い訳が思いつく筈もなく。虚を衝かれたように目を丸くしている雪男に顔を背けたまま、私はじりじりと後退さった。
   
「今日は……ちょっとあんまり私に近寄らない方がいいかも……」

 駄目だ。こんなの完全に怪しい。
 迂闊過ぎて頭を抱えたくなったが、今はそんな猶予も無い。とにかく今は退散して怪我が完治してから改めて雪男の所に行こう。
 そうと決めたら行動あるのみ。私は左頬の傷が雪男に見えないように俯きながら、ゆっくりと後ろに下がった。

「あのね、雪男。私急ぎの用事を思い出しちゃったんだよね!」
「……」
「だから、その……これで失礼するね……?」
「……」
「雪男さーん……?」

 自分のことで手一杯で気が付かなかったが、いつの間にか雪男の纏う空気が剣呑さを増している事に気が付いた。眼鏡の奥にある瞳が全く見えないんですけど。
 只ならぬ雰囲気の中、雪男が再び大きく足を踏み出した。

「ちょっ……だから来ちゃ駄目だってば!」

 制止の言葉も聞かずにずんずんとこちらへ歩み寄ってくるもんだから、慌てて頬の傷を手で隠した。

「雪男!今は駄目だって!」
「何が駄目なの?」
「え!?えーと、何がってそりゃ……」

 歯切れの悪い私に苛付いたのか、雪男は更に歩みを早めた。それにつられて後退すると、背中に軽い衝撃が走る。反射的に振り返った先には、壁。もう後が無い。

「ナマエ」

 あと数歩というところまで近付かれた時。悪戯をした生徒を叱り付ける様な声色で名を呼ばれ、肩が竦んだ。
 いつになく強引な雪男が恐ろしく感じるのは、後ろめたいことがあるからだ。雪男に悪い事をしているという自覚はある。それでも傷を晒してその理由を問い詰められる訳には行かない。少しでもアイツの存在に繋がるような要素は排除しなければ。だから、私は……。

「ごめん、雪男!」

 背後にある壁を蹴って、雪男の横をすり抜ける。そして全速力で駆け出した。

「なっ……」

 背後から焦った雪男の声が聞こえたけど、構っている場合じゃない。今捕まったら絶対ボロが出る気がする。ここは一先ず逃げるが勝ちだ。
 ごめん、雪男!心の内で謝りながら、後ろで呆然と取り残されているであろう雪男を見るために肩越しに振り返った時。
 思わず悲鳴を上げてしまった。

「なっ……なんで追いかけてくるの!?」

 私の悲鳴じみた声が校舎に響き渡る。授業中だという認識は頭の片隅にあったけど、叫ばずにはいられなかった。だってまさか雪男が追いかけてくるなんて思ってなかったんだもの!しかもあんな全速力で!いつもの冷静な雪男からは考えられない行動だった。

(もしかして……)

 走るスピードは落とさずにもう一度、首だけで振り返る。そこには盛大に顔を顰めながらこちらを追いかけてくる雪男の姿があった。顔は怖いけど、あの嫌な感じはしない。良かった、アイツが出てきた訳じゃなさそうだ。
 少しだけほっとしたけど、雪男に追い回されているという状況が変わった訳じゃない。
 ていうか、なんか怖い。めちゃめちゃ怖い。もしかしたら人格が豹変した時よりも怖いかもしれない。誰か助けて。

「追いかけてこないでーっ!」

 私は長ったらしい廊下を駆け抜け、少しでも雪男と距離を取る為に一階へと続く階段から飛び降りた。

「ぐっ!」

 無茶な高さから着地したせいで足裏に痺れが走ったが構わず突き進み、校舎を抜け出す。
 およそ学校の校庭とは思えない精錬された石畳の上を走り抜ける中、ふと背後に迫る足音はさっきより遠のいているのが分かった。

(よし!撒ける!)

 そう意気込んで更にスピードを上げる為に力を入れた右足の先に、衝撃が走った。

「あっ!!」

 何に躓いたのか確かめる術も無く宙に放り出され、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。

「いっ、だ!!」

 地面と肌が擦れ合う乾いた音が耳に届くと、焼けるような痛みが腕と膝に襲い掛かる。
 慌てて体勢を立て直そうとしたが、負ったばかりの傷がズキリと疼いて、結局その場に崩れ落ちることになった。ああ、やってしまった。

「ナマエ!大丈夫!?」

 膝の痛みに耐え切れずにその場で蹲っていると、雪男に追い付かれてしまった。
 しかしさっきまでの不穏なオーラは無く、その顔は焦りに満ちていた。

「あ、うん。なんとか……」

 痛み半分、情けなさ半分で滲んでいた涙を拭うと、雪男は痛ましげに眉を寄せた。

「ごめん!僕が、追いかけたりなんかしたから……」
「え?い、いや!雪男は悪くないよ!逃げた私が悪いから……」

 さっきまでの鬼みたいな形相から一転して、悲痛な表情で謝られる。その顔があまりにも辛そうで、私は慌ててフォローを入れた。だって、本当に雪男は何も悪く無い。悪いのはすべて私だ。
 だけど雪男は、益々眉を下げてしまった。

「雪男……?」

 泣き出すんじゃないかってくらい痛ましげに表情を歪めたまま雪男は私の前に跪いた。そして右手を私の頬へと当てがった。

「……本当にごめん。怪我させたかった訳じゃないんだ」
「あ……」

 違う、この傷は。
 そう言い掛けて、口を噤む。どうやら雪男はこの傷が今負ったものだと勘違いしてるらしい。
 このまま黙っておけば頬の傷の事は上手く誤魔化せるかもしれない。
 そんな企みが頭を過ぎるが、雪男の悲しげな表情を見た瞬間、その考えはすぐさま消えた。

「違うよ雪男。この傷は今ついたものじゃない」

 はっきりと告げる。いつもは静かな理性の光を灯している瞳が揺らめいた。

「え、じゃあこれは……」
「これは前の任務で失敗してつけた怪我だよ」

 嘘を吐くのは得意じゃない。だから少し目線を逸らしてしまうけど、今の状況だったら気付かれないだろう。私はしっかりと雪男の目を見て言い放った。

「だから、雪男のせいじゃないよ」
「……そっか」

 それでも雪男の表情は晴れなかった。それどころか私の傷跡に視線を定めたまま微動だにしない。やばい、疑われてる?

「……じゃあ、僕から逃げたのは、どうして?」

 くぐもった声で問いかけられて、ギクリとする。
 あー、やっぱり聞かれるか。そうだよね。私が避けてたのにも気付いてたみたいだし……。なんとか上手い言い訳がないが頭を捻るが、さっぱり浮かんでこなかった。
 もういいや。変に誤魔化すよりも、ズバッと言ってしまおう。

「怪我してるとこ見せたくなくて。心配かけちゃうと思ってさ……」

 それが全てでは無いけれど、紛れもない事実だった。だって会いさえしなければ、今みたいに雪男に辛そうな顔をさせずに済んだわけだし。

「それが理由で、最近僕のこと避けてたの?」
「う、うん、そう……」

 小さく首肯すれば、雪男は呆れたとばかりに溜息を吐いて眉間に手を当てた。
 流石に怒らせちゃったかな。雷が落ちる前にまた逃げようかな……。そんなことを考えていると、間近にある端正な顔が何かを堪えるように顰められた。その表情は怒っているというよりも、泣き出す前の子供のようで。
 私は目を瞠った。そして、ばつが悪い秘密をこっそり告白するような声色で言われたことに、さらに目を見開くことになる。

「……気持ちは分かるけど出来れば避けないで欲しい」
「え……」
「ナマエに避けられるのは、正直辛い」

 ぽそ、ぽそと静かに落とされる声は、それでも私の耳にしっかりと届いた。
 理解が追いつかなくて呆けていると、彼は気まずそうに視線を彷徨わせ、遂には力なく項垂れた。その頬が少しだけ赤らんでいるように見えたのは、私の気のせいでは無いだろう。

「ごめん!」

得体の知れない熱い感情に駆り立てられ、私は声を張り上げていた。

「ごめん。もう雪男のこと避けたりしない。ごめんね雪男……」

 顔を上げて欲しくて、目を合わせて欲しくて、必死に言い募る。それでも項垂れたままなのが歯痒く、力無く投げ出されていた手を両手で挟むように掴んだ。

「雪男」

 するとようやく雪男がゆるゆると顔を上げてくれた。やはりその頬は赤い。だけど、私だって同じくらい真っ赤になってる筈だ。

「嫌われたかと思って、焦ったよ……」

 赤い顔のまま苦笑され、胸が締め付けられた。私が雪男を嫌う訳ない。そう言おうとしても胸が詰まって声にならない。
 だから返事をする代わりに、掴んだ両手に力を込めた。胸の内で迸る想いが伝わるように、強く。


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