昼休みの喧騒


 昼休みの喧騒に包まれた教室を抜け出し屋上へと歩みを進めていると、不意に誰かに呼び止められた。

「ナマエ!」

 空気を裂くような快活とした声。振り返るとそこには、八重歯を覗かせて無邪気に笑う幼馴染の姿があった。

「燐!」

 その笑顔につられて、こちらも自然と破顔する。
 しかし燐は、振り返った私の顔を見た途端、その蒼い瞳を真ん丸に見開かせて、みるみる表情を曇らせてしまった。

「り、燐?どうしたの?」

 恐る恐る尋ねてみると、燐はさらに眉を寄せて人差し指を突き出した。

「お前、それ」
「え?……ああ、これ?」

 指先が示す先――昨夜負った左頬の傷をガーゼ越しに触れると染みるような痛みが走った。

(あー、傷が乾いてきてる。後で保健室いって薬塗ってもらおう)

 頬に手を当てたままそんな思考を漂わせていると、青い瞳が不審気に揺らめいた。

「また任務で怪我したのかよ」
「う、うん。ちょっと昨日の任務でヘマしちゃって……」

 嘘だ。昨日は任務なんて入っちゃいない。でもまさか、自我を失った君の弟さんにやられましたとは言える筈が無い。

「でも大した傷じゃないから!もう治りかけてるし」

 ついでに口角を上げてみせるが、無理に力を込めた所為で頬が引き攣ってしまう。
 燐は拗ねたように唇を尖らせた。その表情には怒りとか、呆れとか、そんな負の感情が綯い交ぜになっていた。

「お前さ、一応は祓魔師なんじゃねーのかよ。怪我ばっかしてんじゃん」
「任務に危険は付き物だからね!」
「雪男は任務があってもそんな毎回怪我してねーぞ。怪我って言ってもかすり傷がほとんどだし」
「あー……それは、ほら!雪男は要領が良いっていうか、器用だからね!」
「……それってやっぱお前が無茶な戦い方してるって事じゃねーか」
「無茶って……」

 それを燐に言われたら終わりだなあ、なんて苦笑を浮かべていると「何笑ってんだよ」と睨まれてしまった。

「大丈夫、今はそんな無茶してないから」
「嘘クセェ〜……前もそんな事言って、ボロボロになってたじゃねーか」
「そうだっけ?」
「そうだよっ!ったくよー、ナマエってホンット自分のことに無頓着だよな」

 心底呆れたとばかりに溜息を吐かれる。

(それも燐には言われたくないよ)

 やはり苦笑が洩れそうになってしまうが、こっちを見る目が完全に据わっていたので、慌てて頬を引き締めた。

 燐の言う通り、祓魔師になったばかりの頃は、かなり無茶な戦い方をしていた。体の治りが比較的早いのを良いことに事ある毎に前線に出張り、その度に大怪我を負っていたのだ。
 まあ今となってはそんな無茶はしなくなったし、まだ候補生の燐が当時の私の様子を知っている筈が無い。しかし燐がまだ入学したばかりの頃、後先考えずに突っ走る彼の行動を昔の私を引き合いに出してメフィストさんに揶揄された事があるらしい。その場に居なかった私には話の仔細は分からないが、メフィストさんの事だから誇張して話したに決まっている。しかしどうやら燐はそれを額面通りに受け取ってしまったらしく……。
 それ以来、任務で傷を負うたびに「無茶をするな!」と燐から説教されるようになってしまったのだ。

「ごめんね燐。今度からは気を付ける」
「ほんとだな?」
「最大限努力します。心配してくれてありがとね」
「バッ……っ!心配なんかしてねーよ!」

 ありゃ、怒鳴られちゃった。でも動揺を隠すための怒声だという事は、目の前の赤らんだ頬が照明している。
 内心微笑ましく思いながら、今度はしっかりと燐の目を見て「ありがとね」と伝える。そうすると燐は赤い顔のまま唸ったり口篭ったりした後「おう」と返してくれた。

「ていうか燐、私に何か用があるんじゃないの?」
「あ!そうだった!」

 燐はハッと目を瞠り、肩に掛けた学生鞄を漁り出した。そして、中から青い布に包まれた物を二つ取り出すと、私の眼前に突きつけた。

「え?これ、なに?」

 突如目の前に現れた青い物体に目を白黒させながら尋ねると、悪戯が成功した子供みたいに笑った。さっきまでの拗ねたような顔が嘘みたいな無邪気さだ。

「これナマエにやるよ」
「え!いいの?」

 やるよ、という言葉に反応して現金にも差し出してしまった両手の上に、それが置かれる。両掌にすっぽりと収まるそれはどうやら弁当箱のようだった。

「ナマエ、昼飯まだだろ?一緒に食おうぜ!」

 そうやって事も無げに笑う燐に、今度はこちらの頬が少し熱くなる。

(心配してると思われるのは恥ずかしいのに、一緒にお昼を食べるのを誘うのは恥ずかしくないのか……)

 思春期男子――というか、燐の思考回路に若干の疑問を抱くが、その誘いを断る理由は無い。私は強く頷いて、「もちろん!」と笑い返した。



「お、美味しいぃ……!」

 屋上の剥き出しのコンクリートに腰を下ろして、燐お手製の手作り弁当の中身を突付く。そのあまりの美味しさに感動した。

「燐!これすっごく美味いよ!」
「だろ!今日のは自信作だからな」
「うん、本当に美味しい。雪男から話は聞いてたけど、燐って本当に料理が上手なんだね」
「んな褒めんなって!」

 燐は気恥ずかしそうに視線を彷徨わせると、鮭の混ぜご飯を勢いよく掻っ込んだ。それに倣い、私もご飯を摘んで口に運ぼうとしたとき、小さな疑問が沸き立った。

「ねえ、このお弁当って雪男の分だったんじゃないの?私が食べちゃって良かったの?」

 こんなに食べといてなんだけど、一応聞いてみる。

「俺も雪男にやるつもりで作ったんだけど、なんかあいつ急に任務が入ったとかで渡しそびれちまったんだよ」
「あ、なるほどね」
 
 そっか。雪男は任務なのか。
 昨夜顔を合わせたばかりの雪男であって雪男でない彼の姿が頭に浮かぶ。
 
(雪男、身体は大丈夫かな。怪我はしていないと思うけど、結構激しく動いてたし疲れが溜まってるんじゃないかな)
 
 あんまり無理しないで欲しいなあ、なんて。さっき燐に言われた事と全く同じ事を考えていることに自嘲の笑みが零れた。

「こんな美味しい弁当が食べれないなんて、雪男も残念だね」

 腹が減っては戦は出来ぬって言うのにね。と、玉子焼きを頬張りながら何気なく呟く。てっきり同調してくれるかと思いきや隣からは何の反応も返って来なかった。

「燐?」

 見ると、彼らしからぬ気難しげな表情でこちらを見詰めていた。……ん?なんだこの空気は。

「どうしたの?」
「……お前さ、最近雪男の事避けてんの?」
「っ!?」

 思わぬ燐の発言に、危うく手に持った弁当箱を取り落としそうになった。

「な……なんで?」
「雪男がそう言ってたんだよ。最近ナマエに避けられてる気がするって」

 本当なのか?と言いたげに青い瞳に覗き込まれ、言葉に詰まる。
 たしかに、雪男のことを避けていたのは事実だ。人格が入れ替わった雪男と戦って傍目にも分かりやすい傷を負ってしまった時は、特に気を張った。もし傷について問い詰められてしまったら、上手く誤魔化せる自信が無いからだ。燐に言ったように「任務で負った」という言い訳は、同じ祓魔師である雪男の前では通用しない……ような気がする。多分。雪男って鋭いし。だから意図的に会わないようにしていたのだ。でもまさか、雪男に気付かれていたなんて。
 燐の真っ直ぐな視線に射抜かれながら、何とか誤魔化そうと言葉を探る。が、しかし上手い言い訳は浮ばず、しどろもどろになりながら何とも滑稽な答えを返した。

「いやあー何となく罰が悪くて……ほらこんな怪我しちゃってるし」

 そう言いながら自分の左頬を指差す。
 うろたえる私に、燐はため息をついて腕を組んだ。その様はまるで、物分りの悪い生徒を諭す教師のようだ。

「だからって、それじゃカワイソーじゃねーか」
「かわいそう?」

 どうしてその単語が出てくるのか意味が分からなくて口をぽかんと開いていると、すぐさま答えが返ってきた。しかし、その答えもまた私には理解できなかった。

「あいつ、自分じゃ絶対言わねーけどさ。ナマエに避けられてかなりショック受けてんだぞ」

 ……ショック?あの雪男が?私に避けられているだけで?

「うっそだあー」

 思わず、調子外れな声を上げてしまう。そんな瑣末なことで雪男がショックを受けているなんて、到底考えられない。有り得ないって。
 あまりにも突飛な発言に笑っていると、燐は少し苛付いたように声を荒げた。

「ホントだっつの!ナマエの話が出る度に肩落としてる姿なんて見ててヒサンだぞ」
「悲惨って……」
「それに、あいつのイライラがこっちにまで飛び火すんだからよー。勘弁してほしいっつの」
「いやいや、それは私は関係無いから。言い掛かりはよしてちょうだい」
「お前なあ……」

 何か言いたげに大きく開かれた口は、なんの音も成さずに力なく閉じられた。

「……お前さ、鈍すぎ」
「え?」
「今回ばかりは雪男に同情するわ俺……」

 心の底から憐れむような視線と共によこされた言葉の意味が分からず、首を傾げる。しかしそんな私に構わず、燐は何故だか疲れ切った顔で、黙々と昼食を再開してしまった。
 
(え、何それどういうこと?)

 吹きさらしの屋上で、少しばかり冷たい風に頬の熱をさらわれながら、私は燐が投げかけた謎に悩まされることになった。


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