砕け散る破片
鉄牢の外に、風が木を撫でる音、たまに鳥が唸るように鳴く声が薄ら聴こえてくる。そのまま微かな物音を拾うようにして、閉じた目蓋に湧き出す雑念を追い払う。しかし、あまりにも鮮烈な記憶が脳髄を満たし、思考を奪っていった。
『次は、容赦しないから』
初めて会った時と同じくどこか獰猛さを孕んだ物言いは、矛盾した響きとして私の中に落とされた。
(容赦しないと言いながら、どうして手当てなんて?)
昨夜から、不毛なループ状態の疑問が再び頭を擡げる。
もう一人の雪男が手当てをするなんて、どう考えてもおかしい。何か裏があるとしか思えない。
そう警戒して真意を探ろうとするのだけれど、考えれば考えるほど判らなくなる。思考の行き止まりにぶち当たって、自分が穿ち過ぎているようにすら思える始末だった。
ふと、傷を負った右腕に目を遣った。
そこには真新しい包帯が巻かれているだけで、無機質な金属の感触はもう無い。手錠は彼の手によって外されたままだ。
(もしかして、腕の傷のことを気にしてくれたのかな)
それは、頭の隅に追いやって考えないようにしていた可能性だった。
「……あぁー、もうっ! これじゃアイツの思う壺じゃん!」
絆されている。いや、これはむしろ侵食に近い。
自覚したところで、自分ではどうすることも出来ない。衝撃が抜け切らず液状化したような頭の中で、感情を剥きだしにする彼の姿が何度も何度もリフレインし続けた。
「もう、どうしたらいいの……」
私は今まで、彼の気持ちなんて考えようともしてなかった。ただ、雪男を蝕む彼を消せば、すべてまるくおさまるんだって、心のどこかで考えていた。
だけど、その妄信を粉々に打ち砕かれた今、彼とどう向き合えばいいのか分からなくなってしまった。
(私は、雪男を守りたい)
その思いは、変わらない。
雪男を苦しませたくない。雪男が傷つくのも我慢ならない。
でも、これ以上彼の傍にいたらきっと、私は彼を消せなくなってしまう。
……彼の存在を、認めてしまう。
「騙されるな……」
今までされたことを思い返してみても、あいつは信じていい相手じゃない。
そう何度も頭の中で言い聞かせても、整理のつかない思考がぐるぐると回り続け、混乱は増すばかりだった。思いが氾濫して、噴き出して、感情の落としどころが判らなくなってしまう。
そんな混乱を嘲笑うかのように、彼の声が脳裏に蘇った。
『ナマエの頭の中にあるものを削ぎ落として、僕の存在だけを埋め込んでやりたかったんだ』
そうだ。あの言葉がいけなかった。あの言葉が、私の覚悟を揺さぶってしまった。
(だってあれは、まるで……)
――告白だ。
「いや、ない。ある訳ない。なに考えてんだ私は……!」
何なんだ一体。どうしてさっきからこうもありえない発想ばかり思い浮かべるんだ!
誰に聞かれた訳でも無いのに、羞恥で頬が熱くなる。自分の甘っちょろい考えが恥ずかしくなると同時に、そんな事を考える自分が信じられなかった。信じられなくて、それでも胸を締め付ける彼の切なげな表情に泣きたいような苦しさを覚える。
「ああぁ……もう……」
どうしようない遣る瀬無さと、自己嫌悪の念を持て余す。
頭を振って鬱蒼とした気持ちを払拭させようとするが上手くいかず。結局は、力なく項垂れるだけだった。
そうして暫く押し寄せる感情の波に曝されていると、唐突にひとつの疑問が頭に浮かんだ。
「そもそも、私の頭の中にあるものって、何だ……?」
言われた言葉の衝撃に打ちのめされるばかりで、意味を深く考えていなかったことに気が付く。
彼は、私の頭の中にあるものを削ぎ落とす、と言った。今この場所で確かに私を支配している筈なのに、どこか狂おしいような切なさを滲ませながら。
「私の頭の中に、あるもの……」
頭の中で響く彼の口調に合わせて、声を揃えてみる。
――と、その瞬間、雪男の顔がぱっと浮かびあがった。
昨日嫌というほど向き合った彼ではなく、いつだって朗らかな笑みを見せてくれた雪男の方。その雪男の笑顔が、くぐもっていた視界を晴らすように脳裏に浮かび上がった。
「どうして今、雪男の事を……?」
不可思議な感情が胸に渦巻き、心臓の奥がつきんと痛んだような気がした。
同時に、深く考えるのが無性に恐ろしくなる。
(もう考えるのはやめよう)
どうにも胸の内に引っかかるものを感じながら、私は考える事を放棄してしまった。
思考の堂々巡りに匙を投げたところで、ふと明かり取りの小さな窓から風が入り込んだ。背に当たる冷たい風に身を縮込ませれば、それまで聞こえていなかった異質な音が耳をつく。
「ん?」
音の発信源は、牢屋の扉だった。其処は、頑丈に取り付けられていた筈の鍵が外され、吹き込む風にくたびれたような音をたてて揺れていた。
「どうして、扉が?」
あいつが掛け忘れたとか? いや、あの男がそんな単純なミスを犯すとは思えない。
様々な憶測が脳裏を駆け巡る中、私は吸い寄せられるようにして扉の近くへと立っていた。
「……っ」
軋む音に混じって、生唾を呑み込む音が響く。
ゆらゆらと不規則に揺れていた扉に手をかければ、あっさりと開いた。
「あ……」
甘い蜜に誘われるように、ふらふらと足を踏み出す。
そうして牢屋から一歩抜け出したところで、私を蝕む蠱惑の声が再び蘇った。
『だから……今だけでいいから……』
その瞬間、ぴたりと体が動かなくなる。
「……っ、惑わされるなっ!」
(この異常な事態に混乱して、周りが見えなくなっているだけだ。見誤るな!)
磨耗された自分の心をとがらせ、彼への反感を必死に搾り出すようにしながら、再び足を踏み出した。もつれる足を、震える手を、必死に見ないようにして。
濃い闇を掻き分けて進んだ先には、また扉があった。扉の先には階段があり、その階段を駆け上るとさらにまた扉。
重苦しい質感の扉に身体をぶつけるようにして開くと、漸く少し開けた場所に出たのが分かった。
「ゲホッ、なに此処……」
目を凝らせば、両脇に均等に配された扉が連なっているのが分かった。まるで祓魔塾の廊下だ。
「もしかして、ここって……」
以前メフィストさんから聞いたことがある。祓魔塾には今使われている校舎とは別に、横溢する悪魔を封じ込めるための旧校舎があると。
この場所はきっと、悪魔の巣窟になっている旧校舎だろう。
「うわっ!」
背後から迫る気配に肩越しに振り返る。そこには案の定コールタールが群れをなしていた。
使われていない校舎はメフィストさんの結界の効果も薄まっているのか、悪魔たちが凶暴化しているのは明らかだった。
「いつもだったらこんな悪魔、すぐに蹴散らしてやるのに……!」
たった数日拘束されていただけなのに、体が上手く働かない。焦る気持ちも相俟って、今は逃げることだけで精一杯だった。
(どこか隠れる場所を探さないと!)
大量の悪魔たちの咆哮を背に受けながら、全力で駆け抜ける。その状態のまま首を大きく振り回して辺りを見回した。
舞い上がる埃のせいで灰色にけぶる廊下には、同じような構造の扉が連なっていた。おそらく教室だろう。祓魔塾の教室は、生徒達の力量を試すためにわざと結界が緩められていることが多い。その可能性を考えると、ここに逃げ込むのは得策じゃない。だからと言って、他に逃げ込める場所も思いつかない。
いっそのこと戦ってしまうか。あの程度の悪魔だったら、素手でも倒せるかもしれない。
(いや駄目だ。戦っている間に他の悪魔たちが集まってきたらそれこそ袋の鼠だ)
今は一刻も早くあの牢屋から離れなければ。
もし捕まってしまったら最後、どんな目に遭わされるか分かったものじゃない。
恐怖に竦みそうになる身体を叱咤しながら全力で走り続けた。見上げるほどの高さの扉をいくつもいくつも通り過ぎる。そうして無我夢中に走っていると、いつの間にか廊下の突き当たりに差し掛かった。
「あれ……?」
廊下を抜けた先には、ひとつの扉があった。今まで横目で捉えてきた重厚な作りのそれとは明らかに様相が異なる簡素な扉。
(新校舎の方にこんな扉あったっけ?)
記憶とは違う不審な扉に戸惑いが先立つ。しかし訝しむ間も、後ろからは悪魔の群れが押し迫っていた。
「とにかく、ここに……!」
ドアに体当たりするようにして押し開き、隙間に身体を滑り込ませる。そして間髪入れずに体を捻らせて、扉を蹴り上げた。もちろん、鍵を閉めることも忘れない。
しばらくの間、悪魔の咆哮が響く。蹴破られるのはではないかと息を呑むが、扉の前を騒々しく行き交うだけに留まった。どうやらここは低級の悪魔には入り込めない場所らしい。
「この部屋……」
荒い息を整えつつ、目を凝らす。
簡素な扉の先は、教室の半分にも満たない狭い空間だった。大量の埃に塗れているせいで判然としないが、寝台らしきものが並べられている。僅かに人の痕跡が残るこの場所は、おそらく医務室だろう。
「助かったぁ……」
ホッと胸を撫で下ろし、その場に崩れ落ちる。むせ返る黴臭さに眉を顰めながらも、封鎖された空間からようやく抜け出せことに胸がすく思いがした。
しかし同時に、途方も無い重圧に押し潰されそうになった。
(逃げてしまった。あの牢屋から)
自覚した途端、急激に恐怖心が膨れ上がる。
「早く、出口を探さないと」
なのに、体が全然思い通りに動いてくれない。巡る血が沸騰したかのように騒いで、全身の震えが止まらなかった。
「はぁー……」
深く腹の底から息を吐いた。その瞬間。
「っ!!」
首の後ろにひやりとした空気が当たった。
慌てて振り返るが、そこには誰もいない。
しかし、閉めた筈の扉が僅かに開かれていることに気付いて、スッと血の気が抜ける感覚がした。
「え……これって……」
身体中が熱く、尋常じゃないほど早い脈拍が耳元で喚く。
(駄目だ! ここに居てはいけない!)
目の前が真っ赤に染まり、警鐘が頭の中で響く。
何も考えらえず、ただ訳の分からない恐怖感だけが頭の中を占めた。
足がもつれそうになるのを堪え、出入り口の扉へと駆け出す。
――が、次の瞬間には体が動かなくなってしまった。
「何してるの?」
背後からの声に、ぞっとして立ち尽くす。
「何をしているの?」
一文字一文字、噛んで含めるように繰り返される問い。静かな、けれどたしかな怒りとやるせなさが混じった声だった。
「ぁ……」
口のなかがからからに渇いて、何か言おうと思うのに、喉で言葉がつっかえて出てこない。
(見つかった)
出口は目の前にあるのに、到底逃げる気にはなれなかった。逃げられるとも思えない。背筋に感じる凍るような視線に、脆くも崩れ落ちてしまいそうになった。
固いブーツの底が埃に覆われた床板を叩く音が響くと、包帯が巻かれた腕を掴まれた。
腕を掴まれたまま反対の手で顎をとられ、無理矢理顔を向かされる。
「逃げようとしたの?」
目が合った瞬間、冷水を浴びせられたかのように身体がふるえた。
恐怖だけじゃない。新緑を思わせる瞳が、今まで見たことがないほど深い悲しみの色を湛えていたからだ。なぜだかその事に衝撃をうけ、のどがつまる。
「そう、僕から逃げようとしたんだね」
何も応えられない私を見て、彼は喉の奥で笑った。
そして僅かにひずませていた表情をすぐさま当たり障りの無い微笑にすり替えた。その笑みから、真っ黒な煤のようなものがこぼれ出していくような錯覚を覚える。
「お仕置きが必要だね」
その時確かに、何かがひび割れるような音を聞いた気がした。