心臓を掴む幻想


 薄暗い空間には、人口の光と弱い自然の光が共生していた。正確な時刻は分からないが、おそらく朝方だろう。そのことは、天井近くにある小さな窓から漏れる光から知ることができた。
 閉じ込められてから、一日が経とうとしていた。


 鉄枷に囚われた右腕を振り上げ、格子めがけて鋭く振り下ろす。その度に耳障りな金属音が響き渡るが、躊躇うことなく何度も何度も打ち付けた。
 しかしいくら繰り返しても、鉄製の輪には傷ひとつ付けることすら叶わない。

「あーっ! もう!」

 一向に思い通りにならない拘束具に焦れ、繋がれた鎖を格子にむかってぶん投げた。

「やっぱり、外れないか……」

 さっきから色々足掻いてみたのだけれど、結局囚われているという事実を改めて突きつけられただけだった。

「っい、た……」

 乱れた呼吸を整えつつ痛みの元を辿れば、手首の周りが赤黒く変色していた。かなり手荒に外そうとした所為で鬱血しているらしい。

「はぁ……どうしよう……」

 逃げられないと分かった以上、固まりのような不安が一気に押し寄せてくる。

(私、ずっとこのままなのかな)

 この薄暗い牢の中に閉じ込められたまま、再び昨日のような行為を強いられ、惨めに屈服させられてしまうのだろうか。
 途方もない不安が過ぎると同時に、彼の姿が脳裏に浮かび上がった。いくら振り払おうとしても、雪男の身体で、声で、私を暴こうとする彼の姿が焼きついて離れない。
その度に、腕を振り回して暴れたくなるほどの羞恥と自己嫌悪の念に苛まれた。

「どうして、こんなことになったの……?」

 メフィストさんに提案された作戦で、確かにアイツは表に出てこなくなった筈だった。それなのに、いつの間にか人格が入れ替わり、その主導権さえもアイツが掌握していて……。

「どうして……」

 その時。あたかも私の問いかけに答えるようにして、雪男の声が耳の奥で呼び起こされた。

『彼も大分頑張っていたようだけど、君のせいで全てが台無しになったみたいだね』

 そうだ。彼は、確かにそう言っていた。

「……私の、せい?」

 ずきん、と胸の奥が痛んだ。

「私が、アイツを呼び起こしたの……?」

 そんなこと、今まで考えてみた事すらなかった。あんなに凶悪で恐ろしい人格を、私みたいにちっぽけな存在が目覚めさせているなんて、どう考えたって有り得ない。メフィストさんにいくら諭されようが、そう確信していた。

 ――だけど。私は、何も分かっていなかったのかもしれない。雪男のことも、雪男の中に潜む彼のことも。
 今になって漸く、その事に気が付いた。いや、思い知らされたのだ。彼から告げられた言葉によって。

「どうしたらいいの……」

 急に、見知らぬ街に置き去りにされたような途方も無い寂寥と不安が胸を締め付ける。
 こんな凶行に走らせた原因が私なのだとしたら、私はどうしたらいいのだろう。どうしたら、雪男を守れるんだろう。どうしたら――。

 立てた膝に顔を埋めて、暫くの間、混濁した思考を漂流させた。


「泣いてるの?」

 突然、頭上から振ってきた声に、ぎょっと身体を跳ね起こす。顔を上げれば、私を暗澹した思考に陥らせている張本人が格子の向こう側に佇んでいた。

「なんだ、泣いてないのか」

 彼は意地悪そうに口の端を歪めながら「残念」と続けた。
 私はとっさに逃げを打ちそうになる身体を叱咤し、彼を睨み上げた。加えて、震える唇を強く噛み締める。そうしていないと、心が折れてしまいそうだった。
 そんな私の振る舞いを嘲笑うかのように、雪男は優雅に椅子に腰掛けてみせた。

「ゆっくり休めた?」
「休めるわけないでしょ」
「まあ、そうだよね」

 にっこりと目を細めて雪男が笑う。反応を窺いつつ視線を強めたら、その笑顔がますます深まった。
 と、ふいに雪男の動きが止まった。探るような目線が徐に下降していき、ある一点で留まる。その視線が捉えているものが分からず当惑していると、くぐもった笑い声が聞こえてきた。

「はは、随分と暴れたみたいだね」
「え?」
「怪我してるよ、そこ」

 雪男が指し示す先を辿って、はっと息を呑んだ。

(まずいっ!)

 慌てて右手を背中に隠すが、そんな私の無駄な足掻きすら全て雪男の目に晒されていた。

「こ、これは……」
「そんなにその手錠が邪魔だった?」

 問いかける声はひどく楽しそうで。頭の中で警鐘が鳴り響く。

「駄目だな、ナマエは」

 ゆらり、と伸ばされた腕が、格子に繋がれた鎖の端に触れる。

(また引き摺られる……!)

 覚悟してぎゅっと目を閉じるが、いつまでたっても鎖が動く気配はない。そろそろと瞳を開けると、真っ向から見下ろしてくる雪男と目が合った。

「こっちにおいで」

 それは、服従だけを強いる声だった。
 絶体絶命の状況に、目の前が暗くなっていく。それでも、一歩ずつ前へと進んでいった。
 そうするしか、私に残された道はなかったから。

「ぅっ……!」

 ついに格子の前まで辿り着いたとき。傷を負った右腕を掴まれ、声にならない悲鳴を上げてしまう。

「そんなに怯えた顔しないでよ」
「……っ」

 からかうように囁かれ緊張が極度にまで達する。腕を掴まれただけで、全身を支配されているような錯覚に陥った。

「痛そうだね。そんなにここから出たかった?」
「……」

 出たいに決まっている。だけど、それを口に出せるほど命知らずではない。
 雪男の問いかけには応えず、私は黙ってうつむいた。目を合わせないようにぎゅっと瞼も閉じる。それなのに、こちらを射抜く視線の強さはちっとも緩んでくれない。

 ――また、昨日のようなことをされるのだろうか。あの得体の知れない感覚に翻弄され、みっともなく崩れ落ちてしまうのだろうか。

 私は汗が滲む手の平を握り締め、これから降りかかる恐怖に身を縮こませた。

 しかし、その予想は意外な形で裏切られることになる。

「っ!?」

 ガン、と地面に何かがぶつかる音が耳を打つ。驚いて目を開けてみると、右腕の自由を奪っていた拘束具が足元に転がっていた。

「え……なんで……」

 呆気にとられている私を見て、雪男は「そこに座って」と促した。フリーズしながらも、なんとか言われた通りに膝を折れば、雪男も同じように地べたに腰を下ろす。そしてすぐさま、自由になった右手首の患部に触れてきた。
 あまりにも予想外な展開に、また絶句する。

「えっ、あの、何を……?」
「何って、手当て」

 手当て? コイツが? ……何で?

 訝しく思う気持ちそのままをモロに顔に出してしまったが、雪男は軽く一笑しただけで、すぐに傷ついた腕の手当てを始めた。

(何なんだこの状況……)

 あまりの異常事態に腰がひけている私を他所に、雪男は慣れた手つきで包帯を巻いている。その壊れ物を扱うような手つきに、ますます混乱が深まっていった。

(……いや、流されちゃ駄目だ。これもこいつの作戦なのかもしれない)

 今までの相手の言動を鑑みても、そう考えるのが自然だろう。私はもう一度気を引き締めて、雪男に向き直った。

「目的はなに」
「目的?」
「こんな事をするのには何か目的があるんでしょ。……そうじゃなきゃ、アンタがこんな事するわけない」

 挑発じみた調子は、相手の怒りを買うことも覚悟していたのに、雪男は呆れた様に目を眇めただけだった。

「まだそんな風に思ってたんだ。本当、ナマエって馬鹿だよね」
「なっ! ばっ、馬鹿って!」

 身体を蝕んでいた恐怖も忘れ、気付けば声を上げていた。

「だって、アンタはついこの間まで私のことを殺そうとしてたじゃない!」
「そうだね」

 雪男は面白そうに軽く眉をつりあげ、くつくつと含み笑いをもらした。それがなんだか無性に腹立たしく感じる同時に、振り回されていることを自覚してますます困惑する。相手の意図が全く掴めない。

「確かに、少し前までの僕はナマエを殺すことだけを考えてたよ。だけど少しずつそういう欲求とは別の衝動が僕の中で強くなっていったんだ」
「別のって……どういうこと?」
「……」

 私の問いかけに、雪男はどこか虚ろな目で応えた。それに伴って、満面に浮かべられていた不敵な笑みが剥がれ落ちていく。
 途端に、灯されていた明りを不意に掻き消されたような茫漠とした不安が胸に広がった。

「ナマエには、分からないだろうね」

 その声は、わずかな落胆と苛立ちがまじっているように私の耳に届いた。

「僕を変えたのはナマエなのに、君はその事を分かろうともしない」
「!」

 無表情の中に、一欠片の悲痛さを滲ませて淡々と告げられる。責めるような、助け求め縋るような…そんな見るものを揺さぶる必死さが覗く表情だった。
 がつん、と頭を叩かれたような衝撃が走った。

「私が……?」


 彼を変えた?
 打ちのめされた気持ちで、彼を見返す。しおれた花のような寂しげな風情を醸し出す彼は、私の知らない一人の人間だった。

 ――分からない。彼に告げられた言葉も、こんな表情を向けられる意味も。何もかも。

 だけど、分からないことばかりの中で、こんな表情をさせているのが自分だということだけは直感的に悟った。
 その事が、ひどくもどかしい。

「分からないよ……雪男のことも、アンタのことも……」

 腹の底から突か上げる焦燥に駆り立てられ、気付けば口を開いていた。

「アンタの言う通り、私は何も分かってない。それこそ、分かろうとすらしてなかった」

 現に今だって、彼がこんなに感情豊かになっていたことに初めて気が付いたのだから、相当な愚鈍さだろう。
 ――でも今は、自分の価値観を無闇に信じていたあの頃とは違う。まだ何ひとつ分かってはいないけれど、真実を覆い隠す白い布の一端をようやく掴めたのだ。

「……だから、教えてほしい」

 私はもう、自分が無知なせいで誰かを傷つけるようなことは、したくない。例えそれが、自分を陥れる人間だったとしても。

「どうして私をここに閉じ込めたの? あんたはいったい何を考えてるの?」
「……」
「教えて」

 雪男の目が動揺するように僅かに揺れ動き、視線がゆらりと宙を舞った。そんな些細な変化こそが、彼の中に細やかな感情の機微が存在することを証明していて。
 目まぐるしく移り変わる感情のおもむきを固唾を飲んで凝視していると、彼はさらなる爆弾を投下してきた。

「……だってこうまでしなかったら、ナマエは僕を見てくれないだろう」
「へ?」

 随分と間の抜けた声が出たと思う。惚けていると、畳み掛けるように雪男が答えた。

「ナマエの頭の中にあるものを削ぎ落として、僕の存在だけを埋め込んでやりたかったんだ」
「……っ!」

 告げられた台詞に打ちのめされ、唖然とする。

(何だそれ。そんなのまるで……)

 馬鹿みたいにあんぐりと口を開けて絶句する私の反応をどう捉えたのか、雪男は少しだけ苦々しげな笑みを口元に刷いた。その反応は、とても故意に作り出されているようには思えなかった。

「それって……」
「さてと」

 未だ硬直状態から解かれない私を尻目に、雪男は手際良く手当てを終わらせ、立ち上がった。途端に、降り注ぐ蛍光灯の明かりの逆光でこちらを見下ろす雪男の顔に暗く陰が差した。

「そんなに必死に逃げようとしなくても、この場所が見つけ出されるのも時間の問題だよ」
「え……?」

 突然切り出された言葉の意味をはかりかねる。闇に紛れたその顔には、自嘲めいた笑みを浮かべられているように見えた。

「こんな遊びも、じきに終わる」
 
 ふいに、頬に手を伸ばされた。

「だから……今だけでいいから……」

 続く言葉は紡がれず、代わりに熱を持った頬につめたい手の甲をあてられた。

「ゆ、きお……」

 以前の彼からはあまりにもかけ離れたその姿は、心の抵抗力を削ぐには十分だった。
 何か言わなくては、と開いた口は、答えの無いままぱくぱくと開閉を繰り返す。何か、何か……。しかし焦るほど頭の中は真っ白になってしまい、私は次第に俯いていった。

「雪男、あの……私は、……ぁだっ!?」

 全く予期せぬタイミングで、額にデコピンを食らわされた。地味に痛い。
 訳が分からず涙目になりながら顔を上げれば、そこにはいつもの作り物の表情を貼り付けた彼が居た。

「ははっ、本当に甘いよねナマエって。ちょっとしおらしい態度を見せたらすぐ絆されるんだから」
「なっ……な…っ!」
「そんな風だから僕につけ込まれるんだよ」
「ぐっ!」

 散々な言いようだけど、全く持ってその通りなので言い返せない。

「あまり気を抜かない方がいいよ。次は、容赦しないから」

 そう言う彼は、すっかり元の調子に戻っていた。

(そうだ、何を絆されてるんだ私は)

 指で弾かれた部分が手でおさえながら、置かれている状況を自覚しろ!と必死に言い聞かせる。

 だけど、いくらそうしようとも、喉の奥が焼け付くような息苦しさは何時まで経っても消えなかった。


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