夜を纏う彼



 どこかで水滴の落ちる音がした。
 最近緩くなっている台所の蛇口からかもしれない。断続的に繰り返されるその音が妙に耳について、ゆっくりと目を開ける。
 ――ぼやけた視界には、信じられない光景が広がっていた。

「え……?」

 茫然自失のまま、のろのろと視線だけを動かして辺りを見回す。
 湿った空気が充満する暗く、狭い部屋。無機質なコンクリートの床と壁。目の前には錆付いた鉄格子。その向こうには闇の中にぽつんと佇む主無き椅子がひとつ。
 私は今、牢屋の中にいた。

「なに、これ」

 ざあ、と血の気が引いていく。
 勢い良く身を動かしたところで、手首に鈍い痛みが走った。目を瞠って痛みの元を辿れば、そこには手錠が取り付けられていて。長い鎖の両端にある真新しいふたつの銀色の輪は、一方は自分の腕、もう一方は鉄格子に括りつけられていた。

「……っ!」

 あまりにも現実離れした状況に意識が飛びそうになる。

「お、落ち着け、落ち着けっ……!」

 胸に手を当て深呼吸を繰り返す。
 そこでふと、自分が鉄製のベッドの上に座っていることに気が付いた。固いマットが敷かれただけの寝台は、少し身動きを取るだけで大袈裟に軋んだ。
 ……そうだ。私はさっきもこうやって横たわっていた。こんな寝心地の悪そうな安物のベッドじゃなくて、設備の整えられた医務室の清潔なベッドの上に。あまりにも寝心地が良いものだからそのまま寝こけていたら、痺れを切らしたシュラさんに叩き起こされたんだ。それで、いつの間にか扉の前に立っていた雪男が病室に入ってきて――。
 そこまで思い至ったところで、鉄格子の向こうから重い闇が揺れる気配がした。

「……っ!」

 全身が総毛立つような恐怖が一気に身体を駆け巡り、心臓が早鐘を打つ。

「だ、だれ……?」

 コツ、コツ、と暗闇に響く足音に恐怖が煽られる。確信に近い予感が胸のうちで騒ぎ立て、全身から汗が噴出した。

 ――カチッ

 耳を劈く重い静寂の後、聞きなれた接続音が響く。と、鉄格子の向こうに沈んでいた闇が微かに取り払われた。

「目が覚めた?」

 軽やかな声が反響する。置いてあった椅子に腰掛ける相手の顔を確認して、自分の予感が的中したことを知った。

「雪男……」

 いや、こいつは雪男じゃない。でも、そう呼ぶ以外に何て呼べばいいのか分からなかった。
 未だ鳴り止まない胸を鷲掴みにして、格子の向こう側にいる相手を睨みつけた。

「久し振りだね、ナマエ」

 そう言った雪男の口元には笑みが刷かれ、瞳には爛々とした光が宿されていた。

(やっぱり、意識を失う直前に現れたのは、もうひとりの雪男だったんだ)

 久々に彼と対峙して、忘れかけていた恐怖が一気にぶり返すと同時に、自分が絶対的に不利な状況に追い込まれていることを痛感した。

(私が生きるも死ぬも、こいつ次第――)

 その事実に、足元から崩れ落ちるような絶望感を覚えた。今だ嘗て無い恐怖に襲われ、全身の震えが止まらなかった。
 しかし、そんな怯えた反応を相手に見せる訳にはいかない。私は気丈に相手を睨み上げ、括りつけられた鎖を翳すように右腕を上げた。

「これ、どういうつもり」

 やっと発した声は情けないほど掠れ、震えていて。雪男は溢れる愉悦を噛み砕くように口を開いた。

「どういうつもりって……監禁?」
「どうして、こんな事」
「だって、捕まえておかないと、ナマエは逃げるだろ?もう誰にも邪魔されたくなかったしね」

 鉄格子から少し離れた場所で佇んでいた雪男が、おもむろに足を踏み出した。
 得体の知れない笑みを湛えながら、一歩、また一歩とこちらに近付いてくる。思わず身を引こうとするが、背中に伝わる冷たい壁の感触に、逃げ場がない事を知る。
 おさえきれない震えが背中をのぼった。

「彼も大分頑張っていたようだけど、君のせいで全てが台無しになったみたいだね。まあ僕にとっては好都合だ」

 感情のこもっていない声が鼓膜を揺らすが、内容はほとんど頭に入らなかった。雪男が目前まで迫ってきたからだ。

「やっと、つかまえた」

 縮まった距離に、冷や汗が流れる。
 声色だけは、普段の雪男とまるで区別が付かないほど優しい。だけど、表情はまるで違う。暗闇に紛れてはっきりとは見えないが、そこには前にあったような殺意を孕んだ凶暴さがいや増しているように見えて、私はどうしようもなく恐怖を覚えた。

「っい……!」

 声も出せずに固まっていると、雪男が格子の隙間から手を伸ばしてきた。端正な指先が長い鎖の端を掴み、その先に繋がれた私を引き寄せる。逃げようともがく暇も無く、ずるずると格子の近くへ引き摺り込まれた。
 背筋の震えが止まらない。それは全身に行き渡り、体の全てを痺れさせようとしていた。

「ずっと、ナマエに触れたかった」

 鎖が引かれ、耳元に優しく吹き込まれる。その熱に浮かされたような声色に、唐突に違和感を覚えた。

(どうして、そんなこと……)

 初めの頃は、ただひたすらに私を殺そうとするだけだった。私に向ける殺意こそが、彼の存在を証明するものであり、戦いに耽溺するだけの単純な存在だった。
 だけど今の彼は、あの頃とは確実に違っている。
 少なくとも、こんな鎖で括りつける様な、殺意だけでは説明できない凶行に走るような相手ではなかった筈だ。
 だからこそ私は戦えた。この世の者ではない相手を祓うときのように、迷い無く刀を向けられたんだ。

(それなのに、今ここにいる彼がただの人にしか思えなくなってしまったら、私は……)

「何を考えてるの?」

 頭上から降って来た低い声に、思考を遮られる。我に返って顔を上げると、少しだけ不機嫌そうに眉を顰めてこちらを覗き込む雪男と目が合った。
 息を呑んだ。こんな顔をする彼を見るのは初めてだったから。

「誰のこと考えてたの?」
「え……誰って? 何のこと?」
「……もういいよ」

 咎めるような調子に、内心ビクビクと怯えていると、不意に頭に手を置かれた。
 そのまま髪を撫ぜ、輪郭辿るようにして頬を撫ぜられる。その思いがけず優しい仕草に身動きがとれないでいたら、次に首筋を撫でられた。

「……っ!」

 それは、あきらかに性的な意味が込められていて。
 不意を衝かれたとは言え、あからさまに体が跳ね上がってしまったことに頬が熱くなる。

「……ナマエは、僕だけ見てればいいんだよ」

 耳に届いた音は、耳殻を這うような、ねっとりとした色を含んだもので。囁かれた言葉の意味を理解する間もなく、目前の顔が迫ってきた。

「っ!!」

 唐突に近づいて来た唇を避けることが出来ず、そのまま塞がれる。
 顎を抑えられ、無理やりに開けられた咥内に、舌が差し込まれそうになる。びっくりして、慌てて顔を逸らすが、更に強い力で押さえ込まれた。身を捩るが殆ど意味が無かった。

「やっ、やめ……っ!」

 じたばたと暴れる私の耳元に唇を寄せて、雪男は酷薄な笑みを浮かべながら囁いた。

「僕のお願い、もう忘れちゃった?」

 ぎくりと心臓が引き攣れたような気がした。

「彼に知られたくないんだろう?」

 ほの暗い感情を乗せた響きに背筋が凍り、体から脂汗が浮かんだ。自分じゃどうすることもできないほど呼吸が乱れ、心臓が忙しなく拍動する。
 抵抗は許さない。彼が言いたいのは、そういうことなのだ。

「卑怯だ……!」

 奥歯を強く噛み締め、雪男を睨み上げる。そんな私を見かえしながら、相好を崩した彼は至極楽しそうに笑った。

「なんとでも」

 仕返しとばかりに、また強引に口付けられる。噛み付くようなキスは、抵抗する気力さえ奪っていくようだった。

「んぅっ……」

 腰の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる私の腕をとって、今度はその指先に唇を寄せられる。啄ばむように口付けられる様を目の当たりにして、どうしようもない程の羞恥が湧き上がった。
 ふと、私の指先に落とされていた目線が上がり、首筋に手を伸ばされた。
 そこは、かつて彼に噛み付かれた跡があった箇所だった。

「……ここ、何の跡もついてないね。ナマエはフェレス卿と付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「し、知ってるくせに、この性悪…っ!」
「はは、口が減らないね」

 からかう声色が耳を打つ。心臓が痛いくらいに脈打っているのが分かって、居た堪れなくなった。

「騙される彼も彼だけど。フェレス卿も随分と浅慮だね。どうして悪魔ってこう短絡的なのかな」

 そう言いながら雪男は、まだ状況に着いていけない私を置き去りにして、性急に手を動かし始めた。
 背中をくすぐるように撫でていた手が、腰骨に触れる。かと思えば、コートの下のシャツの裾を辿られ、今度は直に腕の感触がした。

「えっ、ちょっと!」

 シャツの隙間から滑り込んできた指先が、とんでもない場所に触れて、ぎょっと目を剥く。

「や、やだ!」

 ぶわ、と瞬間的に鳥肌が立った衝動で腕を振り上げるが、軽々と諌められる。その上、お仕置きとばかりに神経の集中した付け根の部分を軽く擦られ、血液が逆流するような衝撃が走った。

「……ぁ、あ…っ!」

 ――え。
 なに、今の声。
 私の、声?

 反射的に口元を押さえると、雪男が嬉しそうに喉を鳴らしたのが分かった。

「ははっ、やっぱり尻尾は感じるんだね」

 揶揄する口ぶりに、顔に熱が集まるのが分かった。頬も耳も、首筋まで熱い。心拍が異常に早くなっていく。

「ち、ちがっ、やっ……!」

 必死に否定しようとしても、絶えず触れてくる指先のせいで、ろくに言葉にならない。
 今まで誰にも見られたことのない、悪魔としての証である尻尾を好きなように弄ばれているという事実に、くらくらと眩暈がした。

「いけないな、ナマエは」

 反応していることをからかうように囁かれ、あまりの羞恥に消えてしまいたくなった。
 はずかしくて、たまらない。こわくて、たまらない。
 与えられる刺激に体をつっぱらせて堪えるが、ろくに享受しきれず涙が浮かんだ。足の先まで痺れるような切羽詰った感覚が背中を迸る。未知の感覚に翻弄され、身体中に伝染した熱に浮かされたように、段々と現実感が無くなっていった。

「…ぅ、く……っ!」

 このままじゃどこか知らない場所へ引き摺りこまれそうな気がして、とっさに彼の黒いコートを掴んだ。
 その瞬間、雪男は悦の混じった笑みを浮かべる。一見、幸福そうにも見えるそれが酷く禍々しいものである事を知っていながらも、縋りつく手を離す事は出来なかった。

 私を陥れるのも、救い出すのも、彼しかいないのだ。

「このまましようか」

 その言葉に、ぎくりと心臓が引き攣る。
 慌てて振り仰げば、こちらを見下ろす無慈悲な双眸とかち合った。その目は熱が篭っているようにも、こちらを嘲るようにも、何も捉えていないようにも見えた。
 結局のところ何も分からないのだ。どうしてこんな事をされるのか。こんな事に何の意味があるのか。気に食わないなら力で捻じ伏せればいい。
 こんな風にされるくらいなら、まだ容赦なく拳銃を突きつけられていた方がマシだった。

「どうせ逃げられないんだ。素直になったほうが楽だよ?」

 絶望に突き落とすような宣言が、極上の微笑とともに下される。その瞬間、足元から一気に崩れ落ちるような錯覚に襲われた。

「……も、もういや……」

 未知の感覚に翻弄されている自分が情けなくて、悔しくて、恐ろしくて、鼻に掛かる声を出してぐずる。

「おねがい、もうっ……!」

 許して。
 そんな言葉が我慢していた涙とともに零れ落ちそうになった時だった。


 ――プルルル


 異様な空気を割って裂くまぬけな音。あまりにも不釣合いな音に、一瞬呆けてしまった。

「なんだ。もう時間か」

 訳が分からずひたすら惚けている私から離れ、雪男は音の発生源である携帯を取り出すと、不服そうに双眸を眇めた。

「残念。もう少しだったのに」

 雪男は気だるげに立ち上がり、未だ固まっている私に一瞥をくれる。そうして一度だけ、熱を持った頬に手の甲で触れると、何も言わずに格子の向こう側の闇に消えていった。
 途端に、暗い色調で統べられた空間が、痛いほどの沈黙で満たされる。

「どういうこと……?」

 あまりにも唐突に突き放され、そこはかとない虚脱感に暫し打ちのめされる。

「助かっ、た……?」

 冷えた空間に取り残され、徐々に全身の熱が引いていく。それにつれて熱に浮かされてぐちゃぐちゃになっていた思考も冷静を取り戻していった。
 しかし頭が冷えていくほどに、今し方された行為が思い返され、自分がどれほど危険な状況にあるのか思い知った。

「どうしよう……」

 途方に暮れた呟きは、誰の耳に届くことなく闇に埋もれた空間に消えていった。


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