十一、幽路に立ってはいけない

 誰かに手を引かれながら歩いている。

 あたりの景色は濃い霧に包まれ判然としない。まるで雲の中を歩いてるみたいだった。現実感がまったくない。
 これは夢だと、どこかで私は知っていた。

「どこへ行くの?」

 手をひく誰かに尋ねるが答えはない。でも、私の歩幅に合わせて歩く速度を落としてくれた。

「ねえ、どこへ行くの?」

 もう一度聞いてみる。すると相手は立ち止まって振り返った。顔は暗くてよく見えない。かろうじて見える口元は、ゆるやかに弧を描いていた。
 返事の代わりに微笑みを返して、その人はふたたび歩き始めた。その背中をぼんやりと眺めていると、胸に不可思議な感情が湧き上がった。
 なんだろう。何だか自分の感情すらはっきりとしない。心もこの濃霧の中に落ちてしまったみたいだ。

 手を引かれるまま、ひたすらに霧の中を進み続ける。だがいくらすすんでも霧を抜けることができない。
 次第に、何かから逃げているような錯覚に陥った。振り向いたら、百鬼夜行のように恐ろしい集団が私のあとをぞろぞろと付いてくる。そんな不吉な想像をしてしまい、振り向けなくなった。早くこの得体の知れぬ場所から脱出しなければという焦りが胸に押し寄せて来る。その焦燥感や恐怖から目をそらし、手を引く相手の背中を見つめた。
 
「ねぇ――」

 どこへ行くのかもう一度尋ねかけた時、その人は何かに気づいたように立ち止まった。
 見つめる先には濃い霧が広がっている。その向こう側に、何者かが息を潜めているのをはっきりと感じた。

「ひっ……!」

 恐怖と不安で心臓がどくっと大きく跳ねる。思わず目の前の背中にしがみついた。
 その人は前方に視線を向けたまま、片手を後ろに回して励ますように私の腕に触れた。それだけで、不思議なほど不安がなだめられるのがわかった。

 ふいに金属音が小さく響く。何の音かと出どころを探してぎょっとする。繋がれていないもう一方の手が、腰に帯びた刀にかけられている。その時になって初めて、その人が帯刀していたことに気がついた。
 あっ、と声を出した時には、剣尖が霧の中に吸い込まれていた。白刃の鋭さが私の目に閃光のごとく焼きつく。一瞬の出来事だった。
 斬りつけられた何かが、どさりと音を立てて地面に落ちる。一体何が起きたんだろう。よく分からないけれど、私を脅かす存在が消えたことだけは分かった。

 その人が太刀を鞘に収め、軽やかに振り返った。柔らかな色合いでできたその存在を、今度ははっきりと認識する。
 私は顔をくしゃりと歪め、ああ、と思った。
 
(ああ、そうか。本当は、ずっとあなたが私を――)

 彼は視線を落とすと、私の両手をとった。想いを注ぐようにぎゅっと握り、目を合わせる。ひときわ鮮やかになって胸が高鳴った。

「――」

 彼の名を呼ぼうとするが、できなかった。舌が麻痺したようにうまく動かない。
 どうして、と声にならない掠れた吐息がもれる。その声なき問いかけが聞こえたかのように、彼は目を伏せて微笑んだ。憂いを帯びた表情に胸がきりっと痛む。

 気付けばあたりに立ち込めていた霧は晴れて、強い光に照らされていた。白々とした光はすべてを明るみにする。何かが私を連れ戻そうとしているのだと分かった。本来居るべき場所へと帰すために。

 それでも、私はここにいたかった。彼のそばを離れたくなかった。
 声が出ないから子供みたいにいやいやと首を振る。彼は困ったように微笑みながら、繋いでいた手を離した。

(いやだ! 離さないで!)

 心の中で叫んだ。必死に手を伸ばすけど、その手はもう届かない。どうにもできないもどかしさに胸が締め付けられる。

「そんな顔しなくても、また会えるさ」

 じゃあどうして、あなたはそんな悲しげな顔をしているの?

 ――あるじ。
 背後からそう呼ばれた気がして、私は思わず振り向く。その瞬間、視界が光に覆い尽くされた。


「さあ、目を覚まして。みんな君の帰りを待っているよ」
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