十、鬼火を数えてはいけない

 夜よりも深い闇が私を飲みこもうとしている。

 この頃はもう起き上がることすら出来なくなっていて、ずっと床に臥せっていた。天井の木目模様を見るともなく眺め、魂を蝕む感覚に身を委ねる。あとは静かに終わりを待つだけだった。
 ふと、私の息遣いだけが聞こえる和室に何者かの声が混じる。声の出所を探そうと目だけを動かしてあたりを見回す。部屋の四隅が暗い。その中でも一番暗い隅から、言葉の断片が聞こえてくる。漆黒に目を凝らし耳をすましているとそれが歌であることに気がついた。同じ音を持つ語を繰り返し用いられるその歌はかぞえ唄だ。

 ――八つとや やわらこの子は 鬼の子じゃ 鬼の子じゃ あわいで育てた お子じゃもの お子じゃもの

 畳の上を這うようにして届く歌声がさざ波の如く引いては消え、消えたかと思うとまた始まる。ずっと耳を傾けていると肌がふつふつと粟立った。
 ふいに、横たわる私の耳のすぐ近くを声が通り抜けた。顔のまわりでぶんぶん飛び回る蚊のように耳障りでうるさい。声から逃れようと首を振るがいっそう騒々しくなった。歌声がわんわんと反響する。じっとりと額から脂汗がにじむ。皮膚という皮膚が粟立っている。空気が次第に薄くなり、闇が押しつぶすように迫る。動かせない手足がむず痒くなり、叫び出しそうになったところで、まったく新しい音が聞こえてきた。
 それは水粒が地面を叩く音だった。顔を上げると、開かれた障子からぐずぐずと黒みを帯びた空が見える。次第に雨音は激しさを増していき、気づけば歌声は聞こえなくなっていた。

(助かった……)

 雨音に耳をすませていると次第に恐怖が遠のいていく。そして唐突に理解した。終わりのない雨がないように、この苦しみもやがて終わりが訪れるのだと。
 皮肉なものだ。あれほどに魂の消滅を恐れていたというのに、今はそれが唯一の救いなのだから。



 誰かに名を呼ばれた気がして、ゆるりと瞼を持ち上げる。見上げた先には髭切がいた。この刀らしかぬ沈痛な表情を浮かべて。物珍しくてつい凝視してしまう。じっと見つめていると、次第にその造形の美しさに見入られた。

(やっぱり綺麗だな)

 通った鼻梁も、薄い唇も、きめ細やかな肌も、もう見れなくなると思うとたまらなく惜しく感じられた。もっと飽きるくらい見ておけばよかったと後悔が胸迫る。
 そんな私の心境を知る由もない髭切は物悲しげに微笑んだ。

「ごめんね」

 髭切の声が落ちてくる。その言葉は無意味なものに思えた。何を今さらとも。

「許さない」

 言葉が自然と口を衝く。やたらと軽い響きだった。

「うん、それでいいんだ。最後まで許さなくていい」

 髭切はまるで祈りを聞き届けるかのように微笑んだ。その表情に今にも消えてしまいそうな儚さを感じて、私はとっさに手を伸ばしていた。力の入らない指先が大きな掌に包み込まれる。手を握ってくれる安堵感が心を包む。しかし、もう彼に触れられても苦痛は拭われなかった。抗えない何かが私を連れ去ろうとする。

「許さないよ。髭切のせいで、心残りができちゃったもの」

 髭切が目を丸くする。そして蕾がほころぶような微笑で応えた。それは、今まで見た中で一番美しい表情だと思った。
 ぽつり、ぽつりと。地面と打つ雨音が遠のいてく。ああ、もう時間がない。私はずっと気になっていたことを切り出した。

「私がいなくなったら、髭切はどこに行くの?」
「そうだねぇ。元ある場所に戻ることになるかなぁ」
「そっか」

 ほっとすると同時になんだか寂しくなる。忘れっぽいこの神様のことだ、私のことなんてすぐ忘れてしまうんじゃないだろうか。

「私のこと忘れたら、恨むからね」
「忘れないよ」

 思いがけない力強さで返事をされて面食らう。向けられる眼差しはひどく真剣だった。
 忘れないよ。はっきりと聞こえたその声を、耳の奥で繰り返し響かせる。そして胸の内にあたたかな火が灯った。永久を生きる彼の記憶に残ることが、何よりも幸福だと思えた。
 髭切の両手が頬にふれる。そのあたたかさが泣きたいほど優しく感じられて、ああ、と心の中で呻いた。

(もっと髭切と一緒にいたかったな)

 胸を食い破るような後悔の念に襲われる。ついで、とうに捨て去ったと思っていた生への執着がよみがえった。

(生きたい。どこへも行きたくない。ここにいたい)

 まぶたが熱い。視界が陽炎を映しているのように涙で揺らめく。
 心臓が何かに握りつぶされるような鈍い痛みを感じた。口を開き、空気を吸い込もうとあえいだ。けれどまるで入ってこない。胃のあたりが痙攣するように震えるだけだった。

(ああ、まだ一番大事なことを言えてないのに……)

 すべての感覚が遠のき、世界から遮断されていく。

「君と出会って、僕にも欲があるんだと知った」

 髭切の声はもうほとんど聞き取れなかった。子守唄のような、背中をやわらかく叩く手のひらみたいな声は、次第に遠ざかっていく。

「僕の欲はすべて君から生まれて、君に向かう。君が僕を――」

 目の前が暗くなり、視界が霞みはじめる。もう髭切の姿を見ることはできない。頬に触れる温度も感触も失われていく。

 そうして、私のすべてが途絶えた。
戻る
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -